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『山海経』に登場する(黄帝の子孫が住む<ref>『中国神話・伝説大事典』178頁。</ref>)軒轅国の住民が'''人面蛇身'''であり、伝説において龍との関係が深いことから黄帝は龍蛇形の神だったと考えられている<ref>御手洗勝『古代中國の神々』創文社1984年、278-282頁。</ref>。 | 『山海経』に登場する(黄帝の子孫が住む<ref>『中国神話・伝説大事典』178頁。</ref>)軒轅国の住民が'''人面蛇身'''であり、伝説において龍との関係が深いことから黄帝は龍蛇形の神だったと考えられている<ref>御手洗勝『古代中國の神々』創文社1984年、278-282頁。</ref>。 | ||
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また、羌族には「戊が土に属する」という伝承があり、黄帝が'''犬神'''の性質があると述べる伝承の可能性もあるのではないだろうか。 | また、羌族には「戊が土に属する」という伝承があり、黄帝が'''犬神'''の性質があると述べる伝承の可能性もあるのではないだろうか。 | ||
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− | 前述の『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』は黄帝の著作と信じられ、これは東洋医学の始まりとなった。中国鍼灸各家学説を執筆した魏稼は、黄帝の師は、岐伯である事から、中国最古の医学流派を岐伯黄帝派と名づけた<ref name="harika">中国鍼灸各家学説 p22</ref>。この学派の創始者は岐伯で、中心人物であり、黄皇が岐伯、伯高、小兪を訪ねて鍼道が誕生したと晋の皇甫謐『甲乙経』に記載がある<ref name="harika"></ref> | + | 前述の『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』は黄帝の著作と信じられ、これは東洋医学の始まりとなった。中国鍼灸各家学説を執筆した魏稼は、黄帝の師は、岐伯である事から、中国最古の医学流派を岐伯黄帝派と名づけた<ref name="harika">中国鍼灸各家学説 p22</ref>。この学派の創始者は岐伯で、中心人物であり、黄皇が岐伯、伯高、小兪を訪ねて鍼道が誕生したと晋の皇甫謐『甲乙経』に記載がある<ref name="harika"></ref>。これらが、漢方およびはり灸らの中国原初とみなされた。 |
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2024年11月18日 (月) 23:13時点における最新版
黄帝(こうてい)は、神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。本来は「皇帝」と表記されたが戦国時代末期に五行思想の影響で「黄帝」と表記されるようになった[1][2]。
目次
概要[編集]
漢代に司馬遷によって著された歴史書『史記』や『国語・晋語』によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅氏、または帝鴻氏とも呼ばれた。
史記によれば
黄帝は神農氏に仕え、入朝しない諸侯を討伐した。ただし、蚩尤は凶暴でなかなか討伐できなかった。炎帝とその子孫がが反乱を起こしたため、黄帝は阪泉の野で戦い、これを討った。この時に蚩尤もまた反乱を起こしたので、涿鹿の野で戦い、ついに蚩尤を捕らえて殺した。黄帝は諸侯に尊ばれ、神農氏に変わって帝位についた[3]。
とのことである。「史記」は前漢の武帝(紀元前2~1世紀)の時代に司馬遷によって編纂された歴史書である。ただし、後漢(1~3世紀)には、高誘、宋衷が「炎帝は神農氏のこと」と述べており、これが通説とされている。史記の記述は
「炎帝が帝であった時に、徳が薄れ戦いが起きた。黄帝は当初炎帝の臣下だったが、炎帝一族と戦って勝ち、帝位に就いた。」
との解釈が多いと感じる蚩尤も炎帝の子孫とされている。黄帝には多くの動物を従えて、炎帝と戦ったという伝承がある。
『史記』はその治世を、従わない者を次々に討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。少昊・昌意・姫揮らの父。
有史以後の黄帝像の変遷[編集]
黄帝以降の4人の五帝と、夏・殷・周・秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろうと考えられている。さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。また、清代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする黄帝紀元と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られている。
だが、辛亥革命後に至り革命支持者を中心に黄帝の存在を否定する主張が高まった。これに並行して日本でも同様の議論が起こり、白鳥庫吉・市村瓚次郎・飯島忠夫らが黄帝の実在性を否定する論文を著している。
その一方で黄帝は中国医学の始祖として、現在でも尊崇を集めている。漢の時代では、著者不明の医学書は、黄帝のものとして権威を付けるのが流行した。 現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』も黄帝の著作とされている。
河南省鄭州市は黄帝の故郷とされており、市内には黄帝をたたえる公園「黄帝故里」が整備されている。黄帝故里では、中国のほぼ全ての姓氏を黄帝の直系の子孫と捉え、建築物で表現するなど大掛かりな施設となっている[4]。毎年4月18日には参拝祭典が行われており、2018年の例では40以上の国や地域から約1万人の華人や華僑のほか、同姓の血縁組織、同郷会などの代表が出席して式典が行われた[5]
神仙としての黄帝像[編集]
黄帝は「雷の精によって生まれた(河図帝記通)」、「黄帝は星神で、龍の体のようで、雷雨をつかさどる神である(大象列星図)」とされている。また、「黄帝と炎帝は水と火で戦った(呂氏春秋)」ともある。『准南子』の「天文訓」には「中央は土である、その帝は黄帝」とある[6]。
『山海経』に登場する(黄帝の子孫が住む[7])軒轅国の住民が人面蛇身であり、伝説において龍との関係が深いことから黄帝は龍蛇形の神だったと考えられている[8]。
黄帝は炎帝と戦うとき、熊、ヒグマ、狼、豹、虎などを先陣とし、鷲、ヤマドリ、タカ、鳶などを旗や幟の代わりに使った、とされる[9]。
黄帝は天に昇ったり、地に降りたりする建木という天梯を造作、施為した。この木は形が牛のようだった[10]。
黄帝は夔の皮から軍鼓という太鼓を作った。
これらを併せて考えれば、黄帝は「雷神の子、あるいは雷神」であり、特に水(雷雨)を司るとされた。そのため水神としての性質もあったと考える。また、星神、土神としての性質もあったと考えられる。
中国で「水神」「雷神」といえば、龍蛇神が一般に考えられるだろうが、中国では他に蛙神、猿神が水神としての性質を持つ場合があるように思う。雷神として有名なのは雄鶏である。
また、羌族には「戊が土に属する」という伝承があり、黄帝が犬神の性質があると述べる伝承の可能性もあるのではないだろうか。
医者としての黄帝[編集]
前述の『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』は黄帝の著作と信じられ、これは東洋医学の始まりとなった。中国鍼灸各家学説を執筆した魏稼は、黄帝の師は、岐伯である事から、中国最古の医学流派を岐伯黄帝派と名づけた[11]。この学派の創始者は岐伯で、中心人物であり、黄皇が岐伯、伯高、小兪を訪ねて鍼道が誕生したと晋の皇甫謐『甲乙経』に記載がある[11]。これらが、漢方およびはり灸らの中国原初とみなされた。
民話・伝承[編集]
弓矢の発明[編集]
- ある時、黄帝は石のナイフを持って狩猟に出かけた。そしたら突然、虎が下草から飛び出してきて、黄帝は桑の木に駆け上がった。虎は気長な動物であるから、木の下に座り込み、次にどうするか様子を見た。黄帝は桑の木がしなやかな事に気が付き、石のナイフで桑の枝を切り弓を作った。葡萄の蔦が木の上まで伸びていたので、石のナイフで切り弦を作った。次にまっすぐに伸びた竹を見つけ、竹を切り矢を作った。弓矢を使って、虎の目を射ぬき、虎は逃げ去り黄帝は脱出した[12]。
軒轅剣[編集]
軒轅剣(けんえんえん)。中国明代の李承勲によって書かれた「名剣記」に記された、黄帝(軒轅氏)が所持していたと伝えられる伝説の剣。似たような記述の文献はそれ以前にもあったとされる[13]。
烏合[編集]
中国の神話伝承における黄帝の弓。名前の意味は「むせび泣き」。神話では、黄帝がお供70余人(72人とも)と神竜にのって昇天するのを人々が嘆きおしみ、 竜のひげにとりすがった者もいたがバラバラ地上に落ちた。黄帝はその心根を哀れに思い愛用の弓を落としていった。 人々はいつまでも弓をかきいだいて悲しみの涙にむせんだので その弓を「烏号」と呼んだ。
私的解説[編集]
神仙としての黄帝とは雷神というよりも、「水神」としての性質が強いように感じる。雷から生まれて「天から降ってくる水」というイメージである。雷を伴うものだから雷神としての性質も含むし、もっと広く天候神、風神の性質も伴うかもしれない。よって、動物としてのトーテムを持つのであれば、水神とみなされる動物の全てがトーテムとされる可能性があるように思う。黄帝が水神や雷神としての性質を持つ場合、管理人はこれを「水雷神」と呼んでいる。中国神話には他に「火を降らせた」という逸話を持つ祝融のように、他にも雷神や天候神の性質を持つと思われる神がいるからだ。炎帝の一族と言われる祝融を「火雷神」とすれば、黄帝は「水雷神」とするのが相応しいのではないだろうか。
黄帝の人としての実在性だが、管理人はモデルになった人物は存在した、と考える。弓や狩、剣といったものを伴っている点は、「単なる自然の精霊」とは考えられないからだ。他にも黄帝に関連する、と考えられる伝承には「何故、水神がそのようなことをするのか。」と、人間としての黄帝が存在していなければ行わなかったであろう、という事績が存在する。それはやはり「人間黄帝」が存在した証拠と管理人は考える。
現在では「中国の父」といった感のある黄帝だが、炎帝との対立神話が示すように、かつては対立する勢力が存在したのではないだろうか。これを「黄河文明(黄帝側)」と「長江文明(炎帝側)」と捉える説があるかもしれないが、管理人はその説を取らない。なぜなら古代中国の文明は、古くから稲作とそれに伴い灌漑技術が発達した長江から発生し、それが黄河側に伝わって強力な王権の発生へと繋がった、と考えるからだ。ただ、炎帝勢力の中心が長江文明側にあったのであれば、長江文明側には「黄帝を良しとしない伝承」があったとしても不思議ではない、と考える。例えば、炎帝は「火の神」と考えられるが、炎帝の一族とされ、同様に「火の神」の性質を持つ祝融は、水神の一種である共工を倒す。五帝の一人禹にも、水神の一種の無支祁、相柳を倒した、という伝承がある。相柳は共工の部下とされているので、おそらく祝融と禹は同起源ではないか、と思うのだが、治水にかこつけて「水神を倒す」という逸話が目立つように感じる。水神と仲良くしながら治水はできなかったのだろうか、治水のために水神と戦う必要が何故あったのだろうか、と考えると、むしろ「水神を倒す」ということを語ることに意義があったのではないだろうか、と思うのだ。水神の象徴が黄帝であれば、これは一種の「反黄帝」のプロパガンダ的伝承ではないだろうか。禹と祝融が同起源の人物とすれば、炎帝の一族とされているのだから、黄帝と対立する存在であるのは明白なように思う。そして禹は黄河側の帝ともされているのだから、時代が下れば黄河文明の側にも「反黄帝」の思想が拡がっていたことが分かる。
「民間伝承」の「弓矢の発明」は「射日神話」の一種と考える。「桑の木」とは「太陽が昇る」とされている扶桑樹のことと思われる。人食い虎は「太陽の化身」と考える。虎の目は当然2個あったと思われるので、黄帝が一つの目を射貫いたとすれば、残った目は一つ、すなわち「太陽は一つ」となったのではないだろうか。台湾の伝承での射日神話では、太陽は2つあった、と語られるものが多い。管理人が、羿と黄帝は元は一つのものではなかったのか、と考える所以である。羿も、完全に「良き英雄」としては描かれない人物であり、黄帝のように、その行動に賛同する勢力と反対する勢力があったと思われる。その点も「黄帝と一致した性質」と考える。
参考文献[編集]
- Wikipedia:黄帝(最終閲覧日:22-11-01)
関連項目[編集]
中国で黄帝と同起源と思われるもの[編集]
その他[編集]
私的注釈[編集]
参照[編集]
- ↑ 松村一男他編『神の文化史事典』白水社、2013年、232頁。
- ↑ 『道教事典』平河出版社、1994年、152頁。
- ↑ 史記I、筑摩世界文学大系6、小竹文夫ら訳、筑摩書房、1971、p5
- ↑ 2020-10-25, http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/10/23/2020102380151.html?ent_rank_news, 朝鮮族など中国56民族は同じ祖先?東北アジア歴史財団が学術大会開催, 朝鮮日報, 2020-10-24
- ↑ 2018-04-26, https://www.afpbb.com/articles/-/3172501, 中華文明と先端技術の組み合わせ 伝統の「黄帝」まつる式典に顔認証導入, 2020-10-24
- ↑ 袁珂『中国神話・伝説大事典』大修館書店、1999年、210頁。
- ↑ 『中国神話・伝説大事典』178頁。
- ↑ 御手洗勝『古代中國の神々』創文社1984年、278-282頁。
- ↑ 袁珂『中国神話・伝説大事典』大修館書店、1999年、210頁。
- ↑ 袁珂『中国神話・伝説大事典』大修館書店、1999年、186-187頁
- ↑ 11.0 11.1 中国鍼灸各家学説 p22
- ↑ Drawing and translation by Stephen Selby (2003). How Huangdi Invented the Bow and Arrow. Chinese folk tale.
- ↑ 軒轅剣、ニコニコ大百科(最終閲覧日:22-09-30)
[[[Category:犬神]]