差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
1,236 バイト追加 、 2022年12月11日 (日) 18:19
ただし、「美女と野獣」では、「(切り)倒す神」と「倒される植物神」との戦いは物語の主題ではなく、ただ「父親が薔薇の花を手折った。」ということで片付けられてしまう。植物神を切り倒した後は、倒したものそのものを「加工・再生・再利用する作業」と「新たな植物(神)の栽培作業」の2つが必要となる。どちらを司るのも「母なる女神」の役割と思われる。「倒された植物神」から種を採り、芽吹かせ、育てる作業も「加工・再生・再利用する作業」の内だからである。古代の人々は死んだ植物から新たな芽(命)を発生させる過程に、'''他の生命を捧げなければならない'''、と考えたようである。これは「芽吹かせる役割」を持つ「母女神」の食料という意味もあったかもしれないし、新しい命と引き換えに古い命が必要とされる、と考えたのかもしれない。(そして、もっとあり得そうなことは、「生贄」を捧げなければならない、として政敵といった邪魔な人間を合法的に消してしまうための口実だったのかもしれない。)ともかく、これは人々が結婚して子孫を残すことになぞらえて、「女神と生贄(新たな植物神の(父)親となる「植物神」に見たてられた人間)との結婚」とされたようである。女神が「母女神」しか存在しない場合にはこの女神は夫と結婚しては(植物として成長した)夫を殺し、また夫との間の子(である植物)を育てては夫とした後殺す、といったように神話的には「夫を次々と殺しては、また新しい男と結婚する」ような血なまぐさい性質を負うこととなったと考えられる。しかも、このままでは人間の生活に投影した場合、近親相姦の繰り返し、という倫理的には不謹慎、遺伝子的には不利益という状況がつきまとう。そのため、「母女神」から「妻女神」を新たに分離し、「母女神」を上位、「妻女神」を下位とする神話の再編が行われたものと考える。母女神は息子である植物神の結婚を取り仕切り、その次の世代の繁栄と豊穣を願う。
 この場合、若い「妻女神」は時に「植物神」に対する人身御供とみなされることが多いように思う。(そうではないパターンの神話もある。)日本神話でいえば、須佐之男命の妻的立場でありながら岩戸に籠もってしまう天照大御神、明確に殺される稚日女尊、大宜都比売は「植物の豊穣に対する人身御供としての妻神」であると思う。メソポタミア神話のニンリルもこれに相当する。一方、妻となり、次の世代の母となって君臨する萬幡豊秋津師比売命(天火明命)、夫の再生に関わる下光比売命のように殺されない女神も存在するので、何がなんでも「嫁」たる女神を殺さなければならない、ということではないのだが、ともかく「妻女神」には「人身御供」としての要素が含まれる場合があるので、彼女の「結婚」は必ずしも「喜ばしいもの」とばかりは言えないと感じる。「美女と野獣」ではここでもう一つの「要素」が登場する。それは「植物神と若い妻女神の婚姻と若い女神の死」という要素である。

案内メニュー