天照大御神
天照大神(あまてらすおおみかみ、あまてらすおおかみ)または天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、日本神話に主神として登場する神。女神と解釈され、高天原を統べる主宰神で、皇祖神とされる。『記紀』においては、太陽女神の性格と巫女の性格を併せ持つ存在として描かれている。神武天皇は来孫。
太陽神、農耕神、機織神など多様な神格を持つ。天岩戸の神隠れで有名な神で、神社としては三重県伊勢市にある伊勢神宮内宮が特に有名[1]。
名称
『古事記』においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)、『日本書紀』においては天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)と表記される。別名、大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)[2]。神社によっては大日女尊(おおひるめのみこと)[3]、大日孁(おおひるめ)[4]、大日女(おおひめ)[5]とされている。
『古事記』においては「天照大御神」という神名で統一されているのに対し、『日本書紀』においては複数の神名が記載されている。伊勢神宮においては、通常は天照大御神の他に天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、あるいは皇大御神(すめおおみかみ)と言い、神職が神前にて名を唱えるときは天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)と言う[6]。
なお、「大日孁貴神」の「ムチ」とは「貴い神」を表す尊称とされ、神名に「ムチ」が附く神は大日孁貴神のほかには大己貴命(オオナムチ、大国主)、道主貴(ミチヌシノムチ、宗像大神)など引用エラー: <ref>
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系譜
- 父 イザナギ(伊邪那岐神、伊邪那岐命、伊弉諾尊)
- 母 イザナミ(伊弉冉尊、伊弉弥尊)(日本書紀でのみ、古事記では誕生に関与していない)
- 三貴子(イザナギ自身が自らの生んだ諸神の中で最も貴いとしたアマテラスを含む三姉弟の神)
- 夫 なし(ただしスサノオとの誓約が両神の結婚を表しているという解釈もある[7])
- 五男三女神(アマテラスとスサノオの誓約の際に生じた神:女神がスサノオの剣をアマテラスが口に含み先に生んだ子、男神がスサノオがアマテラスの玉を口に含み後に生んだ子)
月読命同様、明確な性別の記載があるわけではないが、『日本書紀』ではスサノヲに姉と呼ばれていること、アマテラスとスサノオの誓約において武装する前に髪を解き角髪に結び直す、つまり平素には男性の髪型をしていなかったことに加え、機織り部屋で仕事をすることなど女性と読み取れる記述が多いことなどから、古来より一般に女神と解されている。
別名の「オホヒルメノムチ(大日孁貴)」の「オホ(大)」は尊称、「ムチ(貴)」は「高貴な者」、「ヒルメ(日孁)」は「日の女神」[8]を表す。但し「孁」は「巫」と同義であり、古来は太陽神に仕える巫女であったとも考えられる[9]。「ヒコ(彦)・ヒメ(姫・媛)」、「ヲトコ(男)・ヲトメ」、「イラツコ(郎子)・イラツメ(郎女)」など、古い日本語には伝統的に男性を「コ(子)」・女性を「メ(女)」の音で表す例がみられ、この点からも女神ととらえられる[10]。後述するように中世には仏と同一視されたり、男神説等も広まった[11]。
天照大神のモデルは淮南子や山海経などに出てくる東海の海の島(日本)に住んでいる十の太陽神の母である羲和が該当するとする説[12]や、淮南子の冒頭と日本書紀の冒頭にて重なる部分が存在する事から記紀の執筆者が淮南子を読んでいたとする説がある[私注 1]。
天照大神は太陽神としての一面を持ってはいるが、神御衣を織らせ、神田の稲を作り、大嘗祭を行う神であるから、太陽神であるとともに、祭祀を行う古代の巫女を反映した神とする説もある[13]。ただし、「メ(女)」という語を「妻」「巫女」と解釈する例はないともいわれる[10]。
もとはツングース系民族の太陽神として考えると、本来は皇室始祖の男神であり、女神としての造形には、女帝の推古天皇や、持統天皇(孫の軽皇子がのち文武天皇として即位)、同じく女帝の元明天皇(孫の首皇子がのち聖武天皇として即位)の姿が反映されているとする説もある[14][15]。兵庫県西宮市の廣田神社は天照大神の荒御魂を祀る大社で、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)という祭神名が伝わっている。これは天照大神を祀る正殿には伝わらない神名であるが、荒祭宮の荒御魂が女神であることの証左とされる。
神話での記述
日本書紀
『日本書紀』においては、
- 第五段の本文では、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が大八洲国と山川草木の神を産んだ後に、「天下の主者」(あまのしたのきみたるもの)として大日孁貴(おおひるめのむち)を産んだが、あまりに尊いので天上に送った。
- 第五段の一書の1では、伊弉諾尊が、左手で白銅鏡(ますみのかがみ)を持ったときに大日孁貴が生まれた。
- 第五段の一書の6では、『古事記』のように禊にて伊弉諾尊が左の眼を洗った時天照大神が生まれた。
古事記
『古事記』においては、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が伊邪那美命(いざなみのみこと)の居る黄泉の国から生還し、黄泉の穢れを洗い流した際、左目を洗ったときに化生したとしている。このとき右目から生まれた月読命(つくよみのみこと)、鼻から生まれた建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)と共に、三貴子(みはしらのうずのみこ)と呼ばれる。このとき伊邪那岐命は天照大御神に高天原(たかあまのはら)を治めるように指示した(「神産み」を参照)。
海原を委任された須佐之男命は、伊邪那美命のいる根の国に行きたいと言って泣き続けたため伊邪那岐命によって追放された。須佐之男命は根の国へ行く前に姉の天照大御神に会おうと高天原に上ったが、天照大御神は弟が高天原を奪いに来たものと思い、武装して待ち受けた。
須佐之男命は身の潔白を証明するために誓約をし、天照大御神の物実から五柱の男神、須佐之男命の物実から三柱の女神が生まれ、須佐之男命は勝利を宣言するテンプレート:Refnest(「アマテラスとスサノオの誓約」を参照)。
このとき天照大御神の物実から生まれ、天照大御神の子とされたのは、以下の五柱の神であるテンプレート:Efn。
- 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと 天忍穂耳命)
- 天之菩卑能命(あめのほひのみこと 天穂日命)
- 天津日子根命(あまつひこねのみこと 天津彦根命)
- 活津日子根命(いくつひこねのみこと 活津彦根命)
- 熊野久須毘命(くまのくすびのみこと 熊野櫲樟日命)
これで気を良くした須佐之男命は高天原で乱暴を働き、その結果天照大御神は天岩戸(あまのいわと)に隠れてしまった。世の中は闇になり、様々な禍が発生した。思金神(おもいかねのかみ)と天児屋命(あめのこやねのみこと)など八百万(やおよろず)の神々は天照大御神を岩戸から出す事に成功し、須佐之男命は高天原から追放された(「天岩戸」を参照)。
大国主神(おおくにぬしかみ)の治めていた葦原中国(あしはらのなかつくに)を生んだのは親である岐美二神(イザナギとイザナミ)と考え、葦原中国の領有権を子の天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)に渡して降臨させることにし、天津神(あまつかみ)の使者達を大国主神の元へ次々と派遣した。最終的に武力によって葦原中国が平定され、いよいよ天忍穂耳命が降臨することになったが、その間に邇邇芸命(ににぎのみこと)が生まれたので、孫に当たるニニギを降臨させた(「葦原中国平定」「天孫降臨」を参照)。その時八尺鏡を自身の代わりとして祀らせるため、降臨する神々に携えさせた。
子孫
信仰
古代
古代において天照大神は、『古語拾遺』に「天照大神、惟祖惟宗、尊無二、自余諸神、乃子、乃臣」とあり、『日本紀私記』に「今天照大神者、諸神之最貴也」とあるように、諸氏の氏神に超越する最高神として朝廷社会の中で信仰されていたことがわかる[16]。一方で、天照大神を祀る伊勢神宮は「私幣禁断」とされ、天皇の祖神や国家全体の鎮守神として、天皇の勅使以外の一般人が個人的に参拝することは固く禁じられており[17]、伊勢神宮を勧請して天照大神を自宅などで祀る行為も厳しく罰せられていた[18]ため、古代においては天照大神が国民各戸の信仰対象になることはなく、平安時代の『更級日記』にも、著者の菅原孝標女が、同僚から天照大神について話された際、それがどこに祀られる神で、どういう神なのかを正確に認識していなかったという記述があり、貴族女性という知識階級であっても、天照大神の存在は浸透していなかった[19]。
中世
しかし、中世に入ると律令制度の弛緩に伴い、神郡など古代において伊勢神宮を支えた国家的経済基盤が動揺しはじめたことから、伊勢神宮の御師による布教活動が行われ、天照大御神の存在が広い階層の人々に知られるようになった[20]。その結果、中世期の起請文には「日本国主天照大神」という表現が多く見られるようになる[20]。記紀神話における天照大神はあくまで高天原の主神であり、「日本」という国土を具体的に知行する神ではなかったが、中世における信仰では、国土の最高神として具体的に日本を知行し、人々の願いを聞き入れたり、人々に賞罰を下す存在として信仰され、国民各層に開かれた信仰対象となった[20]。中世期には伊勢神宮に寄進され神領地となった場所に天照大御神を祀る神明神社が成立したり、中世後期には伊勢の神霊が各地に飛来するという「飛神明」という考えが広がり、各地に天照大神を祀る神社が成立した[21]。
ただし、「日本国主」である天照大神であっても、それは六道など仏教的宇宙観の一角としての下界である「日本」という領域に限定される最高神であって、仏教的宇宙観全体の支配者である梵天などの仏よりは下位として見なされる場合があり、起請文にも仏の名前を上段に列記し、下段に天照大御神をはじめとする神々の名が列記される例が見られる[20]。
また、中世期には天照大神は大日如来の垂迹として信仰され、仏教信仰と結びつけられた。さらに、各神社が自社の祭神を天照大神に結びつけることも見られるようになり、大神神社では祭神が天照大神と同体とされ[22]、春日大社では第四殿に祀られる「比売神」が天照大神のこととされ[23]、熊野権現では熊野社の祭神が伊勢の天照大神と同体であると主張され[24](『長寛勘文』)、日吉大社で展開した山王神道でも日吉大社と天照大神が結びつけられる[25]など、中世の混乱期にあって、各神社の信仰を天照大神への信仰に帰一することを求める思潮が形成された[26]。
近世
江戸時代に入ると、伊勢神宮の御師の活動がさらに活発化した[27]ことや、近世期に全国の神社を管轄した吉田家が天照大神・八幡神・春日神の三柱の神徳を讃える三社託宣を庶民に拡散させていった[28]ことなどから、天照大神への信仰がさらに庶民階層に広がり、伊勢神宮の神徳を讃える風流踊りである「伊勢踊り」が流行し[29]、田植え唄などにも天照大神が唄われるようになった[30]。また、自宅の神棚に天照大御神の神体として御祓を祭ることが盛んになり、江戸時代にはその頒布率は全戸数の9割を占めるまでに至った[31]。
近世期には、天照大神に対する国家鎮守神観や国民総氏神観がさらに強く人口に膾炙し[32]、下人や丁稚、奉公人など被支配階級の伊勢参宮に対する寛容性や参宮の国民的義務観が生じて、お蔭参りをはじめとする庶民の伊勢神宮への参宮が盛行した[33]。また、近世期においては天照大神は農業神としての信仰も受けるようになり、近世に盛んになる新田開発など、農村の開拓に当たっては天照大御神が村に勧請される例が関東などに多く見受けられ[34]、天照大神の神体として鍬を祀る「御鍬祭」が全国各地の農村で行われた[35]。これには、伊勢の御師が檀家を回る際に、神宮大麻のほか農業暦である伊勢暦も渡し歩いたことが影響していると考えられる[35]。この他、天照大神は病気平癒など様々な現世利益をもたらす神、全般的な福をもたらす神として広く庶民に信仰された[36]。
近現代
1880年(明治13年) - 1881年(明治14年)、東京の日比谷に設けた神道事務局神殿の祭神をめぐって神道界に激しい教理論争が起こった[37]。神道事務局は、事務局の神殿における祭神として造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)と天照大神の四柱を祀ることとしたが、これに対して「出雲派」は、「幽顕一如」(あの世とこの世との一体性)を掲げ、祭神を「幽界」(あの世)を支配する大国主大神を加えた五柱にすべきだと主張した[37]。
しかし、神道事務局の中心を担っていた「伊勢派」は、天照大御神は顕幽両界を支配する「天地大主宰」であり、他の神々はその臣下にすぎないと主張するなど、両派は真っ向から対立した[37]。果てには、「出雲派が神代より続く積年の宿怨を晴らさんとしている」「皇室に不逞な心を持っている千家尊福を誅殺すべし」など、様々な風説が飛び交った。やがてこの論争は明治天皇の勅裁により収拾(出雲派が敗北)し、天照大神の神格は最高位に位置づけられることになった[37]。
なお、政府は神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家が復古神道的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したと言われている[38]。
芥川龍之介は自身の小説にて天照御大神を登場させる際、「天照大御神」と言う呼称では皇祖神をそのまま文中に登場させてしまう事になるため、太陽神、それも自然神という性格付けで別名の「大日テンプレート:Lang貴」(おおひるめむち)を用いた。実際、芥川の小説には検閲によって訂正・加筆・削除を強いられた箇所が多数存在する[39]。
日本全国の神社本庁傘下の神社で皇大神宮(天照皇大神宮)の神札(神宮大麻)を頒布しているテンプレート:Refnest。また、神社庁は、天照大御神を「日本国民の総氏神」テンプレート:Refnestとしている。
各神道流派における教学
伊勢神道
伊勢神道における天照大神は、外宮祭神の豊受大神と同格とされ、天照大神と豊受大神の二神が二宮一光として双座し、日月として遍く国土を照らすものと解釈された[40]。二神が同格とされたのは、外宮祭神である豊受大神を天御中主神や国常立尊に同一視する立場によるものである。また、姿形のない虚である根源神として国常立尊が据えられ、国常立尊の神力によって成り立つ現世の様々なものの形として現れているものが天照大神とされ、天照大神が根源神の方便的な現象として捉えられた[41]。
吉田神道
吉田神道でも、天照大神が重視された。吉田兼倶は、吉田神社の斎場所大元宮を日本の根本宮とするために伊勢両宮の宗教的権威を我が手中に収めようとし、伊勢神宮の神体が吉田神社に飛び移ったという密奏(延徳密奏事件)を行った[42]。吉田神道では、天地万物に神が内在するという神観念が説かれたが、その万霊の本源の神として国常立尊を重視するとともに、国主としての天照大神も、これに並んで重視した[42]。吉田神道の教説書『唯一神道名法要集』では「国者、是神国也、道者、是神道也、国主者、是神皇也、太祖者、是天照太神也」とあり、本源の一神としての国常立尊と、国主であり天皇の太祖たる天照大御神を並べて重視している[42]。
三輪神道
大神神社周辺で形成された両部神道の一派である三輪神道では、大日如来を本地とし、その垂迹を天照大神とする両部神道思想を継ぎ、大日如来が、天上では天照大神、伊勢では皇太神、三輪では三輪大明神として現じ、この三神が三身一体であるとした[43]。そして、天照大神と比肩する三輪大明神こそが、諸社諸神の中でもっとも優れた神であると主張した[44]。
垂加神道
山崎闇斎が創始した垂加神道においては、神道は「日神(天照大神)之道」とされ、天照大神が重視された[45]。垂加神道では、儒教における聖人に到達する過程である「生知安行」「学知利行」「困知勉行」の三つの過程が『日本書紀』神代巻の神々の働きに求められ、「生知安行」の聖人が天照大神、「学知利行」の聖人がサルタヒコ、「困知勉行」の聖人が大国主神及び素戔嗚尊であり、いずれの神も天照大神の徳義と一体となった神であるとされた[45]。そして、一心不乱の祈祷と心身の清浄の実現により、人が天照大御神の徳義と一体化し、「天人唯一」に到達することができるとし、天照大神が日神であり同時に皇祖神でもあることが、天人唯一の具現化であるとした[45]。
復古神道
国学者の本居宣長は、天照大神は天皇の祖神であるとともに、今現在も現実にこの世界を照らしている太陽そのものであるとして、天照大神を上代に日本を治めた存在の比喩であるとしたり、実際の太陽ではなく、その神徳を太陽に例えているものだとする見解を「漢意」として退けた[46]。平田篤胤の復古神道においては、宇宙の主宰神として天御中主神が挙げられ、その下で天皇が統治する顕界と、大国主神が統治する幽冥界(死後の世界)が相対するとされ、特に大国主神の幽冥界が重視されたことで、中心的神格としての天照大神は後退したが[47]、死後の安心を得るための顕界での生き方として、天照大神や天皇への忠誠が説かれ、魂や死後の世界と関係して天照大神が捉えられた[48]。
黒住教
教派神道の一つで、黒住宗忠により創始された黒住教の教学では、身分に関係なく、全ての人間は天照大神の御霊をいただいて生まれてきた天照大神の子であるとする教義が説かれ、日の出を拝むことで天照大神に感謝を捧げる「日拝」という行事が最も重要視されている[49]。
神仏習合と天照大神の男神説
中世の神仏混淆で本地垂迹説が広まると、天竺(インド)の仏が神の姿をとなり、日本に出現したとする考えが広く浸透した。はじめ天照大神には観音菩薩(十一面観音菩薩)が当てられたが、やがて大日如来となり、両部神道が登場すると天照大神は太陽の仏である大日如来と同一視されるようになるテンプレート:Sfnテンプレート:Sfn。
平安末期の武士の台頭や神仏混淆が強まると以前より指摘されていた天照大神の男神説が広まり、中世神話などに姿を残した[50][注釈 1]。
天照大神男神説
神道において、陰陽二元論が日本書紀の国産みにも語られており、伊弉諾尊を陽神(をかみ)、伊弉冉尊を陰神(めかみ)と呼び、男神は陽で、女神は陰となされている。太陽は陽で、月は陰であり、太陽神である天照大神は、男神であったとされる説である。この組み合わせはギリシャ神話でも同じで、太陽神のアポロと月神のアルテミスは兄妹神の組合せで生まれている。
平安時代、『寛治四年十一月四日伊勢奉幣使記』で伊勢神宮に奉納する天照大神の装束一式がほとんど男性用の衣装であって、江戸時代の伊勢外宮の神官度会延経はこれを典拠にして、『左経記』の宇佐への女子用装束と比較して、「之ヲ見レバ、天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と記している。(『内宮男体考証』『国学弁疑』)。また、『山槐記』永暦二年(1161)四月廿二日条、『兵範記』仁安四年(1169)正月廿六日条にも内宮に男子装束が奉納された記事がある。
京都祇園祭の岩戸山の御神体は伊弉諾命・手力男命・天照大神であるが、いずれも男性の姿である。天照大神の像は「眉目秀麗の美男子で白蜀江花菱綾織袴で浅沓を穿く。直径十二センチ程の円鏡を頸にかけ笏を持つ。」と岩戸山町で伝えられるとおりの姿である。江戸時代、円空は男神として天照大神の塑像を制作している。江戸時代に流行した鯰絵には天照大神が男神として描かれているものがある。京丹後市久美浜町布袋野(ほたいの)の三番叟(さんばそう)に登場する翁は天照大神を表すとされ、振袖を着てカツラを装着し、かんざしを挿して金色の烏帽子を被る姿である。また、藤原不比等が女性が天皇に即位できるように記紀を作り替えたとも言われる[51]。
江戸時代には荻生徂徠、山片蟠桃などを筆頭に天照大御神の男神説が数多く主張されており、明治以降も津田左右吉や松前健、楠戸義昭、武光誠、筑紫申真、溝口睦子、宝賀寿男などに男神説が見られる。
ただし前述のように現在では国学時代に主流となった女神説が一般的であり、伊勢神宮を始め各神社でも女神としている。また、現代語訳本や漫画においても女神として描かれることが主流である。
なお、日本国内の諸説から離れて比較神話学の立場から見た場合、世界的に太陽神は男神よりも女神とされることが多かったという指摘もある。詳細は「太陽神」の項目を参照のこと。太陽女神(あるいは、女神とされることもある太陽神)の例としては、ソール、サウレ、シャマシュ、シャプシュ、マリナ、羲和、トカプチュプカムイなどがある。
一方日本神話をギリシャ神話やローマ神話と同じ性格の「神話」・「虚構」と位置づけることに反対し、上古東アジアの神話、習俗、祭祀の事情から男神であったとする説もある。「地域移動」を高所・天からの降下(天降り・天孫降臨)と受けとめる考え方があったからとされる。日本の上古支配氏族である天孫族(天皇家や高天原起源の諸豪族)高句麗王家では、始祖の朱蒙が日光に感精した河伯の娘から卵で産まれたという伝承をもつ。日本と高句麗(扶余)との間には、王者の収穫祭が即位式に結びつく点、穀物起源神話や王者の狩猟の習俗などで、両者の王権文化は多くの共通点をもっており、この他、朝鮮半島では例として天日槍命関係の伝承に見るように、朝鮮半島では日光により感精し卵から始祖が誕生する卵生神話が存在し、始祖の卵生伝承も朝鮮半島に多く、日本にも僅かであるが伝わっていたとされる。『姓氏録』などの記録において、女性を始祖とする氏族が一つも記載されていないことも、天照大御神が女神たりえなかった根拠とする見方がある[52]。
一方、これは朝鮮半島民族の影響下にあったためであり、卵生伝承は日本ではシベリア系北方民族と関わりがあったアイヌの神話の中に見られるが日本神話においては見あたらないとする説もある。
各仏教宗派の教学
仏教界においては、宗派にもよるがちょうど八幡神(やはた/ハチマン)のように「てんしょうだいじん」と音読みで読まれることが多い。
- 真言宗
- 真言宗では天照大神を大日如来の化身と見ていたテンプレート:Sfn(詳しくは両部神道の項へ)
- 日蓮宗・法華宗
- 日蓮は御書の中で自身の出身地である安房国長狭郡(現在の千葉県鴨川市の大半)を、天照大神の日本第一の御厨(東条御厨)であると記している。日蓮は天照大神と八幡大菩薩を日本の法華経守護の善神の筆頭とし十界曼荼羅に勧請しており[53]、その本地を釈迦牟尼仏だとしている[54]。現在でも日蓮宗・法華宗の寺院では三十番神の一柱として天照大神が祀られている姿が見られる。
- 昭和になると日蓮宗・法華宗各派は、日蓮が御書にて天照大神を帝釈天や梵天などのインドの神と比べて「小神」と呼んだこと、「天照大神」という文字が十界曼荼羅の中で鬼子母神や八大龍王などよりも下に書かれていることなどが問題視され、法華宗が不敬罪で訴えられる事件となった[55]。
天照大神を祀る神社
- 天照大神を祀る神社を神明神社といい全国各地にあるが、その総本社は神宮(伊勢神宮)の内宮(皇大神宮)である[1][6]。皇大神宮は三種の神器のうちの一つ八咫鏡(ヤタノカガミ)を御神体として安置する神社である。
- 宮崎県高千穂町岩戸には岩戸隠れ神話の中で天照大神が隠れこもったとされる天岩戸と天照大神を祀る天岩戸神社がある。東本宮は天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)を祀り、西本宮は大日孁尊(おおひるめのみこと)を祀る。
- 日前神宮・國懸神宮 - 日前神宮の祭神である日前大神は天照大神の別名でもあり、朝廷は神階を贈らない別格の社として尊崇した。神体の鏡はいずれも伊勢神宮内宮の神宝である八咫鏡と同等のものとされる。
- 伊雑宮(三重県志摩市磯部町) - 皇大神宮(伊勢神宮内宮)の別宮の一社。度会郡大紀町の瀧原宮とともに「天照大御神の遙宮(とおのみや)」と呼ばれる。
- 瀧原宮・瀧原竝宮(三重県度会郡大紀町) - ともに天照大御神御魂(あまてらすおおみかみのみたま)を祀る別宮。瀧原宮はその和御魂(にぎみたま)、瀧原竝宮は荒御魂(あらみたま)が祀られるとされる。=
- 日向大神宮(京都市山科区日ノ岡)
- 古賀神社(福岡県古賀市)
- 天照皇大神宮(福岡県糟屋郡久山町)
- 廣田神社(兵庫県西宮市) - 天照大神の荒御魂を祀る。旧官幣大社で日本書紀にも記される。
- 皇大神社 (福知山市)(京都府福知山市大江町)
- 山口大神宮(山口県山口市)
- 大日霊貴神社(秋田県鹿角市八幡平)
- 八倉比売神社(徳島県徳島市国府町矢野) - 社伝に御祭神・大日孁尊(天照大神)の葬儀の様子が記されている。
- 籠神社[56] - 天照大神と孫神・彦火明命(饒速日命・ニギハヤヒ)を祀る。元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称される。
- 愛媛県西条市にある伊曽乃神社は、天照大神 荒御魂と武国凝別命を祀っている。西条祭りでは伊勢音頭が歌われ、伊勢神宮の式年遷宮では西条のだんじりが奉納されている。
- 石川県金沢市にある尾崎神社は、 天照大神、東照大権現、加賀藩三代藩主前田利常を祀る。
- 宗忠神社 (京都府京都市)・神道山 (岡山県岡山市) - 黒住教の霊地。
- 大洲七椙神社 - 誉田別命、建御名方命、天照皇大神。長野県下伊那郡松川町大字元大島
全国の天照大神伝承
天照大神の伝承は各地に存在する。
全国の天照大神伝承
- 木曽山脈の恵那山には天照大神誕生の際に、胞衣(えな)が埋設されたという伝承が残る[57]。
- 長野県戸隠山の戸隠神社には天岩戸の伝承が残る[13]。
- 三重県のめずらし峠は、天照大神と天児屋根命が出会ったという伝承が残っている[58]。
- 奈良県の與喜(よき)山には天照大神が降臨した伝承が伝わっている[59]。また、長谷寺の本尊十一面観世音菩薩立像の左脇侍雨宝童子立像は、天照大神として信仰されており、頭髪を美豆良に結って冠飾を付け、裳を着し袍衣を纏った姿をしている[60]。
- 島根県隠岐は天照大神が行幸の際、そこに生育していた大木を「おおき」と感動して呼んだことが隠岐の名の起源であるという伝承が残る[61]。
- 鳥取県因幡の八上郡には、天照大神がこの地にしばらくの間行宮する際、白兎が現れて天照大神の裾を銜(くわ)えて、行宮にふさわしい地として、現在も八頭町と鳥取市河原町の境にある伊勢ヶ平(いせがなる)にまで案内し、そこで姿を消したとされる[62]。八頭町の青龍寺の城光寺縁起と土師百井(はじももい)の慈住寺記録には、天照大神が国見の際、伊勢ヶ平付近にある御冠石(みこいわ)に冠を置いたという伝承が残っている[62]。この伝承と関連して八頭町に3つの白兎神社が存在し、八頭町米岡にある神社は元は伊勢ヶ平にあった社を遷座したものと伝えられるが、具体的な伝承に基づく全国的に見ても極めて珍しい神社である。
- 同じく鳥取県八上の氷ノ山(ひょうのせん)の麓、若桜町舂米(つくよね)には天照大神が大群を従えての行幸伝承とともに、天照大神が作ったとされる和歌が伝わっている[63]。2007年(平成19年)、若桜町舂米地区内で天照大神が腰掛けをしたさざれ石が発見された[64]。
- 氷ノ山の名は、天照大神が樹氷の美しさに感動して日枝(ひえ)の山と呼んだことが起源とされ、氷ノ越えの峠(ここにもかつて白兎を祀る因幡堂があった)を通って因幡をあとにしたとされる[65]。
- 現在は存在しないが、熊本県の八代市には上古に天照大神の山陵が在ったと伝えられる[66]。
- 宮崎県高千穂町岩戸にあり天照大神を祭神とする天岩戸神社の周辺には、岩戸隠れ神話の中で天照大神が隠れこもったとされる天岩戸をはじめ、複数の神話史跡や関連の地名が残る。
天照大御神=卑弥呼説
脚注
参考文献
- 薗田稔、茂木栄『日本の神々の事典 神道祭祀と八百万の神々』 学研、 1997年
- 後藤然、渡辺裕之、羽上田昌彦ほか『神道の本 八百万の神々がつどう秘教的祭祀の世界』学研「ブックス・エソテリカ」、 1992年
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関連項目
- 日本の神の一覧
- 豊受姫(豊受大神) - 豊穣を司る女神で、伊勢神宮外宮の社伝『止由気宮儀式帳』によると天照大神が「独りで食事をするのは寂しい」と神託して招いたとされ、雄略天皇の時代から豊受大神として伊勢神宮外宮(豊受大神宮)に祀られている。
- 瀬織津姫(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命) - 廣田神社などを筆頭に、天照大神の荒魂として各地の神社に祀られていることがある。
- 稚日女尊
- 太一 - 至高神の意で天照大神と習合したとされる[67]。
- 日の神論争 - 上田秋成と本居宣長の太陽神をめぐる論争。
- 日本神話
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