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799 バイト除去 、 2025年3月7日 (金)
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* 工藤浩(2004年)は建御名方神を[[物部氏]]が奉斎したフツヌシに比定して、国譲り神話の原形を物部氏による出雲県(あがた)の設置に基づくとした。『古事記』における建御名方神像は、物部氏没落後に中央政界に台頭した中臣氏によるもので、国譲り神話から物部氏の影を払拭しようとして『古事記』の編纂者が天津神に派遣される使者をフツヌシからタケミカヅチに変えて、「建御名方神」(神名は「御県の神」というフツヌシの別称から)という神を創作して、これをタケミカヅチのやられ役にしたという<ref>工藤浩「建御名方神の諏訪鎮座を巡って」『国文学研究』143、早稲田大学国文学会、2004年、8-10頁。</ref>。
* 寺田鎮子・鷲尾徹太(2010年)は、建御名方神をヤマト王権による日本古来の信仰の整理統一の文脈で作り出され、朝廷への服従のしるしとして諏訪に押し付けられた人格神としている。諏訪の人々は表面上この神格を受け入れたが、古来のミシャグジ信仰を捨てず、ヤマト王権の「カミの整理統合」に抗って独自の信仰を裏で発展させ続けたという<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太 『諏訪明神―カミ信仰の原像』 岩田書店、2010年、80-83頁。</ref>。なお、寺田と鷲尾は神氏を大神氏(三輪氏)の同族集団として捉えており、『古事記』の建御名方神の敗走の話が三輪山麓を本拠としていた三輪王朝(崇神王朝)が大和政権(応神王朝)の確立とともに地歩を失い、東国へと分散していったこと(王朝交替説)を反映しているのはあり得るとも考えている<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太 『諏訪明神―カミ信仰の原像』 岩田書店、2010年、136、218頁。</ref>。
* 戸矢学(2014年)は建御名方神(建御名方)という神名を文字通り「建き御名の方」と解釈し、[[物部守屋]]に比定している<ref>戸矢学『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』河出書房新社、2014年、99-129頁。</ref>。この説において、[[丁未の乱]]の後に物部氏の一族(後の守矢氏)が諏訪へ逃亡して、そこで亡き守屋の霊を「建御名方神」という。この説において、丁未の乱の後に物部氏の一族(後の守矢氏)が諏訪へ逃亡して、そこで亡き守屋の霊を「建御名方神」という'''[[御霊信仰|怨霊神]]'''・祟り神として祀ったとされている<ref>戸矢学『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』河出書房新社、2014年、133-134頁。</ref>。『古事記』の説話は、朝廷が建御名方神を崇拝する勢力に武力放棄の誓約をさせたという出来事をもとに創作された神話としている<ref>戸矢学『諏訪の神 封印された縄文の血祭り』河出書房新社、2014年、44-45頁。</ref>。*佐藤雄一(2017年)は建御名方神挿入説を支持しながらも『古事記』の国譲り神話の成立を天武・持統朝(7世紀後半)に求めており、『古事記』の神話では州羽(諏訪)が葦原中国の最東端として出てくることを当時の政権にとっての信濃国の重要な位置づけを反映していると考えている<ref>佐藤雄一「国譲り神話と天武・持統朝―信濃造都計画と建御名方神―」『出雲古代史研究』27号、出雲古代史研究会、2017年、35-54頁。</ref>。また、「創作された神」である建御名方神が、本来の諏訪における神(『日本書紀』持統天皇紀に見える水神としての「須波神」)に代わって信仰を集めるようになった理由を、6世紀に欽明天皇に仕え氏族として成立した[[金刺氏|金刺舎人氏]]が、6世紀後半に諏訪を支配するようになって以降、。また、「創作された神」である建御名方神が、本来の諏訪における神(『日本書紀』持統天皇紀に見える水神としての「須波神」)に代わって信仰を集めるようになった理由を、6世紀に欽明天皇に仕え氏族として成立した金刺舎人氏が、6世紀後半に諏訪を支配するようになって以降、[[守矢氏]]と共同で祭祀を行ない、その地位を高め、それを示すのが建御名方神の神階昇叙であるという<ref name="#3">佐藤雄一「古代信濃の氏族と信仰」(2021年、吉川弘文館)</ref>。加えて、金刺舎人氏は[[多氏]]と同族であり、太安万侶を通じて『古事記』に建御名方神の神話を書かせ、壬申の乱で騎兵を率いた多品治も、信濃国で馬を飼育していた金刺舎人氏と接近し、朝廷と金刺舎人氏を結びつける役割を担ったという<ref name="#3"/>。
==== 過去に同一視された神々 ====
== 霊廟 ==
<div class="thumb tright">{| class="wikitable" style="font-size:80%;background-color:#ffffff;white-space: nowrap;text-align:center"|+|建御名方神・八坂刀売神の神階推移!年!!建御名方神!![[八坂刀売神]]|-|842年||無位勲八等<br />→従五位下||無位<br />→従五位下|-|850年||従五位上||従五位上|-|851年||従三位||従三位|-|?||(従三位→正三位?)||--|-|859年1月||正三位勲八等<br />→従二位||従三位<br />→正三位|-|859年2月||従二位勲八等<br />→正二位||正三位<br />→従二位|-|867年||正二位勲八等<br />→従一位||従二位<br />→正二位|-|[[延喜式神名帳|神名帳]]||名神大||名神大|}</div>[[六国史|国史]]にも見えるタケミナカタの霊廟としては、国史にも見える建御名方神の霊廟としては、'''[[諏訪大社]]'''([[長野県]][[諏訪市]]ほか、[[信濃国]][[一宮]])が知られる。『古事記』ではタケミナカタが「科野国州羽海」まで追われた旨は記されているが、現在で言う諏訪大社との関わりについては記されていない。諏訪大社に鎮座する旨が明記されているのは、『旧事本紀』「地祇本紀(地神本紀)」のほうである(長野県諏訪市ほか、信濃国一宮)が知られる。『古事記』では建御名方神が「科野国州羽海」まで追われた旨は記されているが、現在で言う諏訪大社との関わりについては記されていない。諏訪大社に鎮座する旨が明記されているのは、『旧事本紀』「地祇本紀(地神本紀)」のほうである<ref name="国史大系 第7巻"> 「[{{NDLDC|:991097/135}} 先代旧事本紀 巻第四 地神本紀]」『国史大系 第7巻』経済雑誌社、1898年、243-244頁。</ref><ref name="古事記"/>{{Sfn|<ref>諏訪大社上社本宮(平凡社)|, 1979年}}</ref>
国史や『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]等で同社の神名は「建御名方富命神」・「南方刀美神」等と表記され、[[神階]]は順次昇叙のうえ[[貞観 (日本)|貞観]]9年([[867年]])に従一位勲八等に達している{{Sfn|神道・神社史料集成}}。かなり急速に昇位するが、当時(9世紀)大活躍していた金刺氏の大きな力があったと考えられる<ref>諏訪市史編纂委員会 編「第二節 諏訪神社上社・下社」『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、697頁。</ref><ref>宮坂光昭 『諏訪大社の御柱と年中行事』 郷土出版社、1992年、12-13頁。</ref>。

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