檀君神話
檀君(だんくん、단군 タングン)は、13世紀末に書かれた『三国遺事』に初めて登場する、一般に紀元前2333年に即位したとされる伝説上の古朝鮮の王。『三国遺事』によると、天神桓因の子桓雄と熊女との間に生まれたと伝えられる。『三国遺事』の原注によると、檀君とは「檀国の君主」の意味であって個人名ではなく、個人名は王倹(おうけん、왕검・ワンゴム)という。
高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に『魏書』からの引用と見られるのが、檀君の文献上の初出である。『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がまったくない。
内容[編集]
『三国遺事』[編集]
13世紀頃に成立した『三国遺事』は、『魏書』と『朝鮮古記』から引用したとあるが、現存する『魏書』に檀君に関する記述はない。また『朝鮮古記』は現在伝わっていない。『三国遺事』は、檀君王倹は1500年にわたって朝鮮を支配し、箕子朝鮮に朝鮮を譲ったあと、1908歳の余生を終え、阿斯達の山神になったと伝えている。
『三国遺事』が引用するが現存していない「朝鮮古記」によれば、桓因(かんいん、桓因は帝釈天の別名である)の庶子である桓雄(かんゆう)が人間界に興味を持ったため、桓因は桓雄に天符印を3つ与え、桓雄は太伯山(現在の妙香山)の頂きの神檀樹の下に風伯、雨師、雲師ら3000人の部下とともに降り[私注 1]、そこに神市という国をおこすと、人間の地を360年余り治めた。
その時に、ある一つの穴に共に棲んでいた一頭の虎と熊が人間になりたいと訴えたので、桓雄は、ヨモギ一握りと蒜(ニンニク)20個を与え、これを食べて100日の間太陽の光を見なければ[1]人間になれるだろうと言った。ただしニンニクが半島に導入されたのは歴史時代と考えられるのでノビルの間違いの可能性もある。
虎は途中で投げ出し人間になれなかったが、熊は21日目に女の姿「熊女」(ゆうじょ)になった。配偶者となる夫が見つからないので、再び桓雄に頼み、桓雄は人の姿に身を変えてこれと結婚し、一子を儲けた。これが檀君王倹(壇君とも記す)である。
檀君は、堯(ぎょう)帝が即位した50年後に平壌城に遷都し朝鮮と号した。以後1500年間朝鮮を統治したが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子を封じたので、檀君は山に隠れて山の神になった。1908歳で亡くなったという。
視三危太伯可以弘益人間、乃授天符印三箇、遣往理之。雄率徒三千、降於太伯山頂(即太伯今妙香山)神壇樹下、謂之神市、是謂桓雄天王也。將風伯雨師雲師、而主穀主命主病主刑主善惡。凡主人間三百六十餘事、在世理化。時、有一熊一虎、同穴而居、常祈于神雄。願化為人。時神遺靈艾一炷。蒜二十枚曰。爾輩食之。不見日光百日。便得人形。熊虎得而食之。忌三七日。熊得女身。虎不能忌。而不得人身。熊女者無與為婚。故每於壇樹下咒願有孕。雄乃假化而婚之。孕生子。號曰壇君王儉。以唐高即位五十年庚寅(唐堯即位元年戊辰。則五十年丁巳。非庚寅也。疑其未實)都平壤城(今西京)始稱朝鮮。又移都於白岳山阿斯達。又名弓(一作方)忽山。又今彌達。御國一千五百年。周虎王即位己卯封箕子於朝鮮。壇君乃移於藏唐京。後還隱於阿斯達為山神。壽一千九百八歲。唐裴矩傳云。高麗本孤竹國。周以封箕子為朝鮮。漢分置三郡。謂玄菟樂浪帶方。通典亦同此說(漢書則真臨樂玄四郡。今云三郡。名又不同何耶)。(三国遺事、紀異第一)
『帝王韻記』[編集]
高麗末期の李承休によって1287年に編纂された『帝王韻記』には、桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれたという。檀君は1028年後に隠退した。ただしこの書は散逸して現存していない。
檀君紀元[編集]
檀君の即位年は、紀元前2333年とすることが現代韓国では一般的になっており、かつてこれを元年とする檀君紀元が1961年まで公式に用いられていた。即位年に関する記述は、文献によって一定しないが、いずれも中国の伝説上の聖人堯の在位中とされている。紀元前2333年説は、『東国通鑑』(1485年)の檀君即位の記述(堯の即位から50年目」)によったものである。『三国遺事』では堯の即位から50年目としつつ、割注で干支が合わず疑わしいとされている。他には、『世宗実録地理志』(1432年)には「唐堯的即位二十五年・戊辰」、つまり堯の即位から25年目とあり、李朝の建国が明の洪武25年であることに合わせてある。
史料[編集]
概要[編集]
高麗時代の一然著『三国遺事』(1280年代成立)に『魏書』からの引用とみられるのが、檀君朝鮮の文献上の初出である[2]。『東国通鑑』(1485年)にも類似の説話が載っている。しかし引用元とされる『魏書』(陳寿の『三国志』や魏収の『北魏書』)などの中国の史書には檀君に該当する記述がまったくないので創作である[3][4][5]。壇君という栄光の王が実在した、あるいは檀君が築いたとされる檀君朝鮮が存在したという証拠はほとんどなく、壇君が実在の人物だった可能性はゼロに近い、と研究者は語っている[6]。また『三国遺事』以前の古書・古記録によっても実在を立証できないため、檀君神話を自国の朝鮮民族主義歴史学の拠り所としている韓国・北朝鮮を除いては、国際的には信頼性や価値がある文献とされていない[2]。中国の史書にはまったく登場せず[7]、初めて朝鮮の歴史書に登場するのも13世紀と遅く、「仏教の宗教説話」の一つとして出てくるだけである。通常は神話として扱われ、歴史事実とは看做されていない。また近年出現した偽書とされる『桓檀古記』『揆園史話』は『三国遺事』とは内容が異なっている[2]。李栄薫は、「檀君神話は創作する過程において日本神話を借用しており、一面では対決した点とともに、多面では模倣した点がみられる」と指摘している[8]。
「王倹」とは、中国の三皇五帝の堯の呼称でもある[2]。堯とは古代中国の治水の神かつ帝である。尭は「黄色い冠で純衣をまとい、白馬にひかせた赤い車に乗った[9]」とされており、雷神としての性質がみられる神でもある。檀君の性質を理解するためにも興味深いことではないだろうか。
『三国遺事』には、檀君朝鮮の最初の王である檀君と最後の王である否王及び準王だけが記録されており、その中間の記録がない[10]。なお、檀君と否王及び準王の中間の記録はまったくないわけではなく、『揆園史話』『桓檀古記』には、檀君朝鮮47代の王名が記録されているが、20世紀に創作された偽書である[10][私注 2]。
『三国遺事』は、中国の『捜神記』と酷似した史書とは名ばかりの多くの民間の奇怪な伝承を集めた怪奇歴史伝説の記録集という指摘があり[11]、檀君について「怪奇小説記事のなかの開国始祖」という評がある[11]。
『三国遺事』の檀君の建国神話は「朝鮮古記」を引用とするものであるが、檀君の建国神話は古代のオーラル・ヒストリーの一部である可能性が高く、その内容の多くは後世に追加されたものとみられる[12]。
韓国の主流の歴史学界は、檀君を「創作された伝説」として否認しているという指摘もある[13]。
檀君神話に対する評価[編集]
檀君神話には「平壌城を都とし、初めて朝鮮と称す」とあることから「王朝成立神話」に相当するが、「王朝成立神話」は、先に王朝が成立していることが前提となってつくられる。「王朝成立神話」の成立条件は、「王朝がすでに成立していること、王朝が成立しているばかりでなく、ある程度安定した政権が維持されていること、自分の政権以外にある程度強い力を持った政権が認識可能な範囲内に存在していること」であり、三韓時代は、高句麗や魏と丸都城・帯方郡を巡って抗争しており安定政権ではない[14]。三国時代は、百済、新羅、高句麗、日本が朝鮮半島で抗争しており、三国時代に「王朝成立神話」を朝鮮の名において宣言するには相応しくなく、統一新羅時代は安定的な政権が約200年継続し、隣国の唐は揺るぎない安定を誇っており、統一新羅時代こそ「王朝成立神話」が醸造されるに相応しい[14]。「王朝成立神話」の醸造時代は高麗でも有りうるが、10世紀以後における神話の成立は時代が降り過ぎている[14]。
桓因が桓雄を人間世界に遣わすにあたり持たせた「天符印」の「印」とは御璽のことである。『説文解字』に「印、執政所持信也」とあり、「印章」とは、政治を執るものが信を明らかにするために所持するものである[15]。『正字通』に「印、秦以前、民皆金玉為印、竜虎鈕、惟其所好、秦以来、天子始用璽、独以玉」とあり、天子が御璽を使用するのは秦代以後であり、檀君神話には「三つの印」「三危太伯」「率徒三千」「人間三百六十余事」などの三あるいは三の倍数に当たる数字が登場し、物語の作者あるいは伝承者は、「三」という数字に軽くない執着をもっている[15]。『易経』に「有天道焉、有人道焉、有地道焉、三材而両之、故六、六者非宅也、三材之道也」とあり、この場合の「三」とは「天地人」であり、『説文解字』に「三、数名、天地人之道也、於文一耦二為三、成数也」とあり、段玉裁の注には「王下曰、三者、天地人也」とある[15]。『説文解字』に「王、天下所帰往也、董仲舒曰、古之造文者、三画而連其中、謂之王、三者、天地人也、而参通之者也、孔子曰、一貫三為王」とあり、「三」という数字は、王為る者の象徴であり、「天地人」という概念が、「三」という数字に象徴され、この概念が定着するのは「天人相関説」を唱えた董仲舒の漢代になる。桓雄に与えられた「三つの印」は、桓因の信頼を証明する印、地上の支配を許されていることを証明する印、地上に生きる人を支配することを許されていることを証明する印をあらわし、それらはとりも直さず「天地人」という概念が裏付けとなっており、檀君神話の成立は漢代以前には遡らない[15]。
檀君神話に登場する主命の「命」は「命令」を指しているとみられ、主病の「病」は漢人の古典『傷寒論』を思わせ、主刑の「刑」は諸子百家の法家・商子を思わせ、主善悪の「善悪」は儒教を思わせる[16]。したがって、檀君神話の成立は、中国思想の朝鮮半島への伝播と熟成時間を考慮すると、中国の歴史で儒教が国是となった漢代経過後の六朝以後、王朝が一定の安定を経験した隋・唐程度まで降るとみられる[16]。
檀君神話に登場する風伯、雨師、雲師という語は、『韓非子』に「風伯進掃、雨師灑道」とあるため秦代には風伯および雨師という語はあったものとみられ、『史記』には「時若薆薆将混濁、召屏翳誅風伯而刑雨師」とあり、『周礼』には「以槱燎祀司中、司令、飌師、雨師」とあるため、風伯および雨師は漢代には中原まで広がっていた概念とみられる。雲師は、『史記』に「(黄帝)遷徙往来無常処、以師兵為営衛、官名皆以雲命、為雲師」とあるため、風伯、雨師、雲師は北方では漢代以降に広がった概念とみられる[17]。
檀君神話の後文にみえる主穀、主命、主病、主刑、主善悪などの表現は『周礼』などに登場する「司書、司会、司諫、司禄、司命、司庫、司刑」などの表現と非常に酷似しており、檀君神話は『周礼』を参考にしているとみられる。これらから檀君神話の成立時期を把握することができる[18]。
姜孟山(延辺大学)などの中国の研究者は、檀君神話は神話であるという大前提から、当時の朝鮮族の政治・生活について以下の結論を導き出している[19]。
- 檀君は人間の王となったとはいいながら実際は天帝桓因の孫であり、自分の先祖を神格化するという後世人の作為が感じられる。
- 天に源を置くというのは「敬天思想」であり、中国古代思想の影響が感じられる。
- 「人獣交婚」などは古代社会の生活の一端を反映しているが、神話ではなく、ある種の物語性が感じられる。
- 檀君神話に登場する桓雄が従えている風伯、雨師、雲師などの有り方は、当時すでに社会階級が成立していたことを示唆しており、権力機構の存在が裏付けになっている。
- 主穀、主命、主病、主刑、主善悪などの名称は、権力機構のそれぞれの役割が明確化されている。
- 主刑、主善悪などの表現は、すでに階級化した時代での社会秩序維持のための暴力機構である警察、軍隊などが存在し、この時代の階級社会が成熟したものであることを物語っている。
- 社会の管理機構は、風伯、雨師などの天に関するもの以外では主穀がはじめに置かれており、当時農業生産が重要な地位にあったことを示唆し、穀物、もぐさ、ニンニクなどが農業生産の対象とされていることがわかる。
王倹について[編集]
平壌の古名として「王険」「王険城」が『史記』朝鮮列伝に出てくるのが初出であり、元来は地名である。12世紀の高麗時代に成立した正史『三国史記』高句麗本紀第五東川王の条には人名として王倹という語が出てくるが、平壌にかつて住んでいた仙人の名前としてであって、檀君という王がいたことは全く書かれていない。
中国地理書[編集]
山海経[編集]
東海之内,北海之隅,有國名曰朝鮮;天毒,其人水居,偎人愛之。(山海経、海内経)
管子[編集]
桓公曰:「四夷不服,恐其逆政,游於天下,而傷寡人,寡人之行,為此有道乎?」管子對曰:「吳越不朝,珠象而以為幣乎!發朝鮮不朝,請文皮毤。服而以為幣乎!禺氏不朝,請以白璧為幣乎!崑崙之虛不朝,請以璆琳琅玕為幣乎!故夫握而不見於手,含而不見於口,而辟千金者,珠也,然後八千里之吳越可得而朝也。一豹之皮容金而金也,然後八千里之發朝鮮可得而朝也,懷而不見於抱,挾而不見於腋,而辟千金者,白璧也,然後八千里之禺氏可得而朝也。簪珥而辟千金者,璆琳琅玕也,然後八千里之崑崙虛可得而朝也;故物無主,事無接,遠近無以相因,則四夷不得而朝矣。」(管子、軽重甲第八十)
中国最古の地理書である『山海経』には「朝鮮」、『管子』には「発朝鮮」と言う国名、地名が書かれており、「朝鮮」という地名はすでに紀元前4世紀頃から有った事が確認されている。しかし具体的にいまのどのあたりを指していたのかは説がわかれるため、はたして特定の決まった地域を指していたのかどうかも判然としない。もちろん「檀君朝鮮」の記述はない。
成立時代[編集]
武田幸男によると、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)が登場したのは、『三国遺事』と『帝王韻記』が著作される13世紀末期以前であり、『三国遺事』が拠る『古記』と『帝王韻記』が拠る『檀君本紀』は『三国史記』より古く、『三国史記』が拠る『旧三国史』系統の記事であることから、11世紀以前とする見解が多く、契丹の高麗侵攻の頃に形づくられ、モンゴルの高麗攻略の際に高い関心を引いて、朝鮮民族が巨大な苦難に直面するときに、民族統合の精神的エネルギーとなった[20]。田中俊明は、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)はモンゴルの高麗侵攻時に、抵抗の拠り所とすべく成立されたとする意見を、外圧によってナショナリズムが覚醒するのは歴史の常としつつ、「檀君神話は、成立が少し遅れる『帝王韻記』にもみえており、『三国遺事』とは別の典拠があったようにみえる。その典拠の成立は、少なくとも、10世紀までさかのぼらせることが可能であり、とすれば、あらたに形成された伝説であっても、モンゴル侵入とは無関係であったと考えざるを得ない。そしてその場合、民族自尊の意識という点では、契丹の侵入がその背景にあったとみなすことができる。ただし、モンゴル侵入期においても、民族統合のシンボルとして機能したことは十分に考えられる」とする[21]。
矢木毅は、『漢書』地理志をはじめ中国史書にも檀君朝鮮に関する伝承はただの一言も触れられておらず、檀君朝鮮を伝える文献が存在しないことから、それらの史書が作られた当時は、檀君朝鮮の伝承が成立していなかったと考えるのが自然であり、檀君朝鮮の舞台は、太伯山と阿斯達であり、これらは平壌の周辺に存在するが、平壌の地は統一新羅の領域外であり、高麗の初代王王建の北進政策により、高麗の領域に入ったにすぎず、従って高麗中期に平壌に存在した土俗的な信仰から創出された後世の説話であることが「定説」となっていると述べている[22]。
井上直樹によると、韓国において琵琶形銅剣と支石墓の分布範囲に基づく檀君朝鮮の研究成果からは、『三国遺事』と『帝王韻記』にみられる檀君朝鮮記事は首肯しがたい状況であるという。日本では、檀君朝鮮(檀君神話、檀君説話)は平壌に伝わる信仰と仏教と道教要素が加味されたものであり、『三国遺事』と『帝王韻記』は、『三国史記』が拠る『旧三国史』の檀君朝鮮記事を引用しているため、10世紀〜11世紀頃の契丹の高麗侵攻時代に形作られ、モンゴル軍の高麗侵攻時代など朝鮮民族が受難を迎えた時に民族統合のエネルギーとなったのが「通説」であり、「そこから歴史的事実を追究するのは困難である」と評する[23]。
韓国・北朝鮮での捉え方[編集]
論点[編集]
李氏朝鮮時代、歴史家の間で確立された見解は、朝鮮の起源を中国の難民にさかのぼり、朝鮮の歴史を中国とつながる歴史の連続だと考えた。殷からの難民箕子が建国したとされる箕子朝鮮と新羅(新羅の前身辰韓は秦からの難民)はこのように価値づけられ、檀君朝鮮と高句麗は重要だとは考えられなかった[24]。しかし1930年代に、民族主義的ジャーナリスト申采浩(1880-1936)の影響を受けて、中国人が建国した箕子朝鮮より、朝鮮の檀君朝鮮の方が重要視されるようになり[25]、檀君朝鮮は民間信仰を、箕子朝鮮は儒教を背景にして、韓国では自国文化尊重ということから、民族文化を形成する檀君朝鮮がだんだん有利となる[26]。申采浩にとって、檀君は朝鮮民族と朝鮮最初の国の創設者であり、朝鮮の歴史のために必要な出発点だった[27]。
北朝鮮学界の檀君朝鮮に関する見解は、「檀君神話は、たとえ幻想的な内容が盛り込まれていても、古朝鮮の建国過程が反映されている」というものであり、檀君神話にシャーマニズムの宗教観やトーテミズムの社会要素をみいだす李基白(이기백、西江大学)の主張に通じる[28]。韓国の歴史教科書もこうした見解を反映しており、神話の人物である檀君を歴史的存在として認める2002年の第7次国定教科書改訂『国史』は、「神話は、その時代の人々の関心が反映されたものであり、歴史的な意味が込められている。これは全ての神話に共通する属性であり、檀君の記録も青銅器時代文化を背景にした古朝鮮の成立という歴史的事実を反映している」と述べている[28]。
韓国の国立中央博物館では、檀君が建国したとされる古朝鮮について、「歴史上、朝鮮半島に誕生した最初の国家」だったと説明され、館内表示には、古朝鮮は紀元前2333年から紀元前108年まで続き、中国の主要王朝と「互角に渡り合えるほどの勢力があった」と書かれており、史実であるとしている。この証拠として、青銅の短剣や陶磁器など、古朝鮮時代のものとされる遺物が展示されており、この時代の朝鮮半島に人の営みがあったことは事実と主張している。しかし、細部については、その真偽を問われており、政治的な意図によって歪められていると歴史学者は指摘している。この時代の朝鮮半島に、国家と言えるだけの規模があったかは、信憑性を問われている[6]。
韓国の歴史教科書における檀君朝鮮[編集]
大韓民国教育部韓国教育開発院が1999年に刊行した『日本・中国の中等学校歴史教科書の韓国関連内容分析』は、日本の教科書『日本史A』に対して、朝鮮史における最初の国家が古朝鮮であるにもかかわらず、朝鮮がはじめて登場するのは漢四郡であること、それは「結果的に朝鮮史の上限を引きずり下ろし、朝鮮の歴史がはじめから中国の支配を受けていたかのように暗示している」と批判している[29]。『日本史B』も日本の朝鮮古代史研究の影響のため古朝鮮の記述はない[30]。韓国の教科書の高等『国史』は、古朝鮮は紀元前2333年に成立し、その支配は中国遼寧から朝鮮半島まで及んでいたと記述され、古朝鮮の根拠を琵琶形銅剣の分布にもとめて、古朝鮮建国の根拠として檀君神話を紹介している[29]。そのことから古朝鮮は韓国国民に広く知られている[29]。『日本・中国の中等学校歴史教科書の韓国関連内容分析』は、望ましい『日本史A』として、韓国の『国史』には記述されているため、朝鮮半島にも旧石器時代から人が住んでいたこと、最初の国家である古朝鮮の実態を認定して、朝鮮の青銅器文化が日本の青銅器文化に影響をあたえたことを明らかにすること、としている[31]。
青銅器文化が形成され、満州遼寧地方と韓半島西北地方には、族長(君長)が治める多くの部族が現れた。檀君はこうした部族を統合し、古朝鮮を建国した。檀君の古朝鮮建国は、わが国の歴史が非常に古いことを示している。また檀君の建国事実と「弘益人間」の建国理念は、わが民族が困難に直面するたびに自矜心を呼び起こす原動力となった。その他にも檀君の建国神話を通して、わが民族が初めて建国した時の状況を推測することができる。熊と虎が登場することからは、先史時代に特定動物を崇拝する信仰が形成され、その要素が反映していることが知られる。また雨・風・雲を主管する人物がいることからは、わが民族最初の国家が農耕社会を背景に成立したことを推測することができる。(中学校、国史、p18)
日本や中国やアメリカでの捉え方[編集]
- ハワイ大学マノア校のMiriam T. Starkは、「箕子が本当に歴史上の人物として実在していたかもしれないが、檀君はより問題がある」と評する[32]。
- ブリガムヤング大学のMark Petersonは、「檀君神話は朝鮮が(中国から)独立しているように望んでいたグループでより多くの人気となった。箕子神話は朝鮮が中国に強い親和性を持っていたことを示したかった人たちに、より有用であった」と評する[33]。
- 武田幸男, 2000-08-01, 朝鮮史, 世界各国史, 山川出版社, ISBN:978-4634413207、には、「もとは平壌地方に伝わった固有の信仰であろうが、仏教的および道教的要素が含まれ、また熊をトーテムとし、シャーマニズム的な面もうかがえる複合的な神語で、かなり整合性につくりあげられたかたちになっている。その民族性をうかがうには、有効かもしれないが、それをとおして、歴史的事実を追究するのは容易ではない」とする[29]。
- 李基白(이기백, 이기백)、西江大学)は、「天帝の息子である桓雄が人間になることに成功した熊女と結婚して檀君を産んだという記録は歴史ではなく神話です。神話はそれが創作された理由があり、その創作された理由をみつけるのが歴史家の使命です」「神話のなかから民族的自尊心をみつける必要性を探していた時代は過ぎ去った過去です。また、歴史が古ければ民族の自慢になるというものでもなく、神話を精神的玉座に奉っても民族意識が高まることもない」と述べている[10]。
日本における檀君研究史[編集]
1667年に徳川光圀の命で刊行された『東国通鑑』の和刻版の序文で林鵞峰は、檀君を朝鮮の祖としながらも、素戔烏尊を三韓の一祖として、日本と朝鮮を同一視する[34]。これによって江戸時代には、檀君=素戔烏尊という主張が多くみられる[34][私注 3]。
落合直澄は、「五十猛神ト檀君トハ同神ニシテ素盞鳴神ノ御子ナル」と述べており、檀君を素盞嗚神の息子である五十猛神と主張している。1667年に刊行された和刻版『東国通鑑』に、林鵞峰が書いた序文「鴻荒の世に在りて、檀君、其の国を開く…我が国史を言えば、これ則ち韓郷の島新羅の国また是れ素戔烏尊の経歴する所なり。尊の雄偉、朴赫・朱蒙・温祚が企て及ぶ可きに非るときは、則ち推め三韓のこれ一祖と為せんもまた、誣しいたりとか為せざらんか」とあることから、落合直澄の「檀君=素盞鳴神の息子五十猛神」という主張は、林鵞峰の「素盞鳴神=三韓の一祖」から導き出したとみられる[35]。落合直澄は、江戸時代の史書『日本春秋』において、朝鮮では「伊檀君曽(いたきそ)」が檀君を指し、檀君の別称が「新羅明神」「日韓神」としていることを根拠に、檀君を「太祈(たき)」と称し、五十猛神の別称が「伊太祈曽」「韓神曽保利」であることから、檀君と五十猛神は同一神であると主張した[35][私注 4]。
今西龍は、韓民族に祖神あることは事実なり。…漢民族の祖神は、韓民族の遠き祖先が祖神となしたるものにあり。而して其名其徳の彷彿として窺ひ知るべきものに新羅の弗矩内あり、任那即ち加羅の夷毗訶あり。弗矩内は漢字訳して赫居世といふ『光を知らす』の義にして、新羅古代の王が奉祀せしものなり」と述べており、檀君神話の起源について歴史的観点から民族および地域の分析をおこない、「檀君は本来、扶余・高句麗・満洲・蒙古等を包括する通古斯族中の扶余の神人にして、今日の朝鮮民族の本体をなす韓種族の神に非ず」と結論づけた[36][私注 5]。
私的考察[編集]
ともかく、Wikipediaの記載は、神話の内容そのものよりも、現代的イデオロギーに関することが多くて「神話の内容はどこ?」と感じる。管理人は現代的イデオロギーについての知識を得ることは教養の一環という以上の興味はなく、あくまでも「比較神話」が興味の対象である。神話というものが一般的に「いつ成立したのか」という点は、歴史的事実にかかわらず「文字にして表されたとき」と考えている。口承文学は社会状況の変化に合わせて内容が変わり得るが、文字にして保存されてしまうと、どんな時代でも「どういう話だったっけ?」と読んで確認できるようになるので、変化のしようがなくなるからである。神話というものが「100%歴史的事実であるか否か」という点は、檀君神話が事実であれば、日本の天孫降臨も、中国の后稷も、ヴェマーレ族のハイヌウェレも全て歴史的事実なので、その全てを客観的に証明して下さい、となる。そう、檀君神話は、拡く「植物化生神話」の一部である、というのが管理人の考えである。特に「植物の子孫」が王権を有した、というニニギの神話と関連が深く、日本の神話の模倣ではなく、日本の神話との類似姓が高いからこそ、文化的に朝鮮と日本が近い時代、すなわち朝鮮人と日本が地理的、文化的に近くに在り、枝分かれする前から原型が存在していた神話、といえると考える。
植物神と檀君[編集]
「檀」というと日本ではマユミという樹のことで、弓の材料として使われていた。日本と中国の林に自生している、とのことである[37]。
一方、「白檀」というとサンダルウッドのことで、インド原産で[38]、インドでは古くはサンスクリットでチャンダナ(चन्दनम्, candana})とよばれ仏典『観仏三昧海経』では牛頭山(西ガーツ山脈のマラヤ山(摩羅耶山 秣刺耶山)とされる)に生える牛頭栴檀(ゴーシールシャ・チャンダナ , gośīrṣa-candana)として有名であった[39]。おそらく、檀君神話の「檀」はビャクダンのことを指すのであり、その点が「仏教の影響」と言われるのであろう。
東アジアにおける「植物神」は単なる植物の擬人化にとどまらず、「王権」と「栽培技術」とに大きく結びついたものとなっているように思う。中国の炎帝神農は植物神そのものというよりも「栽培技術の神」といえ、かつ王権者でもある。その代わり、植物そのものの神としての性質は弱い。中国神話では、植物神そのものとしての性質は后稷の方が強いと考える。死後、その姿が植物に化生したと暗示されているからである。后稷は天の神の子供であることが暗示されており、天の神と地上の女性との間に生まれた子供である点は檀君と共通している。ただし、檀君が王権者である点は炎帝神農と共通している。そして、檀君は王権者であることが強調されているためと思われるが、「農業や植物栽培の神」としての性質はほとんど示されていない。古代中国神話との関係でいえば、おそらく、炎帝神農と后稷は元は「同じ神」であって、それが特に「王権者」であることが強調される炎帝神農と、栽培者である后稷に分けられたのではないか、と思う。とすれば、炎帝神農の原型(これを「原神農」と呼ぶことにする。)には、本来穀物神や樹木神といった植物神としての性質も備わっていたと推察される。おそらく、中国東北部で発生した「原神農」が中国、朝鮮、日本へと枝分かれしながら分布し、各地でそれぞれに分化したものが、中国では炎帝神農と后稷になり、朝鮮では檀君となったのだと考える。そのため、檀君には炎帝神農と后稷の両方と共通した要素が含まれている。檀君に「栽培技術の神」としての性質が乏しいのは文章化された時代が13世紀と比較的遅く、為政者が農業技術の開発に直接関わるような時代ではもはやなくなっていたことも大きく影響しているのではないか、と思う。
日本神話との比較について。日本神話は、稲作に関連するニニギ、植樹と林業に関する須佐之男と五十猛神、物部氏の祖神であるニギハヤヒが主に「天から降臨した神」として挙げられると思うが、その他にも中津国平定に関わった、とされる天穂日命、天稚彦、建御雷神と、主たる「天から降臨した神」だけでも複数の神が存在する。管理人の考えでは、これらは元は一柱か二柱の神であったものが、それぞれの役割に応じて細分化されたものである。中でも植物に関するのはニニギと須佐之男・五十猛神である。ニニギは穀物神そのものである。須佐之男の子孫とされる神々には稲作の技術に関する複数の神々がいる。五十猛神は樹木の神であるのみならず林業や木地師の神でもある。そのため、須佐之男と五十猛神がどの樹木の神なのかというと日本では建築に良く用いられる「杉の木の神」とするのが妥当と思われる。杉の木は古語で「進木(すすき=まっすぐに伸びる木)」と言われており、須佐之男の名前の由来ともなっているのではないか、と管理人は思う。要は須佐之男には、栽培技術の神として炎帝神農としての性質と、樹木神としての性質の両方が含まれている。ニニギは后稷的な性質も有しているが、「王権の神」であるところは炎帝神農的でもあり、檀君とも共通した性質である。五十猛神は樹木神であるところが檀君と共通している。とすれば、ニニギ、須佐之男、五十猛神は日本に伝播した原神農が、それぞれの役割に応じて細分化したもので、それは中国に伝播したものが炎帝神農と后稷に分かれたのと似ているように思う。すなわち、日本神話と比すれば、檀君はニニギ、須佐之男、五十猛神を併せた神といえよう。檀君が日本の神々を模倣しているのではない。日本神話が、檀君の元となったと思われる原神農を3つ、あるいはそれ以上に分割して作られているのである。「天から降臨した神」という点は、檀君の父とされる桓雄にもその性質の一部が分けられているといえる。
熊トーテムについて[編集]
檀君神話の檀君のトーテムは熊であると思う。そして、これが父系でなく母系のトーテムであることが興味深いと感じる。13世紀の朝鮮と言えば、儒教の影響もあるし父系社会であると思うし、母系の要素がどのくらい社会的に残存していたのか定かでないのだが、檀君神話にはトーテムが母方のものである、という母系の要素が残っており、それが檀君神話の起源が父系の文化が確立されるよりも前の古い時代にあることを示唆しているように思う。中国の神話では、炎帝や黄帝については「有熊氏」とか「有熊国」というものが関わっており、この国の住人であった黄帝と炎帝の父とされる者が「熊を操ることが巧みだった」と言われているのは、彼らのトーテムが熊であり、熊と近しい存在と考えられていたからではないか、と思う。ただし、中国の神話では黄帝と炎帝の「熊トーテム」は父系のものであって、母系のトーテムとはされていない。これは時代が下るにつれて、母系のトーテムが父系のトーテムへと変更されてしまったのではないか、と考える。日本神話は記紀神話の段階で、大抵が人間に近い人格神にされてしまっていて、熊トーテムの存在は明確でない。ただし、神話の中には名前に「熊」とつく神が複数存在するし、信仰の対象となっている「熊野」という地名が熊と神霊とに密接な関係があることを示しているように思う。よって、トーテムから見ても檀君は炎帝に近い存在なのではないか、と思われる。
また、檀君神話には熊と虎という2種類のトーテムが登場するが、熊は成功し、虎は失敗する、というようなトーテムによる行動結果の差があり、熊の方が虎よりも優位である、という表現がなされている。トーテム(出自)によって階級がある、という階級社会が形成されていることを示すものと思われる。
岩戸神話と檀君[編集]
檀君神話では熊女は自ら洞穴に籠もって人間になるための修行をする。それが成功したから彼女は人間になれる。日本神話では天照大神が岩戸に閉じこもり、結果的には部下の神々に救出される。これらは一方では、熊のような冬眠をする動物の冬ごもりから着想を得たものであると思うし、熊がトーテムであることとも関連すると思う。そして、この考えの発展系と言えるかもしれないが、日本や朝鮮には「棄老」という概念があったように思う。これは年を取った老人を山に捨てたり、穴に埋めたりするもので、日本では姥捨、朝鮮では高麗葬という。日本では山に老人を捨てた、という風習は存在したか否かはっきりしないが、平安時代の貴族階級には仏教などとの影響と相まって、病人が出ると亡くなる前に墓所地に捨ててくる、という風習があり、「人が亡くなる前に看病をせずに遺棄してしまう」ということに抵抗のない文化・風習があったことが窺える。「洞窟に籠もる」ということは「棄老」を暗示しており、「殺されること」を意味すると思う。ただし、この「女性が洞窟的な場所に籠もる」という伝承群は、「そこからの救出」を伴っていることが多いように感じる。この点での類話としては西欧の民話である「ラプンツェル」や「赤ずきん」を想定している。ラプンツェルは捕らわれていた塔から救出される。赤ずきんは「狼の腹の中」から救出される。これらと比較すると、天照大神は閉じこもっていた岩戸から部下達に救出される点が共通している。檀君神話の熊女は修行のために自ら洞窟に籠もり、満願があけると自ら出てくるので、その点が仏教の影響であると思う。本来は誰かに救出される話だったのではないだろうか。とすると、興味深い点が更にある。日本神話では天照大神は弟の須佐之男の狼藉で岩戸に籠もる。須佐之男は天照大神の弟ではあるが天照大神との間に子供を成しており、天照大神の夫である、ともいえる。朝鮮の本来の仏教の影響を受ける前の檀君神話では、熊女は夫の桓雄の狼藉を受けて洞窟に籠もったのだろうか、それとも、夫の桓雄に救出されて桓雄の妻となったのであろうか。個人的には、管理人は須佐之男と同じパターンではなかったかと思うのだが、興味深いことである[私注 6]。
その他[編集]
散逸した文献には、桓雄の孫娘が薬を飲んで人間になって、檀樹神と婚姻して檀君が生まれたとあったとされる。このように
父親(祖父)-娘・熊女(と婿の檀樹神)-孫
という形式の神話は、賀茂氏の祖神神話と共通している。それは
賀茂建角身命(八咫烏)-玉依姫(と婿の火雷神)-賀茂別雷命
である。熊女の姿に母系のトーテムが残っているので、もしかしたらこちらの形式の方が古い形かもしれない、と管理人は考える。父系的な檀君神話の方が儒教的な影響を受けて成立したものとは言えないだろうか。賀茂氏的な母系の系図の特徴は、母系、すなわち熊女や玉依姫が「母系の女神」のように見えながら、その親として「父親」が存在しており、結果として「父系」の中の「母系」に過ぎない、という点だと思う。これは日本神話の
イザナギ-天照大神(と婿の須佐之男)-その子孫の皇族達
という系図も類似しているように思う。これらの系図の共通点は、父親の妻(娘である女神の母)の存在が非常に希薄である点だと思う。熊女と玉依姫の母の存在は明確にされていない。天照大神にはイザナミという母親がいるが、イザナミは黄泉の国にいるので、通常の神々の世界には関わらない。
また、「檀樹神」というと須佐之男には樹木神としての性質があるので、より須佐之男との類似性が高まるように思う。とすると、洞窟に籠もる所が天照大神と共通しているし、熊女には本来「太陽女神」としての性質も存在したのではないだろうか。西欧の民話には熊が異界の火の持ち主である、というものもある。須佐之男には「泣き喚く神」として雷神のような性質もあるし、檀君神話、賀茂神話、日本神話のそれぞれの関連性が興味深いといえる。
参考文献[編集]
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- Wikipedia:檀君(最終閲覧日:22-09-05)
関連項目[編集]
私的注釈[編集]
- ↑ この部分がニニギやニギハヤヒの降臨の模倣とされたのだろうか?
- ↑ 管理人個人としては、伝承を、伝承からのみで事実であるか否かを論じるのは、グリム童話の内容が歴史的事実であるか否かを論じるのと同じで意味がないことと思う。歴史的事実はあくまでも客観的な資料から証明されるべきで、きちんと証明された歴史的事実と伝承を併せて考察したときに、その地域の人々の伝統的な精神文化が理解できる、とそういうものなのではないだろうか、と思うからである。
- ↑ 「同一視」ではなく、比較神話の観点から見れば、天から地上に降りた須佐之男に相当するのは檀君の父親の桓雄であると思う。
- ↑ 興味深い説ではある。ただし、五十猛神は木地師といった職能の神といえ、王権の神、とは性質が異なると考える。また、檀君神話では檀君の母親が熊女である点が明確だが、五十猛神は母方の系譜が明確でない。須佐之男を中心とした神話に類話を求めるのであれば、母方の系譜が明確で、かつ王権とも結びついているニニギが朝鮮における檀君と同じ性質なものといえると思う。ただ、名前の類似姓があるのであれば、起源的に檀君と五十猛神は同じ神である可能性はあると思う。須佐之男の子神のうち、「天から地上に降りた神」が存在し、それがニニギ、ニギハヤヒ、五十猛神等に日本の国で細かく分けられたのであれば、いずれも元は檀君と同じ神である、といえるのではないだろうか。
- ↑ 扶余・高句麗・満洲・蒙古・日本そして中国の一部の「共祖」は必ずしもツングース系とはいえないのではないか? と思うが、これらの民族に共通した先祖と祖神神話があるという考えは管理人もほぼ同一といえる。
- ↑ 管理人がこう考える理由は、桓雄も須佐之男と同様「天から降りてきた神」でからで、降りてきたことについてはやはり何らかの理由が本来の神話では存在したのではないだろうか。
参照[編集]
- ↑ これは日本神話と比較すれば天照大神の「岩戸隠れ」に対応するものだと考える。一定期間の「籠もり」とその後の「再生」はトーテムが熊であれば、「冬ごもり」を指すのだろうと思われ、興味深い。
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