「プルシャ」の版間の差分
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[[サーンキヤ]]学派では、精神原理プルシャと物質原理[[プラクリティ]]が対置されている。サーンキヤでは、プルシャは物質的要素をまったくはなれた純粋なものとされる。同学派は、「私はだれだれである」とか「私の何々は」といった意識は、プラクリティから生じた心理器官に属するとし、それらの意識は上位器官である理性に属するとするが、プルシャはそうした意識や理性とは別であるとし、またプルシャは様々な感情とも異なるとする。プルシャは、プラクリティの展開がつくりだす現象世界を観照するとする。プルシャを説明するのに、水面や[[鏡]]に映った映像を見る人のたとえが用いられている<ref name="its">『哲学思想事典』岩波書店、1998年 pp.1410-1411 [[茂木秀淳]]執筆担当</ref>。 | [[サーンキヤ]]学派では、精神原理プルシャと物質原理[[プラクリティ]]が対置されている。サーンキヤでは、プルシャは物質的要素をまったくはなれた純粋なものとされる。同学派は、「私はだれだれである」とか「私の何々は」といった意識は、プラクリティから生じた心理器官に属するとし、それらの意識は上位器官である理性に属するとするが、プルシャはそうした意識や理性とは別であるとし、またプルシャは様々な感情とも異なるとする。プルシャは、プラクリティの展開がつくりだす現象世界を観照するとする。プルシャを説明するのに、水面や[[鏡]]に映った映像を見る人のたとえが用いられている<ref name="its">『哲学思想事典』岩波書店、1998年 pp.1410-1411 [[茂木秀淳]]執筆担当</ref>。 | ||
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+ | * Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%A3 プルシャ](最終閲覧日:24-12-30) | ||
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2024年12月30日 (月) 11:26時点における版
プルシャ(puruṣa, पुरुष)とは
- インド神話に登場する存在。原人とも巨人とも呼ばれる。
- サーンキヤ学派がたてた精神原理。
- サンスクリットで私、霊魂、自我あるいは人間、男性など意味する語。
インド神話
世界の最初に存在したとされ、『リグ・ヴェーダ』においては、原人プルシャの身体から太陽や月、神々や人間など世界の全てが生まれたという。
千個の目と千個の頭、千本の足を持つと言われる。
『リグ・ヴェーダ』10章の創造讃歌『テンプレート:仮リンク(原人の歌)』は、4つのヴァルナ(社会的身分)が生まれた由来を問い、その答えのなかとして次のように説明している。
- 神々が原人を切り分かちたるとき
- いくつの部分に切り離したるや。
- その口は何に、両腕は何になりたるや。
- その両腿は、その両足は何とよばれるや。
- その口はバラモン(司祭)となれり。
- その両腕はラージャニヤ(武人)となれり。
- その両腿からはヴァイシャ(農民、商人)、
- その両足からはシュードラ(奴隷)生じたり。
「ヴァルナ」の原義は「色」であり、上位からそれぞれ白、赤、黄、黒の4色であった。
サーンキヤの概念
サーンキヤ学派では、精神原理プルシャと物質原理プラクリティが対置されている。サーンキヤでは、プルシャは物質的要素をまったくはなれた純粋なものとされる。同学派は、「私はだれだれである」とか「私の何々は」といった意識は、プラクリティから生じた心理器官に属するとし、それらの意識は上位器官である理性に属するとするが、プルシャはそうした意識や理性とは別であるとし、またプルシャは様々な感情とも異なるとする。プルシャは、プラクリティの展開がつくりだす現象世界を観照するとする。プルシャを説明するのに、水面や鏡に映った映像を見る人のたとえが用いられている[1]。
参考文献
- Wikipedia:プルシャ(最終閲覧日:24-12-30)