「伏羲」の版間の差分
25行目: | 25行目: | ||
伏羲と女媧は天梯を昇り下りすることができた、とされており、境界神の性質も持っていた。 | 伏羲と女媧は天梯を昇り下りすることができた、とされており、境界神の性質も持っていた。 | ||
− | + | == 犬としての伏羲 == | |
河南省東部の漢族に、[[槃瓠]]とほぼ同じ話が伏羲の故事として語られている。物語の終盤で伏羲犬は | 河南省東部の漢族に、[[槃瓠]]とほぼ同じ話が伏羲の故事として語られている。物語の終盤で伏羲犬は | ||
2024年12月10日 (火) 01:09時点における最新版
伏羲(ふくぎ Fu Hsi または Fu Xi)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。宓羲・庖犧・包犧・伏戯などとも書かれる。伏義、伏儀という表記も使われる。三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は風。兄妹または夫婦と目される女媧(じょか)と共に、蛇身人首の姿で描かれることがある[1]。
太皞(たいこう)と呼ばれることもある。
伏羲と女媧の伝承はミャオ族、ヤオ族、トン族、イ族などでも語り継がれてきた[2]。
概要[編集]
西北にある華胥(かしょ)国の娘が雷沢(らいたく)の地で大きな足跡を踏み、その時に宿した子が伏羲であったとされる。五行では東方・春・木徳をつかさどる[3]雷沢にあった大きな足跡は、何者によるものかは明確にされていないが、雷神または天帝のものではないかとの学説がある[4]。
文化英雄[編集]
伏羲は、黄帝・神農などのように古代世界においてさまざまな文化をはじめてつくった存在として語られる。
伏羲は、八卦を河の中から現われた龍馬の背中にあった模様から発明したと易学では伝承されており、これを「河図」(かと)と呼ぶ。伏羲は,書契をつくって結縄の政治にかえた。はじめて婚姻の制度をたて,一対の皮をたがいに交換するならわしをさだめた。漁猟を民に教えた。かくて,民はみな帰服(伏)したので,宓(伏)犠氏という。また,牛,羊,豕などを家畜として養い、それを庖厨で料理して,犠牲として神祇や祖霊をまつった。それゆえに庖犠ともいう。そして,三十五弦の瑟をつくった。龍の瑞祥があったので,官名に龍という字をつけ,その軍隊を龍師といった。木徳の王であった。春の季節に合う行事をあげて,政令として記した。陳(河南省)に都した。太山(泰山。山東省)に登り,封を行った。王位について百十一年で崩じた[5][6]。
易学の書物である『易経』も、著者として伏羲が仮託されている。『易経』繋辞下伝には、伏羲は天地の理(ことわり)を理解して八卦を画き、結縄の政に代えて書契(文字)をつくり、蜘蛛の巣に倣って網(鳥網・魚網)を発明し、また魚釣りを教えたとされる[3]。漢の時代に班固が編纂した『白虎通義』によると、家畜飼育・調理法・漁撈法・狩り・鉄製を含む武器の製造を開発し、婚姻の制度を定めたとある。
古琴、瑟を発明したとの伝承がある。
洪水神話[編集]
伏羲と女媧は兄妹であり、大洪水が起きたときに二人だけが生き延び、それが人類の始祖となったという伝説が中国大陸に広く残されている。類似の説話は東南アジアや沖縄にも多数ある。洪水型兄妹始祖神話を参照。
中国の古典学者・聞一多も、雲南省を中心に民間伝承における伏羲の伝説を採集している。伏羲・女媧の父が雷公をとじこめていたが、子供たちがそれを解放してしまう。父は雷公と戦ったが、雷公が洪水を起こしたため、兄妹を残して人類が滅亡してしまう。兄妹は雷公を助けた時にもらった種を植えており、そこから生えた巨大なヒョウタンの中に避難して助かったのであり、結婚して人類を伝えたとある。聞一多は、伏羲が時に庖羲とも書かれる点に注目し、その音から、伏羲とはこの伝説の中に舟として登場するヒョウタンを指しており、そのことから「木徳」の王であるという要素も導き出されたのではないかと推論仮説している[7][8]。
伏羲と女媧は天梯を昇り下りすることができた、とされており、境界神の性質も持っていた。
犬としての伏羲[編集]
河南省東部の漢族に、槃瓠とほぼ同じ話が伏羲の故事として語られている。物語の終盤で伏羲犬は
甕に入り、「百日たったら人形になる。」と言って甕を覆わせた。ところが公主は待ちきれず九十九日目に甕の蓋を開けてしまった。犬は人形となっていたが、頭だけがまだ犬のままだった。犬は公主を妻にして漢族の祖となった[9]。
ヒョウタンとしての伏羲・私的考察[編集]
日本ではヒョウタンから作った柄杓を神事に用いる、ということが一部であるようである。朝鮮ではヒョウタンで作った器が好まれるし、中国ではヒョウタンは縁起物であるとのこと。総じて考えると、ヒョウタンから作り出した器には、何か持ち主に漠然とした幸運を与える、というような思想があったと思われる。
柄杓に対する信仰は、北斗七星信仰と関連しており、伏羲を北斗七星とみなしていた可能性があると思う。
また、ヒョウタンは酒を入れる器でもあるので、伏羲と女媧には酒に関する逸話が元はあったのではないだろうか。
祭祀[編集]
伏羲の号には、縄の発明者葛天氏も含まれる(要出典、2017年1月)。
道教に取り込まれてのち仏教の神仏習合の理論の上では、阿弥陀如来によって遣わされ、出現したばかりの地上の世界を造った中国の伝説上の存在として女媧と共に説かれた。日本でも仏教側の立場から編まれた神道論集の一つである『諸神本懐集』(14世紀)では伏羲の本地は宝応声菩薩(観世音菩薩・日天子)であるとの唐の時代の説が収録されている[10]。
伏羲と女媧の組み合わせが地上のはじめの男女であるという定義は中国の民間宗教にも広く用いられており、『龍華経』でも人間たちの祖先としてつくりだされた世のはじまりの陰陽一対の存在の名として李伏羲と張女媧[11]という名が記されている。
私的解説[編集]
伏羲は母親が雷沢の精に感応して生まれた子とされ、「雷神の子」と言われる黄帝と性質が一致している。ただし、伏羲を黄帝型神なのか、炎帝型神なのか、と考える場合には「炎帝型神」の方が絶対的に優位と言わざるを得ない。しかし、まずは黄帝型神としての性質から挙げる。
「八卦を河の中から現われた龍馬の背中にあった模様から発明した」と言われており、河に関する神としての性質がある。河とは水の集合体なので、水神である黄帝と性質が被る。龍蛇神(水神)である点は黄帝、共工と性質が一致する。
兄妹婚姻譚を持つので、伏羲は純粋な黄帝型神とは言いがたい。兄妹婚姻譚はバビロニア的な母系文化の特徴なので、むしろ炎帝型神の特徴といえる。黄帝が蛇形に変換された上に、炎帝型神の設定を付け加えられてしまったのが伏羲だと言えると考える。
伏羲は様々な技術を開発した「特許神」でもあり、かつ占いも確立したシャーマン(祭祀者、神官)であると言える。伏羲信仰では瓢箪が特殊な神霊とみなされている。瓢箪で作った器にも特殊な霊性が宿るものとされ、特に「杓」は北斗七星と結び付けられ、伏羲は「農業の豊穣をもたらす星神(北斗七星)」にまで発展したように思う。北斗七星が「天水をもたらすひしゃく」とされたのであれば、その点でも水神としての性質を持つといえる。
王権が発生し、確率してくると北斗七星(ひしゃく神)としての伏羲は玉皇大帝、天皇大帝、北斗星君等へ発展したと思われる。その点も黄帝と性質が一致する。玉皇大帝の政治を司る面を黄帝とすれば、占いを行い祭祀を行う面が伏羲である。これは地上における古代の皇帝たちの役割を神々に投影したものと言えるのではないか。
参考文献[編集]
- Wikipedia:伏羲(最終閲覧日:22-10-25)
- 白川静『中国の神話』
- 陳舜臣『中国の歴史(一)』
関連項目[編集]
- ダロン:ミャオ族の伏羲。
- チャンヤン:ミャオ族の伏羲。
- 天皇大帝:伏羲が発展した神。現代に伝わる伝承での黄帝そのものである。
- 玉皇大帝:伏羲が発展した神。
- 北斗星君:伏羲が発展した神。
- 伊邪那岐命:日本神話で伏羲に相当すると考えられる神。ただし、洪水神話は伴っていない。
参照[編集]
- ↑ 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 108-115頁
- ↑ 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 108頁
- ↑ 3.0 3.1 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 116-124頁
- ↑ 出石誠彦 『支那神話伝説の研究』 中央公論社 1943年 147-148頁
- ↑ 野口定男ら訳:『史記』「三皇本紀」。中国古典文学大系 10,平凡社,昭和 50 年 12 月初版第 9 刷。『史記』三皇本紀は,司馬遷が著したものではなく,唐の司馬貞がその補いとして書いたものである。司馬貞にしては,『史記』にこの補完が必須不可欠である。
- ↑ 神話伝説における伏羲氏の位相、孫樹林
- ↑ 聞一多、〈訳註〉中島みどり『中国神話』 平凡社〈東洋文庫〉1989年 87-97頁
- ↑ 袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 130-136頁
- ↑ 中国の伝承曼荼羅、百田弥栄子、三弥井書店、1999年、p188、189
- ↑ 大隅和雄編 『中世神道論』日本思想大系19巻 岩波書店 1977年 203-205頁
- ↑ 沢田瑞穂 『校注 破邪詳弁』 道教刊行会 1972年 170頁