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現在に伝わる御子神たちの名称をはっきりと記すのは『諏訪旧蹟誌』(江戸末期成立)が最初だが、嘉禎年間の奥書を持つ『根元記』と『祝詞段』には「小波木」「コハキ」([[意岐萩神|興萩命]])、または「イスハイ」「イスハエ」([[出早雄命]])という神名が見られる。また、平安時代に編纂された『日本三代実録』には、'''安達神'''(宇達神とも。守達神か)、妻科(地)神、馬背神、[[会津比売神]](かいづひめのかみ)、[[草奈井比売神]](くさないひめのかみ)、[[八縣宿禰神|八県宿禰命神]](やつあがたすくねのかみ)、[[出早雄神]]、蓼科神、池生神、[[槻井泉神]]と、孫神とされる神も含め十柱の名が確認できる<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、87-88頁。</ref>。
一般に、諏訪御子神の多くは[[国学]]が流行した江戸後期に「再発見」されたもので、実はそう古くはないと考えられるが、「13柱の諏訪御子神」という概念の原型が中世には既に確認できる一般に、諏訪御子神の多くは国学が流行した江戸後期に「再発見」されたもので、実はそう古くはないと考えられるが、「13柱の諏訪御子神」という概念の原型が中世には既に確認できる<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、88頁。</ref>。[[室町時代]]の神長官[[守矢満実]]が書いた文書では、春の[[諏訪大社#年間祭事|御頭祭]]で大祝の代理となる6人の{{読み仮名|神使|おこう}}や{{読み仮名|御左口神|ミシャグジ}}のほか「十三所(王子)」を諏訪明神の[[王子神]]とされている。。室町時代の神長官守矢満実が書いた文書では、春の御頭祭で大祝の代理となる6人の神使((おこう)や御左口神(ミシャグジ)のほか「十三所(王子)」を諏訪明神の王子神とされている。
{{quotation|誠ニ当社御神の王子にて、外県両人は上野一宮御腹、内県大県四人は下宮ニやどらせ給、御誕生うたがひなし。御左口神も十三所と申も、当社の王子御一体、今こそ{{Ruby|思合候|思ひ合はせ}}とて、{{Ruby|弥|いよいよ}}{{Ruby|不致祈念者|祈念を致さざる者}}なし。}}<blockquote>誠ニ当社御神の王子にて、外県両人は上野一宮御腹、内県大県四人は下宮ニやどらせ給、御誕生うたがひなし。御左口神も十三所と申も、当社の王子御一体、今こそ思合候(思ひ合はせ)とて、弥(いよいよ)不致祈念者(祈念を致さざる者)なし。</blockquote>
「十三所(王子)」とは、上社の摂末社群の祭神<ref>武井正弘, 「[https://doi.org/10.20807/icmrb.9.0_121 祭事を読む-諏訪上社物忌令之事-]」『飯田市美術博物館 研究紀要』 1999年 9巻、142-143頁。</ref>、あるいは後世でいう「13柱の御子神」のことであると思われる<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、90-96頁。</ref>。『上社物忌令』「波陬六斎日」<ref>武井正弘, 「[https://doi.org/10.20807/icmrb.9.0_121 祭事を読む-諏訪上社物忌令之事-]」『飯田市美術博物館 研究紀要』 1999年 9巻、135-136頁。</ref>にも「大明神・十三所王子・御左口神」が礼拝の対象として併記されている<ref>細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』ほおずき書籍、2003年、75-76頁。</ref>。『諏方大明神画詞』における坂上田村麻呂の安倍高丸征伐のくだりにも「十三所王子」が諏訪明神とともに登場している<ref>石埜三千穂「諏訪御子神としてのミシャグジ―ミシャグジ研究史の盲点を問う」『スワニミズム 第3号』2017年、89, 93-94頁。</ref>。

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