天狗(中国)
天狗(てんこう)は中国に伝わる伝説の動物である。始めて記録されたのは「山海経西山経」で、原文は以下の通りである。
「又西三百里,曰阴山。浊浴之水出焉,而南流于番泽。其中多文贝,有兽焉,曰天狗,其状如狸而白首,其音如榴榴,可以御凶。」
訳:さらに西へ三百里、陰山といい、濁浴の水ながれて南流し、蕃沢に注ぐ。水中に文ある貝が多い。獣がいる、その状は狸の如く、白い首、名は天狗。その声は榴榴のよう。凶をふせぐによろし[1]。
本文にもあるように、天狗は頭が白い狐狸のような動物で、魔除けの瑞獣であり、おそらく実際に存在した古代の哺乳類であろう[私注 1]。しかし、その後、彗星や流星を表す言葉へと発展し、古代人は天空を走る星を大きな災厄とみなしたため、天狗という名前も凶星を表す言葉になったのである。[私注 2]
「史記・天官」には次のように記載されている。
「天狗狀如大奔星,有聲,其下止地類狗,所墮及炎火,望之如火光,炎炎沖天。」
訳:天狗星は状態が大流星のようで声がし、天上から下って地上に止まるときは、形が狗に似ている。墜ちるところを望むと火花のようで、炎々と天を衝くようである。[2]。
これが現れると『その下の国では千里にわたって軍を破り、将を殺す』とある。
目次
天狗食日・犬に追いかけられる日月
天狗が日月とは独立した存在で、日月を追いかける話。
古来、中国では日食は「天狗が太陽を食べる」ことで起こると考えられていた。日食が起きると、人々は太鼓や爆竹を叩いて犬を追い払う。
Wikipediaの天狗(中国)
元々天狗という語は中国において凶事を知らせる流星を意味するものだった。大気圏に突入し、地表近くまで落下した火球はしばしば空中で爆発し、大音響を発する。この天体現象を咆哮を上げて天を駆け降りる犬の姿に見立てている。中国の『史記』をはじめ『漢書』『晋書』には天狗の記事が載せられている。天狗は天から地上へと災禍をもたらす凶星として恐れられた
明朝の頃から、天狗が日食や月食を起こすという、「天狗食日食月信仰」が登場する。以下のような内容である。
昔々、太陽神と月神が、人間の起死回生の薬を盗んだ。
人々は犬に月と太陽を追いかけさせた。
しかし、月神と太陽神はすでに薬を飲んでいたので、犬が月と太陽を噛んでも噛んでも、月と太陽は死なない。
それでもこの犬は諦めない。常に月と太陽を食う。
それで、日食、月食が起こるのである。(『紅河イ族辞典』より)
ここでいう天狗とは、文字通り「天の狗(=犬)」のことである。この神話は現在、中国全土に広まっている。
羿神話
伝説によると、后羿が民のために9つの太陽を撃ち落としたとき、王母娘娘(西王母)は褒美に霊薬を与えたが、后羿の妻である嫦娥はそれを食べて一人で天に昇ってしまったという。門の外から后羿の猟犬・黒耳が吠えながら家の中に飛び込み、残りの霊薬を舐めてから上空の嫦娥の後を追った。嫦娥は黒耳の吠える声を聞くと、あわてて月に飛び込んだ。そして、髪を逆立て、体を大きくした黒耳は、嫦娥に飛びかかり、月を飲み込んだ。
月が黒い犬に飲み込まれたことを知った玉皇大帝と王母娘娘(西王母)は、天兵に命じて犬を捕らえさせた。黒い犬が捕まった時、王母娘娘(西王母)は后羿の猟犬と認め、南天の門を守る天狗にした。黒耳は役目を得ると、月と嫦娥を吐き出し、それ以来、月に住むようになった。
張仙が天狗を撃った話は、天狗が天の星が子供として生まれ変わるために地上に降りてくるのを邪魔していたので、張仙が天狗を打ち払って、人々が問題なく子供を得られるようにしたことから、張仙と呼ばれるようになったというものである。
イ族の天狗食日
昔、太陽神と月神が、人間の起死回生の薬を盗んだ。人々は犬に太陽と月を追いかけさせたが、彼らはもう薬を飲んでしまっていたので、噛みつかれても死なない。犬が諦めずに太陽と月に噛みつくので、日食・月食が起きる[3]。
ハニー族の天狗食日
ハニー族の先祖のである三兄弟は不老不死の薬を持っていたが、月神に盗まれた。三兄弟は長い梯子を作って天に昇り、薬を取り戻そうとしたが、月神が梯子を倒したため三兄弟は地面に落ちた。彼らの飼っていた犬が天に昇って月を噛んで薬を取り戻そうとするので月食が起きる[4]。
天狗食月1
古くは「天狗が月を蝕む(天狗蝕月)」という言い伝えがあり、例えば明代の『洪山中碑文』には「景光年間、天狗が月を蝕み、玄武竜と野戦した」と始まっている。 明の代の「洪順楚の歌」には、「景康の年、犬が月を食った」という前置きがある。李氏朝鮮時代の李忠武公の亀甲船の歌には「天狗は月を蝕み、海は疲弊し、風は万里を断つ。」とある。
韓国では、犬は満月と相性が悪いと言われているため、満月の日には犬に餌を与えない[5]。ビルマの伝説では、月が天狗に飲み込まれたのは、死者を蘇らせ、病人を癒すために主人の臼と杵を盗んだからだと言われている[6][私注 3]。
古代中国では、天狗は月の邪神の名前としても使われていた。古書『謝爾捷方』巻四は、枢機卿の暦を引用して、「天狗は月の邪神である」と述べている。 この日は神仏に祈ること、加護を祈ることは禁じられていた。同書はまた、暦から「天狗は常に月の前二時にいる」と引用している。
民間では他に「蝦蟇が月を食べる(月蝕蝦蟇)」というものもある。
天狗食月2
管理人が、各地の日月食神話に影響を与えたと考える話。
eastasian氏のブログから、引用。
河北省保定の中秋節に関する伝説
毎年八月十五日の深夜、天上には天狗神が現れ、月を呑むと言われている。奇妙なことだが、この天狗神は口はあるがのどがない。大口を開けて月を呑むが月はその腹に収まることはなくのど元から吐き出されるのである。吐き出しては又呑む。それを何度も繰り返して簡単にあきらめることはない。月の神はこれを耐えがたく思って下界の人民に指示をだし、様々な大声を出して天狗を驚かし追い払うようにしたのである。
そんなわけで毎年この夜には民間では爆竹を放ち、鉄鍋を鳴らし、銅盆をたたく。太鼓をたたくものもある。それは天狗を脅かしているのである[7][私注 4]。
民間習俗(『中国民間禁忌』より)
民間では日月色は天狗がこれを食べたからだと言う。皆既日月食は食べられ排泄された、と考えて不吉で不作である。部分日月食は食べきれずに吐き出したと考えて吉、豊年であるとする。人々は日月食があると銅鑼を鳴らし、太鼓を叩いて天狗を脅し日月を救おうとする。[8][私注 5]。
その他の天狗食月
苗族伝承、ヤマイヌと七人の娘たち
七匹のヤマイヌが七人の若者に化けて、食べ物を捜しに山をおりた。彼らは七人姉妹の家に押し入り、ひと晩の宿泊を求めた。
姉妹は仕方なく若者達をもてなして餅をふるまったが、ヤマイヌの正体に気づいた上の3人の娘は逃げ出してしまった。
下の4人は、糸繰りをしながら知恵を絞り、ヤマイヌ達を一匹ずつ屋根裏におびき寄せて4匹まで殺してしまう。残りの3匹は家の外に逃げ出してしまった。
逃げ出した3匹のヤマイヌは外に隠れていた3人の姉達を襲い、姉達は体の一部を食いちぎられてしまう。自分勝手に逃げ出した娘達はかえってひどいめにあった。しかし、ヤマイヌは姉達の命までは奪わずに逃げてしまう。下の4人の娘達は、ヤマイヌの毛皮を手に入れて嫁入り道具にした。[9]
例えば、『羲和(太陽の女神)と常羲(月の女神)は帝夋の妻である。』という記述がある。この場合、羲和と常羲は太陽や月を擬人化した存在といえる。これを『羲和と常羲は帝夋の妻である。』と書くとする。そうしたら、羲和と常羲は擬人化した神であることは誰にでも理解できようが、彼らが「太陽と月」であることは、それを知っている人にしか分からないことになる。これと同じで、苗族の伝承には、擬人化した太陽娘娘が登場する話がいくつかあるように思うのだけれども、彼らが太陽だとは誰も教えてくれない、ということである。しかも、この伝承のように太陽娘娘が4人もいたら、特に合理性を重んじ、天体や科学の知識がある現代人には、彼らが「太陽」だと、説明もされずにどうして気づけようか、ということになる。
でも、この伝承は「天狗日月食」の話で、上の3人は体の一部が欠けており、月の女神を示しているのだと思う。下の4人は太陽女神である。日本神話の天照大神も、機屋を経営する女神であり、彼女の下に「小さな太陽女神」ともいえる織り姫達が複数存在している、といえる。4人の妹は幸せな結婚にこぎ着けるが、姉達にそのエピソードはない。その理由は語られないが、姉達は「太陽が殺されて月に変化した存在」だからという潜在的な意味があるのではないだろうか。太陽が殺されて月になるという話は台湾の神話で良く見かけるエピソードである。そして、彼らを襲うヤマイヌとは、7匹いることから「軍神的な北斗七星の化身」といえることが分かる。
だから、『羲和と常羲は帝夋の妻である。』と書くと、それは『太陽と月は北極星の妻である。』という意味になるし、『北極星が人類の父で、太陽と月が母である。』という意味にもなる、と管理人は思うのだが、『太陽娘娘と月娘娘が押し入った北極星に強姦された。』って書いたら、それも『北極星が人類の父で、太陽と月が母である。』という意味になるのではないか、と気がついてぞっとする管理人である。北極星信仰を権威の象徴とした父系の王制と身分制度の確立は、このように表裏一体となった2面性を持つものではなかったのだろうか、と考える。
日本の天狗食日月
中国では「天狗」といえば、文字通り「天の犬」のことを指すけれども、日本の場合、「天狗」とは一般的に羽が生えて、異様な顔をした鳥人のようなものを指して、犬のことではない。そして仏教と融合して「修行して亡くなった徳の高い僧侶は仏ではなくて天狗になる」とか、一部では言われるような存在になって、「特殊能力を持つ神人の一種」のように考えられるようになったので、日本の天狗が直接、日月の女神に関わることはない。
日本神話で太陽女神を脅かし、月女神(この場合は大宜都比売を「月女神」である、と仮定しての話になるけれども)を害するのは須佐之男であるので、日本では須佐之男が中国的な「天狗」に相当するし、おそらく北極星を意識した神でもあると考える。神話と信仰の上で、須佐之男は賀茂系の一部の氏族の祖神と考えられているし、天皇家の祖神扱いでもあって、王権の権威の象徴である。でも日本神話の内容は、『太陽女神と月女神は須佐之男に害された。』という話なので、須佐之男は帝夋(上帝)のような存在でありながら、苗族のヤマイヌに似た存在でもあり、黄河文明の王権神話と長江文明の略奪神話の折衷といえる神話を持っていて興味深い。
また管理人は、長野市栗田で「狗天伯」という神が祀られている祠を見たことがある。天白神あるいは天伯神は東海から関東にかけて割と頻繁に見られる神であり、雷神信仰が目立つ地域に良く見られるという印象を持っているので、雷神の一種ではないか、と管理人は考える。栗田のあたりは、かつて裾花川が近くに流れていた地域であり、狗天伯社は水神の祠と並んでいるので、水に関連する神の性質もあるように感じる。ただし、「狗天伯」と天白神に「狗」がつく神は、栗田でしか見たことがない。もしかしたら、「狗天伯」というのは、頭が白いという中国風の天の犬神のことで、北極星のことでもあるかもしれないと思う。
その他
北欧神話ではスコールとハティという2匹の狼がそれぞれ太陽と月を食べようと追いかけ、日月蝕の原因になると言われている。
インド神話ではラーフという「首だけの神」が日月蝕を起こすという。ラーフの息子達はケートゥという32の彗星とされ、中国の天狗が流星とされていたことと性質が似ている。ラーフもまた彗星あるいは流星の一種であり、中国風の「天狗」に相当するのではないだろうか。
派生神話あるいは天狗食日月北斗
苗族の伝承では、日月乙女も7人登場する。ということは、日月女神は北斗の七女神も兼ねているのであり、苗族の「ヤマイヌと七人の娘たち」は父系の男神北斗信仰を持つ人々が、母系の女神北斗信仰を持つ人々を略奪し、支配を試みたという歴史を投影しているものなのだ、と推察できないだろうか。何故、日月女神が北斗女神も兼ねるのだろうか。
苗族の乙女達は狼藉者に襲われても糸繰りを続ける。そうして、星々と太陽と月がいつものように正しい糸繰りの輪を紡ぎ続けなれば、人々の生活が成り立たなくなるからである。乙女達は太陽女神でも月女神でも北斗女神でもある「天輪の糸繰り女神」だったのだろう。これはまさに「天輪」の思想といえる。襲い来るヤマイヌ達は、まさに天の運行を乱す悪魔だったのである。
母系文化の「天輪」である「糸繰り機」は、父系文化で「車輪」に置き換えられたものと思われる。糸繰りは男性の仕事ではないからである。中国神話の太陽の母女神である羲和が「太陽車輪の御者」とされるのは、かつて彼女が母系の女神であったときに、「糸繰りの女神」だったからと思われる。父系文化に取り込まれて、彼女は車輪の女神、次いで御者の女神に置き換えられてしまったのだろう。
管理人が天狗食日月より派生したと考える伝承をいくつか挙げる。すでに天狗が登場しなくなったものである。
カリストー・ギリシャ神話
カリストーは処女の月女神アルテミスの従者であり、処女を誓っていたが、ゼウスに目をつけられ騙されて関係を持ってしまう。その結果カリストーは妊娠したが、処女の誓いを破ったことを知られたくなくて、隠して主人のアルテミスに仕えていた。しかし、アルテミスと共に沐浴した際に、妊娠がばれてしまい、怒ったアルテミスに熊の姿に変えられてしまう。熊にされたカリストーは狩られて殺されてしまう。ゼウスはカリストーの遺体の中から子供を取りだしマイアに預け、遺体を天にあげておおぐま座に変えた。(Wikipediaより要約)
おおぐま座は北斗七星を含むので、これは「天狗食北斗」神話といえる。ハイヌウェレ神話ではサテネはハイヌウェレの死に怒り、ハイヌウェレと共に姿を消す一心同体の女神として現されるが、ギリシャ神話のアルテミスはゼウスに襲われたカリストーに対し、怒り罰を与える。こちらは仕事を怠けた織り姫に罰を与える西王母と同じパターンといえる。西王母やアルテミスは父系の文化に取り込まれ、父系の身分秩序を守る女神となったため、特に「行うべき仕事を怠けている下位の女神」を厳しく監督する傾向がある。天狗に襲われた気の毒な月乙女達は、苗族の伝承の中でも
自分勝手に逃げ出した
と非難の対象にされている。非難は父系の神話が拡大し、頂点にある天帝やゼウスの権威が高まれば高まるほど、激しくなるようである。天狗(天帝)やゼウスの行いが非難されることはあってはならないからである。
アルテミスが処女の女神であることは、彼女がかつて「結婚できなかった月乙女」であったことを伺わせる。「結婚できなかった月乙女」は父系の神話に取り込まれて「厳しく監督する上位の(月)女神」と「スケープゴート的に非難され罰され殺される下位の女神」に分けられてしまったことが分かる。元は同じものであった2つの女神の一方が、虐待的にもう一方を殺す、というパターンは「うりこひめとあまのじゃく」や「シンデレラ」という話へと変遷していくように思う。狩られて殺されたカリストーは「犬に追われて殺された」とも考えられるので、言外に「天狗食北斗」が暗示されているかもしれないと考える。カリストーが北斗の女神である点は、彼女が元は苗族の日月北斗乙女と同様の女神で、北斗女神の姿が強調されたものだということが示唆される。異教時代のヨーロッパでは熊女神信仰が盛んであった。
イーピゲネイア・ギリシャ神話
ミュケーナイ王アガメムノーンはトロイア戦争に出征する前に狩をし、「私の腕前には狩の女神たるアルテミスもかなわないであろう。」と口を滑らせた。アルテミスは侮辱する人間に対して、猟犬に八つ裂きにさせる、子供を皆殺しにする、疫病をはやらせるなど、残酷な手段を辞さない女神であり、トロイアに味方していたため、怒りで逆風を起こし兵団が出発できないようにしてしまった。そこで神託を問うたところ「娘を生贄にささげよ」とのことだった。アガムメノーンは苦悩の挙句、オデュッセウスの献策でアキレウスとイーピゲネイアの婚礼を挙げると言って、妻と娘を騙し、妻クリュタイムネーストラーと娘イーピゲネイアを呼びよせた。真実を知り、悲嘆に暮れ並み居る勇者たちに娘の助命を願い出るクリュタイムネーストラーに対し、イーピゲネイアは王女の務めとしてわが身を捨て国のために生贄となることを承諾する。半狂乱で身を投げ出して嘆く母と義憤から勇士たちの先頭に立って助命を叫ぶ憧れの男性アキレウスを宥め、気高い王女は婚礼の衣装を身に着けたまま祭壇で命を落とした。この後日談にあたる『タウリケーのイーピゲネイア』では、イーピゲネイアの気高い振る舞いに同情したアルテミスが怒りを和らげ、最後の瞬間彼女を救い出して、タウリケーの自分の神官にすえたとされる。また、劇の最後にイーピゲネイアは祭壇の上で鹿と入れ替わった、ともされている。(Wikipediaより要約)
こちらのアルテミスも残酷な女神だが、後日譚としてややサテネのようなエピソードがわずかに付け加えられている。ハイヌウェレ神話と比較すれば、アガメムノーンがアメタ、アルテミスがサテネ、イーピゲネイアがハイヌウェレに相当する。イーピゲネイアは父親に殺されるのだから、天狗食日月の「天狗」が「父親」に相当することが分かる。ハイヌウェレ神話には登場しないが、殺される乙女を助けようとする「英雄」はアキレウスである。しかし、これは救出に失敗したパターンといえる。「月の女神を殺して得ようとする豊穣」がハイヌウェレ神話のような単純な「芋」ではなくて、「戦争の勝利」とか「神の加護」とか、社会的なもの、観念的なものにまで拡大されていることが分かる。
アルテミスの猟犬の性質や、婚礼に関連する話である点、そして殺される月乙女は処女である、という点が、天狗食日月からの派生神話であることを伺わせる。ただ、ギリシャ神話は単なる伝承というよりは「文芸作品」という感が強く、文芸的な物語だと思う。娘を救おうとするクリュタイムネーストラーと、イーピゲネイアを哀れんで助けるアルテミスの中に、ハイヌウェレ神話のサテネに通じる精神を感じる。もしかしたら、「作品」ではなく「伝承」だった時代には、イーピゲネイアは鹿と交換されて助け出される、という物語だったかもしれないと思うがなんともいえない。文芸的な「悲劇」が強調されている作品なので、英雄アキレウスはハムレットのようにくだくだ悩む男性に描かれすぎてきいるのではないか、と個人的には思う。父王の幽霊に悩まされるハムレット、主神という名の怨霊に悩まされるアキレウス、である。
魔眼のバロール・アイルランド神話 殺される天狗
ギリシア神話のアガメムノーンは、最終的に復讐心に燃える妻のクリュタイムネーストラーによって殺されてしまう。中国神話における「天狗」は、彗星や流星のようなものと考えられ、これらは不定期にかついつか必ず現れるものであるので、天狗は語らずとも「いつか必ず現れる不死のもの」といえる。しかし、神話が伝播した先で語られるアガメムノーンは、あくまでも「人間」なので死ぬ運命を背負っている。
イーピゲネイアの類話と思われるのが、アイルランド神話の「魔眼のバロル」である。伝承により複数のパターンがあり、形式はかなり崩れていると感じるが、要約すると以下のようになる。
フォウォレ族の戦士バロールはダーナ神族のキアンからグラス・ガナウンという雌牛を盗む。バロールはドルイドから「娘の生んだ子供に殺される」と予言を受けていたため、娘のエスリウを塔に閉じ込めて育て、孫が生まれないように画策していた。キアンは雌牛を取り戻しにやってきて、塔の中のエスリウと交わりルーという息子をもうける。ルーは、海神マナナーン・マクリルが育てた、あるいは鍛冶師ゴブニュの弟子となった、といわれている。キアンは豚に化けているときに、トゥレンの子ら三兄弟に殺害されてしまった。 一方、バロールは敵をまとめ討つ破壊力がある「魔眼」の持ち主で、孫のルーに眼を潰され、殺されてしまった。
ギリシア神話と比較すれば、バロールがアガメムノーン、イーピゲネイアがエスリウ、アキレウスがキアンといったとこだろうか。キアンとバロールとの間で帰属が動く雌牛は、エスリウのトーテムであると思う。バロールが「魔眼」の持ち主である、という点は、饕餮文が「目」を強調していることを連想させる。台湾の神話にもバロールに似た邪視の持ち主であるバジが登場するし、バジも殺される話が多いので、これもバロールの類話と思われる。エスリウは殺された日月乙女と思われるが、生きてこっそり子供を生んでいるので、太陽乙女の結婚で終わる天狗食日月譚と、月乙女の冥界婚で終わる話の折衷的な内容といえる。娘を殺してしまうアガムメノーンと同類のバロールは、娘が牛であることから、彼のトーテムも牛であることが示唆される。一方のキアンのトーテムは分かりやすく豚である。ハイヌウェレ神話のアメタは豚を狩る狩人で、ハイヌウェレは豚の死によって登場するが、ルーも豚のキアンの死によって登場する、といえる。
牛である点、巨大な目を持っている巨人的な点、戦に巧みでありながら殺されている点から、バロールは中国神話における蚩尤・饕餮、娘を殺す点から天狗と類似しているといえ、天狗とは蚩尤・饕餮のことでもあると分かる。インド神話の天狗ラーフは、「首だけ」の姿であって、更により饕餮的である。
余談的だが、エスリウの物語に類似しているラプンツェルでは恋人の王子は盲目になってしまう。中国の民間伝承でも恋人を殺されて雄鶏に助けて貰う娘の話がある。彼らの「恋人」である男性が何故死んだり害されたりしてしまうのだろうか。それは、日月乙女達が、かつては猛獣の日月王母で、若者あるいは動物を婿という名の生け贄に求めたからではないだろうか。可哀想なキアンは、本来はエスリウに捧げられた犠牲の豚だったのである。アガメムノーンが妻に殺されてしまったのも同じ理由で、日月乙女イーピゲネイアの母クリュタイムネーストラーが、猛獣の日月王母から変化したものだったから、と推察する。アガメムノーンですら、猛獣の日月王母の前では単なる犠牲獣にされてしまうのだった。そしてキアンに相当するアキレウスも殺される運命を背負っていたのである。
魔眼とは何か
日本に伝承には、「魔眼」というものがなく、管理人にはイメージがつきにくいものである。Wikipediaによれば、バロールの魔眼は
ある伝承によれば(メイヨー県)バロルは単眼にもかかわらず、7層の蓋がかぶせられていた。それは"有毒・烈火の目"で、"最初の蓋をとると蕨が枯れ始め、2枚目をとると芝草が赤銅色に変じ、3枚目で森林や木材が熱をもち、4で木々が発煙、5ですべては赤くなり、6で火花が散り、7ですべては発火して"里山は火の海となる。
とのことなので、これも元はバロールが流星と考えられていたところから来ているのかもしれないと思う。隕石が地上に落ちてくれば、このように大惨事を起こすことがある。台湾のバジの目は、怪光を放って複数の人を殺す力を持っている。バロールは普段目を閉じているが、バジは顔を隠して、人里離れた所に閉じこもって暮らし、食物を家人に運んでもらっていたりする。・・・これって「ものぐさ太郎」では? と思う管理人である。ものぐさ太郎は、垢と汚れで素顔を隠す。中国神話の饕餮も怠け者の男のように描かれる。日本の伝承の「魔眼」はすでに「魔眼」を失った姿で描かれるのである。
普段は見えていないけれども、時々姿の見える神
天狗は彗星や流星であるので、「普段は見えていないけれども、時々姿の見える神」である。そして、管理人は思うのだけれども、アメタとアガメムノーンという名は似ているのではないだろうか? 他にも名前が似ている神々がいるのではないだろうか? それはエジプト神話のアメンと、幼児供犠で悪名高いカルタゴのバアル・ハモンである。
アメン神・エジプト神話、ダグザ・アイルランド神話他 軍神として
アメン神はラーと習合して「アメン・ラー」となり、太陽神とされる。しかし、元は「大気の守護神」で「目には見えない神」だった。
世界遺産第一号であるアブシンベル神殿内の至聖所に座するその像は、第19王朝のファラオであったラムセス2世像とともに、春と秋の特定の日に1回ずつ、奥まで届く太陽の光によって照らし出されるようにするために、天文学的計算に基づいた配置となっている。(Wikipediaより)
とのことである。古代の人々は、彗星や流星は、時々、太陽の光で発火するようなもの、と考え、これを太陽神の一種と考えたのではないだろうか。そしてアイルランドにはこれと似た
年に1度冬至の朝、日の出の際の太陽光が約17メートルの長い通路に射し込み、部屋の床を照らす。(Wikipediaより)
という、ニューグレンジという遺跡がある。ニューグレンジは古代中国でなら「雷文」と呼ぶであろう渦巻き文で装飾されている。アメンとバロールは、「時々姿を現す彗星や流星の神(天狗)」で、「太陽神の一種、雷神の一種、地上に降りては火の神の一種」とも考えられていたのではないだろうか。とすれば、饕餮もアメタも同様の神であったと思われる。これは日本で言うところの「火雷神」といえる。アメタが「夜」という意味なのは、通常は彼の姿がアメン神のように「夜の闇の中にいるように見えない」と考えられていたからではないだろうか。そして彼らの「目」は「魔眼」なのである。そして、冬至に太陽が彼らを照らす、という思想があったのであれば、
「冬至の太陽が弱ってしまうのは、太陽の火が彗星や流星に移ってしまうから」
という概念だったのではないだろうか。冬至とは、「隠れた火雷神の力が最大になる日」だったのではないだろうか。
ちなみにニューグレンジはダーナ神族のダグザという神が建設したと言われている。ダグザは
破壊と再生、生と死の両方の力を併せ持つ巨大な棍棒、天候を自在に操ることで豊作を招き、感情や眠りを誘うことができる三弦の金の竪琴、そしてダーナ神族四秘宝の一つにして無限の食料庫である大釜を所持している。その外見は太った姿の髭を生やした大男とされ、丈の短い衣を身に着け、毛皮の長靴を履いている。(Wikipediaより)
という神である。ダグザは巨人神であり、人を眠らせることができ、神々の食料を供給する大釜を所有している。天候神でもある。人を眠らせることができる点は苗族の雉魔王の性質と共通している。神々の食料を供給する大釜とは饕餮文が描かれた鼎を連想させる。ダグザ(Dagda)という名前は、饕餮(tāotiè)が変化した名とはいえないだろうか。似たような名の神にガリアの神テウタテスがいる。
テウタテスは軍神であり
「戦争しようとする時にはその戦争の獲物をこの神に捧げる。勝てば捕まえた動物を犠牲にし、他の獲物を一箇所に集める。」とカエサルは述べている。また、ルカヌスはテウタテスを人身御供を求める神だ、と述べている。(Wikipediaより)
アガメムノーンは戦争の前に娘あるいは鹿を神に捧げている。アガメムノーンの祭祀はテウタテスの祭祀に類似しているように思える。アガメムノーンは本来ガリアのテウタテスのように、アガメムノーン自身が戦争の勝利のための人身御供を求める神だったのではないだろうか。そして彼がローマ神話のサートゥルヌスのように「我が子」を人身御供として求めるようになると、カルタゴのバアル・ハモンのように幼児供犠を求める神となるのだろう。アガメムノーンは本来ギリシャのバアル・ハモンといえる神で、蚩尤のように軍神としての性質を持ち、軍事的有事には我が子を生け贄に差し出すよう求める神だったのではないか。先住ギリシャ人の文化は古代エジプトの影響を受けているので、アガメムノーンは先住ギリシャ人にとってのアメン神的神だったと考えられる。その神話がギリシャ神話が台頭する時代にアルテミス女神の神話と習合し、アガメムノーンの地位が神々から人間の英雄へと低下して語られるようになったものがイーピゲネイアなのだ、と管理人は考える。
また、アガムメノーンには「クリュタイムネーストラーを、夫でありいとこのタンタロスを殺して奪った。」との神話もあり、タンタロスという名前は饕餮に近い名と思われるので、テーセウスのミーノータウロス退治のような神話をアガムメノーンもかつては持っていたといえる。アガムメノーンがテーセウス、クリュタイムネーストラーがアリアドネー、タンタロスがミーノータウロスである。このように苗族でいえば、鶏英雄のような性質を持つ一方で、日月乙女を拘束して死に至らしめるような雉魔王(天狗)の性質をアガメムノーンは有している。傲慢で非情、所有欲の強い男だった、という点も饕餮を連想させる。アガムメノーンは西洋の異教の雷神がそうであるように、鶏英雄と雉魔王を習合させた合成神だったと思われる。
ダグザの息子オェングスは、中国神話の織女に相当する鳥乙女を妻とし、牛郎織女説話的な「天狗」の性質を持つ。また蝶を愛人とし、苗族の楓蚩尤と同様の性質も持つ。ダグザとオェングスは日本神話の須佐之男・五十猛神・御歳神のように、饕餮(蚩尤)の性質を父子に分けて表現した神々なのではないだろうか。ニューグレンジは、冬至に太陽の力をダグザあるいは建設当時に存在したダグザに相当する神に与える祭祀場であり、だからこそそこはケルトの「雷文」ともいえる多数の渦巻きで装飾されているのだろう。それはダグザあるいはダグザに相当する神、すなわち饕餮の文様なのである。
バアル・ハモン カルタゴ神話
古典古代の史料はカルタゴ人は幼児をバアル・ハモンへの供物として生きたまま焼いた、と報告している。バアル・ハモンは、アフリカのサートゥルヌスとしてローマ化されたが、その場合は多産の神として表象されていた[10]
台湾のバジとインドネシアのアメタを習合させたかのような名前の神である。この神のトーテムは羊であり、アメン神と同様である。空と植物の神格とのことで、植物神である点は蚩尤と一致する。天狗神は人身御供を要求するので、バアル・ハモンも同様といえる。子供を焼き殺すのは、バアル・ハモンが「火の神」でもあるからではないだろうか。まさにそうやって人身御供を「神に食べさせた」と思われる。
サートゥルヌスとトート 時の神
地中海周辺の「我が子を食らう神」を見ていくと、気がつくことがある。カルタゴのタニトとその夫バアル・ハモンは幼児供犠を求めたと思われるが、若い乙女のみを求めたのではない。とすれば、タニトとバアル・ハモンは苗族のヤマイヌ(天狗)のように、日月乙女を狙い撃ちしたのではない、ということになる。
サートゥルヌスは人々に農業やブドウの木の剪定などを教えたと言われており、植物神そのものではなく、植物に関する「産業神」としての性質を持つ。
サートゥルヌス神を祝した古代ローマの祭であるサートゥルナーリア祭(Saturnalia)は12月17日から12月23日まで行われた。サートゥルヌスの神殿では、サートゥルヌス像に普段結ばれていた縄を解き、その年が終わるまでそのままにしておいた。神殿前には生贄を置く長いすが設置された。そして人々も互いにプレゼントを贈り合った。また、この期間だけ奴隷とその主人がこ擬似的に役割を入れ替えてお祭り騒ぎを行うなどした。 蝋燭が灯され、あらゆる愉快な遊びが行われた。(Wikipediaより)
とのことである。ローマは狼を大母に持つ国なので、サートゥルヌスのトーテムも狼である、とは言えないだろうか。これは当然中国神話の「天狗」のことを指す。彼が普段縄でつながれているのは、サートゥルヌスが天空の秩序を乱す彗星や流星だからである。彼がうかつに出歩いて太陽や月を不必要に食い荒らされては困るのだ。しかし、冬至の時期は太陽の力(火)をサートゥルヌスに移す時期で、彼の力が強まる時期でもある。祭の時期に蝋燭がともされるのは、それが「サートゥルヌスに移された太陽の火」であることを示すのではないだろうか。サートゥルヌスは生け贄を得て更にその力を増し、人々は自らもサートゥルヌスに倣って、互いにプレゼント(小さな生け贄)を捧げ合うし、この時期だけ社会の秩序を乱して、「秩序を乱す神」であるサートゥルヌスの時期としたのであろう。農耕神であれば、季節の秩序をむしろ守る神でありそうだ、といえる。エジプト神話にトートという「知恵の神、書記の守護者、時の管理人」とされる神がいる。トートは
月と賭けをして勝ち、時の支配権を手に入れた。そこで太陽神の管理できない閏日を5日間作った(太陰暦と太陽暦の差)。(Wikipediaより)
とのことで、サートゥルヌスはローマで「太陽神の管理できない閏日」を管理する神とされたのではないだろうか。でも、それは全体から見れば、「暦と季節を正確に合わせる」という秩序を守る行為となったのである。
同じ名前で違う神 違う名前で同じ神
こうして見ると、ローマのサートゥルヌスとエジプトのトートは、表面的には一方は「農耕神」であり、もう一方は「書記の神、知恵の神」であって共通点がないように思えるのに、どこかに共通した性質、共通した起源があったのではないか、と推察される。古代のヨーロッパ、中近東、アフリカ北岸は「同じ名前で違う神」だったり、「違う名前で同じ神」というものが多数いて、人々もそれを承知しており、当たり前のように慣習的に習合を行っていた。
例えばエジプトのセトとローマのサートゥルヌスは「似たような名前」だけれども、セトは「嵐の神」「軍神」の性質を持ち、サートゥルヌスは「農耕神」だから異なる神のように見える。でも、セトには「レタスが好物だった」という逸話があり、レタスという植物神の性質もわずかではあるが持っていた。また、セトは性欲の象徴とされていたが、エジプトには他にミン神という男根が強調され、レタスに表象される農耕神かつ月神がおり、その性質の一部はセトと一致する。セトにはトートの父親とする説があるため、トートはセトから月神としての性質、理知的な神としての性質を分離して「書記の神」という職業の技術神としての性質を持たせたものといえないだろうか。月神としての性質は当然ミン神と一致する。とすれば、エジプトにおいて
「セト、トート、ミン」は「違う名前で同じ神」の一群といえる。彼らは総合的に彼らの共通の性質の中にあった特性の一部分を分割して取り出し、その時代や状況に合わせて再編した神の一群なのだろう。
また、サートゥルヌスは本来エトルリアの神だったと言われている。エトルリアではサトレ(Satre)と呼ばれ
彼は暗く陰気な北西の地域に住み、「地中深くの住処から稲妻を放つ恐ろしく危険な神」であると思われる。エトルリア美術にはサトレと特定された像はない。「この神は謎のままである。[11]」(英語版Wikipediaより)
とのことである。ともかくサートゥルヌスには雷神や天候神としての性質があり、地下に関連した神としての性質も、本来はあった、ということが分かる。農耕神なのだから、植物にも関連性がある。古代における「月神」が「死んだ太陽神」のことであれば、トートやミンはその点で「冥界に関連する神」といえる。サートゥルヌスは「セト、トート、ミン」群と共通した性質を持つ神であり、古代ローマ人は「雷神としての性質を持っている」ということを本当は知っていたのだと思う。共通した性質とは「雷神(嵐神)、軍神、冥界神(月神)、農耕神(あるいは植物神)、男根に基づく豊穣神、(知恵の神)」である。そして人身御供が捧げられていたのであれば「天狗」であるともいえる。
ギリシア・ローマには他に「サテュロス」という半神半獣の下位の神がいて、こちらは男根が強調され、破壊的で危険な神であり、死ぬ神であり、戦争に参加もしたとされている。牧羊神パーンの息子とも言われる。男性的な能力が強調され、破壊的な軍神といえば、エジプトのセトと共通した性質である。たぶん、古代ローマの人は、サートゥルヌスとサテュロスが元はセト的な「同じ神」で、男性的な能力が、一方では「農業の豊穣」に関連し、一方では「牧畜の豊穣」に関連する神として別れたものだ、と知っていたと思う。知ってても言わないことは「ずるい」というのではないか、と管理人は考える。
ヘルメース・ギリシア神話 嘘つきは泥棒の始まり
エジプト神話のトートは時代が下るとギリシア神話のヘルメースと習合して、ヘルメス・トリスメギストスという架空の伝説的人物とされた。どちらも「知恵の神」とされたけれども、ヘルメースは「泥棒の守護神」ともされ、泥棒のためなら平気で嘘をつくという神話がある。ヘルメースの知恵とは、要は「悪知恵」なのだ。また、ヘルメースは「ゼウスの息子神」として下位の神であり、また伝令神であるがゆえに冥界などの異界との境界を出入りできる神ともされた。ヘルメースそのものは、ギリシャ先住民の神と考える説があり、牧羊神や豊穣神と考えられ、ヘルマと呼ばれる道祖神的な役割を果たした柱像では、男根が強調された姿で描かれた。エジプト神話のミン神と類似した性質である。
「同じ名前で違う神」群を挙げていくと、これまた大量に出てくる神なので、まずは名前の「H+M」という子音が「K+M(N)」という子音と交通性がある、ということを前提として書き出してみる。すると、ヘルメース(ギリシア)、クロノス(ギリシア)、クマルビ(ヒッタイト)、ハモン(カルタゴ)、アメン(エジプト)、クヌム(エジプト)、エンキ(メソポタミア)、フンババ(メソポタミア)、ヘミッツ(カフカス・オセット族)、クンバン(エラム)、ハヌマーン(インド)と、軽く挙げただけでもどんどん出てくる。おそらく、この系統の神として、ヘレネスの神がクロノスであり、ギリシャ先住民の神がヘルメースだったので、ギリシャ神話をまとめるときに、クロノスは上位の神、ヘルメースは下位の神にされてしまったのだろう。
余談的になるけれども、「K+M(N)」という子音の名を持つ「女神」といえる存在も、少数だけれどもある。いずれも強烈な個性を持つので挙げてみる。クリュタイムネーストラー(ギリシア、アガメムノーンの妻)、クリームヒルト・グズルーン(ドイツ・北欧、ジークフリートの妻)、グィネヴィア(ブリテン、アーサーの妻)、グラーニア(アイルランド、フィン・マックールの妻)である。いずれも「王侯の妻であり姉妹」だ。そして名高いハイヌウェレとなる。
クリュタイムネーストラーは娘の処遇に怒り夫のアガメムノーンを殺す、クリームヒルトは夫の処遇に怒り兄弟のハゲネとグンテルを殺す、グィネヴィアは若い騎士が好きになって夫のアーサーを死に追いやる。グラーニアはグィネヴィアの逆で、愛人の若い騎士と共に死を選ぶ。父系社会において、男性顔負けの強面な「女神」たちなのだけれども、その名前の類似性と、殺された相手の名前の類似性から、元は同じ伝承から発生した女神群と考えられる。イーピゲネイアとハイヌウェレ神話の相関からいえば、ハイヌウェレ神話では「殺される娘神」が「H+M(N)」の女神だったのに、イーピゲネイアでは、これが「母女神」に変更されているだけのこと、と分かる。ニーベルンゲンのクリームヒルトは露骨に殺されはしないけれども、妻としての社会的立場をグンテルに恥をかかされて傷つけられたし、ハゲネに財産を横領されたので、これを「殺されたも同然」と解釈すれば、クリームヒルトは「殺される女神」でもあるし「復讐する女神」でもある、ということになる。グィネヴィアとグラーニアは、男として役にもたたなくなったじいさんの妻でいることは女として死んだも同然、と言い出すとだんだん男性に失礼な女神になりすぎてる気もするけれども、神話的な性格はそのようなものだ。
ということで、この復讐心の強い女性達はかなり起源の古い女神ではないか、と思われるので、イランとインドの神話を探ってみると、イランにはスプンタ・アールマティ、アナーヒターという女神がいて、インドにはカーマデーヌという女神がいる、ということになる。特にアールマティはインド・イラン共通時代にまで遡る女神と考えられ、牧地などを守護する地母神とされている[12]。インドのカーマデーヌと併せて考えれば、「牧牛女神」といえる大女神だったといえる。カーマデーヌには、子供達である家畜が辛い労働を強いられていることを嘆いた、という神話があるので、弱者である下位の女神達を踏みつけにする西王母やアルテミス女神とは異なり、弱者の保護と寛容さに努める、とされる女神だったことが分かる。そしてそのひっくり返しとして、卑劣な行いをする者には峻厳さを示すという激しい一面を持っている女神でもあったかもしれないけれども、観念的になりすぎたゾロアスター教の女神や、牛に変換されてしまったインド神話では、激しい一面は削除されてしまい、残されているのはギリシア神話とゲルマン系の神話の中のみ、ということだと思う。牛の女神といえば、アイルランドのグラス・ガヴナン、アウズンブラがいるけれども、みな同起源の女神と考えます。アウズンブラはカーマデーヌではなく、スラビーに近い名なのではないか、と思う。アイルランドのエスリウもスラビーに近い名と思う。
ネイト・エジプト神話
ネイトは古代エジプトの大母で、戦いと狩猟の女神であり、機織りの女神ともされ、彼女のトーテムの一つはライオンとされた。彼女の顔を見たことのある者はいない、ともされた。
ヘロドトスによれば「ランプ祭」(Feast of Lamps)と呼ばれる大きな祭りが毎年開催され、戸外に一晩中多数の明かりを灯したという。ネイトは、守護するカノプス壷に寄ってくる悪霊に矢を放って追い払うとされた。 (Wikipediaより)
ネイトが猛獣のトーテムを持ち、狩の女神でもあることは、その起源が農耕・牧畜が開始される前の、狩猟採集の時代にまで遡るものとはいえないだろうか。農耕神であるサートゥルヌスよりも起源が古い神といえる。しかし、その顔が隠れていて見えない点は「魔眼」持ちであり、夜に明かりを灯して祀られる点は、「太陽から力を得て灯るサートゥルヌスの祭祀」を思わせる。彼女が弓矢で魔を追い払う点は、そこにのみわずかに苗族の「鶏英雄」あるいは中国神話の羿の姿をうかがわせるように思う。それ以外の点では、猛獣大母であり、世界と人々の運命の秩序を織り上げ、天輪を回す織り姫である点から、彼女は母系社会が優位であった時代の「太陽王母」であったと推察される。彼女は羲和のように「太陽の母」とされている。また水神でもある。
母系社会の「太陽王母」が「天空全体の秩序を守る日月北斗(星)女神でもある。」とすれば、ネイトはその性格を強く残した女神といえる。日本には、神々について「和魂(にぎたま)」と「荒魂(あらたま)」という概念があり、和魂のとき、神々は穏やかで秩序は守られているが、荒魂は神の荒々しい側面といわれ、一つの神はこの二面性を持って存在している。彗星や流星が「天空の秩序を乱す太陽の一側面」で、「太陽の火が飛び散って発火しているようなもの」あると考えられていたのであれば、発火していない時はその姿が見えない、となる。「太陽王母」の「和魂」が日々の日月北斗の運行の秩序を守るものであるとすれば、「荒魂」とはどこをうろつくのか定まらない彗星や流星、時に雷のことを指すといえる。ネイトの通常時の姿を誰も見たことがない、ということは、ネイトは日本神話で言うところの「荒魂の側面が強い太陽女神」であるといえると考える。母系の太陽王母が自らの娘達を襲って財産と貞操を奪う理由はないので、彼女は選択的に日月乙女を襲うことはない。彼女が「生け贄を求める女神」であるならば、猛獣女神の餌としての人身御供は、男でも女でも構わないということになる。すなわち、性差を問わず人身御供を求める文化は、猛獣の太陽王母に起源があり、日月乙女が人身御供とされる文化は父系の狼神の力が太陽王母を上回った父系文化の台頭に起源がある、ということである。サートゥルヌスが性差を問わず生け贄を求める神であるということは、男神ではあるけれども、その起源が母系社会の時代にあることが示唆される。地中海周辺はネイトを始めとして、古くからの女神信仰が強力に残されたため、「性差を問わず生け贄を求める」という彼女達の文化も色濃く残されたのだと思われる。しかし、カリストーに対するアルテミスのように、女神達が「父系の神話の擁護者」として父系の神話に強力に取り込まれると、彼女達は父系の神らしく、元は自分と同じものだったと思われる日月乙女達を虐待しだすのである。
竹取物語・日本の伝承
月の女神のような存在である日本のかぐや姫である。ハイヌウェレ神話の類話といえる。
竹取の翁が竹の中から発見した少女は美しいかぐや姫に育つ。多くの男から求婚されるが、難題を吹きかけて断ってしまう。帝からも求婚されるが、かぐや姫は「月に帰らなければならない」と断る。翁は姫を塗り籠めに閉じ込め、帝は家来を送って姫を守り、月に返すまいとする。ところが月からやってきた使者を見ると、武士達は力が萎えて弓を射れなくなってしまい、かぐや姫は月に帰ってしまう。彼女は不老不死の薬を作って帝に残していくが、帝は「姫がいないのに不老不死に用はない」と述べて、薬を天に一番近い富士山の山頂で燃やしてしまう。
竹取の翁がアガメムノーン、かぐや姫がイーピゲネイア、帝がアキレウス、といった感の日本の「天狗食日月譚」である。かぐや姫は「殺された月乙女」なので、処女のままである。父親に閉じ込められる点は、バロールの神話に似る。彼女が不老不死の薬を持っている点は嫦娥神話の影響と思われる。ただし、これも民間伝承を元にした文芸作品といえるので、文芸的である。帝は殺されはしないが、「死ぬ運命になる」という表現で死のイメージは緩和されて表現される。衛士達が使者を追い払うために弓を射るのは、羿神話からの流用であろうか。とすれば、ここで語られる「帝」とは羿のことであり、「かぐや姫」とは嫦娥のことであることが分かる。「本当に、羿は妻を月になんかやりたくなかったんだよ。ただ守りたかったんだよ。」と名前不詳の作者がそう言いたくてこの物語を作ったのではなかろうか、と管理人は思うくらいである。
竹取の翁は竹がトーテムでもあるが、職人でもある。これは木工神である五十猛神が民間伝承化したものといえる。五十猛神の父・須佐之男は織り姫を殺す神であって、まさに中国的な「天狗」である。
十人の処女たちのたとえ
そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。(マタイによる福音書25章1節から13節(口語訳))
当時の結婚式は、花婿が花嫁の家に迎えに行き、花嫁と一緒に行列となって花婿の家に戻り、そこで式を挙げるというものだった。花婿が花嫁の家に到着したときに、乙女たちがともし火を持って迎えるという慣習があった。そのため乙女たちにとって、ともし火を持って花婿を迎えることは大切な使命だった。ともし火が消えないように万全を期した準備で花婿を迎える必要があった[13]。
ともし火は愛のともし火であり、備えの油は愛の油であった。たとえの中の花婿はイエスを、乙女たちは我々人間を、ともし火は信仰を、油は愛と善業を表す。眠りはイエスの来臨までの期間を表し、婚宴は天国を表している。たとえの中で目覚めて用意することは「賢い」という言葉で表現されている[13][注釈 1]。(Wikipediaより)
・・・自分でもいつ戻ってくるのか分からないのなら、待っている人達にあれこれ世話を焼くのは、「大きなお世話」というものでは? 本当にイエスってこういうこと言う人だった? と思うキリスト教徒ではない管理人である。
それはともかく「行うべき仕事を怠けている愚かな娘達」は明かりの乏しい月乙女達であり、「賢い娘達」は太陽乙女達であると考える。結婚に関する話ではあるが、結婚するのは太陽乙女達ではない。もはや伝承の中に天狗は登場せず、完全に「労働に関する説話」になってしまっている天狗食日月である。乙女達が10人である点は、羿神話の「10の太陽」を思わせる。変形が著しいけれども、天狗食日月が労働に関する説話に変化して広範囲に伝播していた証拠といえるのではないだろうか。
参考文献
- 西山経、山海経、高馬三良訳、平凡社、1994、p42
- 天官書第五、史記I、小竹文夫他訳、筑摩世界文学大系、筑摩書房、1971、p164-165
- 犬(3) 狗食日月、神話伝説その他、eastasian、00-01-18(最終閲覧日:22-10-23)
- 『紅河イ族辞典』より、天狗食べ日(月)考、王鑫、怪異・妖怪文化の伝統と創造ーウチとソトの視点から、2015、巻45、p67
- 村松一弥『苗族民話集』平凡社、1974年
関連項目
私的注釈
參考
- ↑ 西山経、山海経、高馬三良訳、平凡社、1994、p42
- ↑ 天官書第五、史記I、小竹文夫他訳、筑摩世界文学大系、筑摩書房、1971、p164-165
- ↑ 『紅河イ族辞典』より、天狗食べ日(月)考、王鑫、怪異・妖怪文化の伝統と創造ーウチとソトの視点から、2015、巻45、p67
- ↑ 『中国文学大事典・下』より、天狗食べ日(月)考、王鑫、怪異・妖怪文化の伝統と創造ーウチとソトの視点から、2015、巻45、p67
- ↑ 扈貞煥, 《韓國的民俗與文化》, 2002-10, 台灣商務出版社, 台灣, isbn:9570521163
- ↑ 李谋, 《缅甸文化综论》, 2002-08, 北京大学出版社, 中國, isbn:9787301058312
- ↑ 犬(3) 狗食日月、神話伝説その他、eastasian、00-01-18(最終閲覧日:22-10-23)
- ↑ 犬(3) 狗食日月、神話伝説その他、eastasian、00-01-18(最終閲覧日:22-10-23)
- ↑ 村松一弥『苗族民話集』平凡社、1974年、p357-362。
- ↑ Carthage, a history, Serge Lancel, p197
- ↑ Simon, "Gods in Harmony," p. 59.
- ↑ ゾロアスター教の大女神、p87
- ↑ 13.0 13.1 場崎 洋(2011)、pp.337-338
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