3について。豚と瓢の起源譚、とはいえ、家畜である豚を何故食べてはいけないのか、という疑問を含む伝承である。豚は犠牲に捧げる動物としても標準的なものだ。よって、この物語の豚は、特に'''神性の強い特殊な豚'''であり、そのようなものが存在する、という考えがあることを示唆しているように思う。瓢は中国の神話では、大洪水の際に伏羲がひょうたんに乗って逃れた、という神話的に非常に重要なアイテムである。台湾にも大洪水の伝承があるし、少なくとも古代中国の「伏羲と大洪水」の神話が紀元前1000年よりも前に成立し、台湾に伝播していた証拠と言える。「豚神の屠殺の禁止」は、実のところ羿神話の思想とは逆向きの「人身御供肯定」に繋がる思想である(その点についてはおいおい述べる)。鳥ではなくて'''瓢'''が天から降りてくる、という神話は父系の文化がかなり進んでからの神話なのではないか、と思う。伏羲は現代にまで「人々の運命を決める神」として名前が残され、中国のシャーマンの始祖的な存在であるし、雷神を助けて自分だけが恩恵を得ており、羿のように人身御供を求める神と対立しようとはしていないからである。また、男性であるので父系文化の神であるとも言えると考える。また瓢に乗ることは、「自分達はすでに、太陽女神も、その部下の鳥仙女も必要とせずに天界と交通できる。」という意志の表れのように思われる。
4について。ハイヌウェレ的であり、特に芋類について「死体化生」の思想が強く進められていたことが分かる。ただし、「甘薯は葛の根より得たり」とあり、死体のせいで葛が芋に変化した、ととれる内容である。『山海経』には、中国南部にある食物神・后稷の墓の周りには、穀物が自然に生じているとの記述がある、とのことなので、「死体が直接作物に変化する」、という形式よりも、「死体の働き掛けで環境が変化して作物が誕生した」という形式の方が古い形なのではないだろうか、と思う。「死んだ神(=黄泉の神)」が登場し、その神は自然に作物を発生させることができるのである。これも父系の文化の思想なのではないだろうか。このようにして、太陽女神と鳥仙女達は、どんどん「必要性」を神話の上から奪われているように思う。「死んだ神」が作物を自然発生させるために、新たな人身御供であるハイヌウェレを種芋として求めるようになるにはもう1歩、というところなのだと思う。死んだ神はハイヌウェレという花嫁を得て、芋という子供を発生せしめるようになるのである。これすなわち、花嫁を求める河伯の神話の焼き直し、と言わざるを得ないのではないだろうか。そして「死んだ神」とは「去勢されて殺された神」、「バラバラにして殺された神」とも重なる。'''何らかの原因で、罰されて殺された男神が、「黄泉の神」に変化している'''のである。エジプト神話のオシリスは、その一番良い例であると思う。ギリシア神話のポセイドーンやハーデースも、一度父親に食べられて「殺された神」であって、海や冥界といった異界の神とされている。また、「殺された神」の一部はタンムーズやアッティスのように、直接穀物(植物)に変化するものも登場した。のである。エジプト神話のオシリスは、その一番良い例であると思う。ギリシア神話のポセイドーンやハーデースも、一度父親に食べられて「殺された神」であって、海や冥界といった異界の神とされている。また、「殺された神」の一部は「下位の男神」として、タンムーズやアッティスのように、直接穀物(植物)に変化するものも登場した。
これらの点から、「死んだ男神(=黄泉の神)」が歴史的に登場するのは、羿神話の登場により男神が罰を受けて殺された、とされてからではないか、と思う。一方殺されずに、「陰茎を失う」のみで済んだ物語からは、インド神話のアルナのように両性具有的な「神」として神のまま残ったり、キュベレーに使える神官達のように「シャーマン」的な存在となったりして、文化的に枝分かれしていくように思う。インドには現在でも「ヒジュラー」と呼ばれる男性でも女性でもない第三の性として女神に使える半陰陽の人々が存在する。