石峁遺跡

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石峁遺跡(しいもあいせき)は、中国の新石器時代後期から「夏代」前期に相当する城壁都市遺跡である。陝西省北部、楡林市神木県に位置する。地形的には禿尾河の流域にあたるものの、周囲を荒漠とした山地に囲まれた高原上の遺跡である。その西北では内モンゴル自治区の鄂爾多斯市と境を接しており、まさしく農耕地域と遊牧地域の境界として象徴的な長城地帯にある。遺跡は紀元前2300年頃から紀元前2000年頃のもので、山西省の陶寺文化にほぼ相当する時期である。遺跡は新石器時代後期から「夏代」前期に相当し、城址面積が 400 万㎡を超える大規模な城塞である。遺跡は1976年に発見され、玉器を多く出土する遺跡として注目を集めていた。

玉器については前後二段の時期に分け、前段を龍山文化後期併行期、後段を朱開溝文化二段併行期とみなしている。石峁遺跡からは数多くの玉璋の出土が知られており、玉柄形器の存在とともに二里頭文化との関連性を強く示唆する遺物で ある。ヒスイも発見されており、破片だけでなく、円盤や刀剣、笏(しゃく)などに加工されたものも見つかっている。ヒスイはここ陝西省最北部では産出せず、最も近い産地でさえ、およそ1600キロも離れている。

城壁は、基本的には山地の斜面に沿って築かれている。地形に即して集落を囲う壁の存在は新石器時代後期の岱海地域でおこった老虎山文化で知られており、土器の類似性の面からも、石峁遺跡の「城壁」は、内モンゴル地域との関連の中で説明されるべき遺構であろう、とされている。

出土した土器は内モンゴル自治区の大口文化や朱開溝文化、山西省の陶寺文化との関連性が指摘されている。

石刻について

 
石峁遺跡の中心エリア皇城台「大台基」南側擁壁から出土した石刻。(2018年11月6日撮影、神木=新華社配信)
 
石峁遺跡の中心エリア皇城台「大台基」南側擁壁から出土した石刻。(2018年11月11日撮影、神木=新華社配信)

遺跡の中心部に当たる皇城台の「大台基」の南側擁壁部分で精巧な石刻70点余りが見つかっている。石刻は神面や人面、神獣、動物、符号の5種類に分類することができる。

生贄(人柱)について

東の壁の下から、6つの穴に80個もの人間の頭蓋骨が詰め込まれていたのが発見された。体の骨はなかった。(石峁の正門である東門に最も近い2つの穴からは、それぞれ24個の頭蓋骨が見つかった)。頭蓋骨の数や配置から、壁の基礎を敷設する際の儀式で首を切られたことが示唆された。法医学者たちによると、犠牲者のほぼすべてが若い少女であり、おそらく敵対勢力に属していた捕虜だと考えられる[1]

参考文献

関連項目

参照

  1. 4千年前の中国・石峁遺跡、謎のヒスイと要塞、ナショナルジオグラフィック日本語版、2020-08-23