差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
910 バイト追加 、 2022年12月11日 (日) 17:34
の2つに分かれる。「倒され再生される木」の一生としては、「木が育ち倒れることから、加工され別の物に再生される」ことまでがその木の「運命」というか「生涯」といえるが、女神が「倒れろ」と述べたからといって木が勝手に倒れることは現実的ではないので、女神の補助役として「木を切り倒す神」が新たに作られ、それを役割とする職業が創設されて、「ただ倒れ、利用されるだけの獣人(樹木神)(と等価の人間)」から枝分かれして「職人としての人間」の地位が作られたものと考える。彼らは女神の伐採・加工・再生業の補助者として、一般の人々よりも神に近い存在として考えられたことと思う。これが後に「倒す神」として神となったものが[[エスス]]であり、神ほどに昇格しなくても半神半人の英雄のようになったものがヘーラークレースのようなものと考える。神に近い指導者的な英雄から、後に更に社会が階層化してくると「王」というものが発生してくるように思われる。人間の中から、自らの補助者としての「王」を選ぶのも、その地位を奪うのも「女神の役割」とされていたのではないだろうか。それはともかく、「女神」に関わる「男性神」は「(切り)倒す神」と「倒される植物神」の2つに大きく分かれたように思われる。それが「美女と野獣」では「(切り)倒す神」が父親、「倒される植物神」が獣人となる。この物語での「父親」は商人なので、倒した獣から得たものを更に売りさばいて、商業の豊穣をもたらす神としての側面も暗に込められているように思う。この神を北欧神話ではオーディンと呼び、古代のフランス(ガリア)においてはローマ人は、自らの神であるメルクリウスである、と一つにまとめて呼んでいたように思う。[[エスス]]のような「(切り)倒す神」であり、かつメルクリウスのような「商人の神」でもあるところは、この物語の「父親」は元はオーディンに近い性質を持った神であったことが窺える。獣人はオーディンに倒されたユミルの様な怪物・巨人神に近いものといえる。彼らに、このような「死と再生の戦闘儀礼」を行わせたのが「母なる女神」である、という思想がかつてあったと思われる。
ただし、「美女と野獣」では、「(切り)倒す神」と「倒される植物神」との戦いは物語の主題ではなく、ただ「父親が薔薇の花を手折った。」ということで片付けられてしまう。植物神を切り倒した後は、倒したものそのものを「加工・再生・再利用する作業」と「新たな植物(神)の栽培作業」の2つが必要となる。どちらを司るのも「母なる女神」の役割と思われる。「倒された植物神」から種を採り、芽吹かせ、育てる作業も「加工・再生・再利用する作業」の内だからである。古代の人々は死んだ植物から新たな芽(命)を発生させる過程に、'''他の生命を捧げなければならない'''、と考えたようである。これは「芽吹かせる役割」を持つ「母女神」の食料という意味もあったかもしれないし、新しい命と引き換えに古い命が必要とされる、と考えたのかもしれない。(そして、もっとあり得そうなことは、「生贄」を捧げなければならない、として政敵といった邪魔な人間を合法的に消してしまうための口実だったのかもしれない。)ともかく、これは人々が結婚して子孫を残すことになぞらえて、「女神と生贄(新たな植物神の(父)親となる「植物神」に見たてられた人間)との結婚」とされたようである。、と考えたようである。これは「芽吹かせる役割」を持つ「母女神」の食料という意味もあったかもしれないし、新しい命と引き換えに古い命が必要とされる、と考えたのかもしれない。(そして、もっとあり得そうなことは、「生贄」を捧げなければならない、として政敵といった邪魔な人間を合法的に消してしまうための口実だったのかもしれない。)ともかく、これは人々が結婚して子孫を残すことになぞらえて、「女神と生贄(新たな植物神の(父)親となる「植物神」に見たてられた人間)との結婚」とされたようである。女神が「母女神」しか存在しない場合にはこの女神は夫と結婚しては(植物として成長した)夫を殺し、また夫との間の子(である植物)を育てては夫とした後殺す、といったように神話的には「夫を次々と殺しては、また新しい男と結婚する」ような血なまぐさい性質を負うこととなったと考えられる。しかも、このままでは人間の生活に投影した場合、近親相姦の繰り返し、という倫理的には不謹慎、遺伝子的には不利益という状況がつきまとう。そのため、「母女神」から「妻女神」を新たに分離し、「母女神」を上位、「妻女神」を下位とする神話の再編が行われたものと考える。母女神は息子である植物神の結婚を取り仕切り、その次の世代の繁栄と豊穣を願う。 

案内メニュー