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* 猿供養寺村の人柱
:: 鎌倉時代のこと<ref name="猿供養寺村, PWRI">地すべりと人柱伝説 , http://www.pwri.go.jp/team/niigata/column.html , 独立行政法人 土木研究所 土砂管理研究グループ 雪崩・地すべり研究センター , 2012-10-14</ref><ref group="*">21世紀初頭の資料(雪崩・地すべり研究センター資料)には「この伝説は、今から約800年前の鎌倉時代のことです」とあるので、非常におおまかながら1200年代前後か。そうであれば、鎌倉中期ということになる。</ref>、越後国頸城郡の猿供養寺村(現・新潟県上越市板倉区猿供養寺)<ref group="*">地名の変遷 : 越後国頸城郡]猿供養寺村 → 新潟県中頸城郡寺野村猿供養寺 → 新潟県中頸城郡板倉町猿供養寺 → 新潟県上越市板倉区猿供養寺。</ref>を訪れた遊行僧が、地すべり被害の絶えなかった土地の人々のため、自ら人柱となって災禍を止めた<ref name="人柱塔, 上越市">板倉区の文化財 : 人柱塔人骨 , http://www.city.joetsu.niigata.jp/soshiki/itakura-ku/itakura-ca-19.html , 上越市 , 2012-10-14</ref>。この話は長らく伝説とされていたが、1937年(昭和12年)3月10日、地元・正浄寺裏の客土中から大甕に入った推定年齢40歳前後の男性人骨(脚が太く腕は細いことから旅人であり肉体労働者ではなかったと思われる)が座禅の姿勢で発見され、史実であることが確認された。
* {{Anchors|吉田郡山城の人柱代用の百万一心碑}}[[吉田郡山城]]の人柱代用の[[百万一心]]碑:: 毛利元就が築城した時、石垣がたびたび崩れるため、巡礼の娘を人柱にする話が持ち上がった。ところが元就が人命を尊重して人柱を止めさせ、「百万一心」の文字を石に書いて埋め、築城を成功させたというもの。吉田郡山城築城開始直後の1524年のことか。詳しくは[[百万一心]]の項目を参照。* [[日出城]]の人柱日出城の人柱:: [[1601年]]([[慶長]]6年)から[[1602年]](慶長7年)にかけての築城の際に入れられた人柱の伝説が残る。[[1960年]]([[昭和]]35年)、城下海岸遊歩道の工事中、城の西南端から木棺が発掘された。木棺は岩盤をくり抜いた穴の中に納められ、その上に大石が載せらて石垣の基礎となっていた。棺の中からは老武士らしき人骨とともに陶製の翁像が、大石の上からは兜の金具などが発見された。[[大分大学]]教授らの調査の結果、日出城築城当時の人骨であることが推定された。築城工事は城の西南部の地盤が弱く難工事であったと伝えられており、城の[[裏鬼門]]にあたる方角に位置するため、人柱を立てたのではないかと考えられている。棺が出土した地点の石上には「人柱祠(ひとばしらのほこら)」が祀られている1601年(慶長6年)から1602年(慶長7年)にかけての築城の際に入れられた人柱の伝説が残る。1960年(昭和35年)、城下海岸遊歩道の工事中、城の西南端から木棺が発掘された。木棺は岩盤をくり抜いた穴の中に納められ、その上に大石が載せらて石垣の基礎となっていた。棺の中からは老武士らしき人骨とともに陶製の翁像が、大石の上からは兜の金具などが発見された。大分大学教授らの調査の結果、日出城築城当時の人骨であることが推定された。築城工事は城の西南部の地盤が弱く難工事であったと伝えられており、城の裏鬼門にあたる方角に位置するため、人柱を立てたのではないかと考えられている。棺が出土した地点の石上には「人柱祠(ひとばしらのほこら)」が祀られている<ref>日出町教育委員会「人柱祠」案内板</ref>。 ==== 人柱の代替 ====* 吉田郡山城の人柱代用の百万一心碑:: 毛利元就が築城した時、石垣がたびたび崩れるため、巡礼の娘を人柱にする話が持ち上がった。ところが元就が人命を尊重して人柱を止めさせ、「百万一心」の文字を石に書いて埋め、築城を成功させたというもの。吉田郡山城築城開始直後の1524年のことか。詳しくは百万一心の項目を参照。 
* {{Anchors|江戸城伏見櫓の人柱}}[[江戸城伏見櫓]]の人柱
:: かつての[[江戸城]]伏見[[櫓 (城郭)|櫓]](現在の[[皇居]]伏見櫓)は、[[徳川家康]]が[[伏見城]]の櫓を解体して移築したものと伝えられているが、[[1923年]]([[大正]]12年)に発生した[[関東地震|大正関東地震]]([[関東大震災]])で倒壊し、その改修工事の最中、頭の上に古銭が一枚ずつ載せられた16体の人骨が発見され、皇居から人柱かと報道されたこともあり大騒ぎになった。伝説を信じれば、1603年〜1614年の慶長期築城の時、伏見城の櫓を移築した後で人柱を埋めたことになる。

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