当初から日本では役畜や牛車の牽引としての使用が主であったが、牛肉も食されていたほか、牛角・牛皮や骨髄の利用も行われていたと考えられている。675年に天武天皇は、牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁じた。禁止令発出後もウシの肉はしばしば食されていたものの、禁止令は以後も鎌倉時代初期に至るまで繰り返して発出され<ref>『肉の科学』 沖谷明紘編、朝倉書店、1996年5月20日、初版第1刷。8頁。</ref>、やがて肉食は農耕に害をもたらす行為とみなされ、肉食そのものが穢れであるとの考え方が広がり、牛肉食はすたれていった。8世紀から10世紀ごろにかけては酪や、蘇、醍醐といった乳製品が製造されていたが、朝廷の衰微とともに製造も途絶え、以後日本では明治時代に至るまで乳製品の製造・使用は行われなかった。
また、広島県の[[草戸千軒町遺跡]]出土の頭骨のない牛の出土事例などから頭骨を用いた祭祀用途も想定されており、馬が特定の権力者と結びつき丁重に埋葬される事例が見られるのに対し、牛の埋葬事例は見られないことが指摘されている。また、広島県の草戸千軒町遺跡出土の頭骨のない牛の出土事例などから頭骨を用いた祭祀用途も想定されており、馬が特定の権力者と結びつき丁重に埋葬される事例が見られるのに対し、牛の埋葬事例は見られないことが指摘されている。
古代の日本では総じて牛より馬の数が多かった<ref>松井章 「狩猟と家畜」『暮らしと生業』 上原真人・白石太一郎・吉川真司・吉村武彦編、岩波書店〈列島の古代史〉第2巻、2005年10月。ISBN 4000280627。196頁。</ref>。平安時代の『[[延喜式]]』では、東国すべての国で蘇が貢納されており、牛の分布の地域差は大きくなかったようである{{sfn|。平安時代の『延喜式』では、東国すべての国で蘇が貢納されており、牛の分布の地域差は大きくなかったようである<ref>市川|, 2010|pp=4, pp4-5}}。ところが中世に入ると馬は東国、牛は西国という地域差が生まれた。東国では[[武士団]]の勃興に伴い馬が主体の家畜構成になったと考えられている{{sfn|</ref>。ところが中世に入ると馬は東国、牛は西国という地域差が生まれた。東国では武士団の勃興に伴い馬が主体の家畜構成になったと考えられている<ref>市川|, 2010|p=7}}。東西の地域差は明治時代のはじめまで続いており、明治初期の統計では、[[伊勢湾]]と[[若狭湾]]を結ぶ線を境として東が馬、西が牛という状況が見て取れる{{sfn|, p7</ref>。東西の地域差は明治時代のはじめまで続いており、明治初期の統計では、伊勢湾と若狭湾を結ぶ線を境として東が馬、西が牛という状況が見て取れる<ref>市川|, 2010|pp=5, pp5-6}}</ref>。
牛肉食は公的には禁忌となったものの、実際には細々と食べ続けられていたと考えられている。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]には[[ポルトガル]]の[[宣教師]]たちによって牛肉食の習慣が一部に持ち込まれ、[[キリシタン大名]]の[[高山右近]]らが牛肉を振舞ったとの記録もある<ref>本山荻舟 『飲食事典』 平凡社、1958年12月25日、160頁。</ref>ものの、禁忌であるとの思想を覆すまでにはいたらず、キリスト教が排斥されるに伴い牛肉食は再びすたれた。[[江戸時代]]には生類憐みの令によってさらに肉食の禁忌は強まったが、大都市にあった[[ももんじ屋]]と呼ばれる獣肉店ではウシも販売され、また[[彦根藩]]は幕府への献上品として牛肉を献上しているなど、まったく途絶えてしまったというわけではなかった<ref>原田信男編著 『江戸の料理と食生活:ヴィジュアル日本生活史』 小学館、2004年6月20日第1版第1刷、87頁。</ref>。しかし、日本においてウシの主要な用途はあくまでも役牛としての利用であり続けた。