古代の日本では総じて牛より馬の数が多かった<ref>松井章 「狩猟と家畜」『暮らしと生業』 上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦編、岩波書店〈列島の古代史〉第2巻、2005年10月。ISBN 4000280627。196頁。</ref>。平安時代の『延喜式』では、東国すべての国で蘇が貢納されており、牛の分布の地域差は大きくなかったようである<ref>市川, 2010, pp4-5</ref>。ところが中世に入ると馬は東国、牛は西国という地域差が生まれた。東国では武士団の勃興に伴い馬が主体の家畜構成になったと考えられている<ref>市川, 2010, p7</ref>。東西の地域差は明治時代のはじめまで続いており、明治初期の統計では、伊勢湾と若狭湾を結ぶ線を境として東が馬、西が牛という状況が見て取れる<ref>市川, 2010, pp5-6</ref>。
牛肉食は公的には禁忌となったものの、実際には細々と食べ続けられていたと考えられている。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[ポルトガル]]の[[宣教師]]たちによって牛肉食の習慣が一部に持ち込まれ、[[キリシタン大名]]の[[高山右近]]らが牛肉を振舞ったとの記録もある牛肉食は公的には禁忌となったものの、実際には細々と食べ続けられていたと考えられている。戦国時代にはポルトガルの宣教師たちによって牛肉食の習慣が一部に持ち込まれ、キリシタン大名の高山右近らが牛肉を振舞ったとの記録もある<ref>本山荻舟 『飲食事典』 平凡社、1958年12月25日、160頁。</ref>ものの、禁忌であるとの思想を覆すまでにはいたらず、キリスト教が排斥されるに伴い牛肉食は再びすたれた。[[江戸時代]]には生類憐みの令によってさらに肉食の禁忌は強まったが、大都市にあった[[ももんじ屋]]と呼ばれる獣肉店ではウシも販売され、また[[彦根藩]]は幕府への献上品として牛肉を献上しているなど、まったく途絶えてしまったというわけではなかったものの、禁忌であるとの思想を覆すまでにはいたらず、キリスト教が排斥されるに伴い牛肉食は再びすたれた。江戸時代には生類憐みの令によってさらに肉食の禁忌は強まったが、大都市にあったももんじ屋と呼ばれる獣肉店ではウシも販売され、また彦根藩は幕府への献上品として牛肉を献上しているなど、まったく途絶えてしまったというわけではなかった<ref>原田信男編著 『江戸の料理と食生活:ヴィジュアル日本生活史』 小学館、2004年6月20日第1版第1刷、87頁。</ref>。しかし、日本においてウシの主要な用途はあくまでも役牛としての利用であり続けた。
日本においてウシが公然と食されるようになるのは[[明治時代]]である。[[文明開化]]によって欧米の文化が流入する中、欧米の重要な食文化である牛肉食もまた流れ込み、[[銀座]]において[[牛鍋]]屋が人気を博すなど、次第に牛肉食も市民権を得ていった。また、乳製品の利用・製造も復活した。
== 文化と宗教 ==
{{See also|en:Cattle in religion}}
人間に身近で、印象的な角を持つ大型家畜である牛は、世界各地で信仰対象や動物に関連する様々な民俗・文化のテーマになってきた。