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[[ファイル:1024px-Jade cong from the Liangzhu culture(Neolithic) in Zhejiang Museum(Partial view)2.jpg|thumb|350px|玉琮に彫られた神の顔面]]
 
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'''良渚文化'''(りょうしょぶんか、{{ピン音|Liángzhǔ wénhuà}}、Liangzhu Culture)は、[[長江文明]]における一文化。[[紀元前3500年]]ころから[[紀元前2200年]]ころにみられた。
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'''良渚文化'''(りょうしょぶんか、Liángzhǔ wénhuà、Liangzhu Culture)は、長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。
  
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1936年、浙江省余杭県の'''良渚遺跡(良渚遗址)'''で発掘された。[[崧沢文化]]などを継承しており、黄河文明の山東[[龍山文化]]との関連も指摘されている。柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、[[絹]]なども出土している。分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。
  
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宮殿とそれを取り巻く城郭都市、墓地、工房などの中国最古級の都市遺跡が出土した良渚遺跡は、初期の都市文明を伝えることが評価され、2019年に「良渚古城遺跡」の名で世界遺産に登録された。
  
 
== 提唱されている学説 ==
 
== 提唱されている学説 ==
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近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されている。
  
近年、[[長江文明]]研究の進展により、良渚文化は[[夏 (三代)|夏]]や[[殷]]王朝に比定されている。
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また、[[黄帝]]の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の[[龍山文化]]による三苗征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある<ref>『図説 中国文明史1 文明への胎動』創元社、2006年</ref>。
 
 
また、[[黄帝]]の[[三苗]]征服伝説を、[[黄河]]流域の[[中原]]に依拠した父系集団の[[龍山文化]]による三苗征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある<ref>『図説 中国文明史1 文明への胎動』創元社、2006年</ref>。
 
  
 
徐朝龍によれば<ref>『長江文明の発見』1998 角川書店。また[https://1000ya.isis.ne.jp/0331.html 松岡正剛千夜一夜、第三百三十一夜、2001年7月9日]</ref>、'''良渚文化'''は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。やがて夏王朝は支配下にあった東夷[[羿|后羿]](こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ(下記[[匈奴]]参照)、のち[[四川盆地]]に移住し、[[三星堆遺跡|三星堆文化]]を築いたとする。
 
徐朝龍によれば<ref>『長江文明の発見』1998 角川書店。また[https://1000ya.isis.ne.jp/0331.html 松岡正剛千夜一夜、第三百三十一夜、2001年7月9日]</ref>、'''良渚文化'''は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。やがて夏王朝は支配下にあった東夷[[羿|后羿]](こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ(下記[[匈奴]]参照)、のち[[四川盆地]]に移住し、[[三星堆遺跡|三星堆文化]]を築いたとする。

2022年12月4日 (日) 09:05時点における版

玉琮に彫られた神の顔面

良渚文化(りょうしょぶんか、Liángzhǔ wénhuà、Liangzhu Culture)は、長江文明における一文化。紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。

1936年、浙江省余杭県の良渚遺跡(良渚遗址)で発掘された。崧沢文化などを継承しており、黄河文明の山東龍山文化との関連も指摘されている。柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、なども出土している。分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。

宮殿とそれを取り巻く城郭都市、墓地、工房などの中国最古級の都市遺跡が出土した良渚遺跡は、初期の都市文明を伝えることが評価され、2019年に「良渚古城遺跡」の名で世界遺産に登録された。

提唱されている学説

近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されている。

また、黄帝の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある[1]

徐朝龍によれば[2]良渚文化は稲作都市文明を形成していた。1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。やがて夏王朝は支配下にあった東夷后羿(こうげい)部族に倒される。夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ(下記匈奴参照)、のち四川盆地に移住し、三星堆文化を築いたとする。

関連項目

ギャラリー

脚注

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  1. 『図説 中国文明史1 文明への胎動』創元社、2006年
  2. 『長江文明の発見』1998 角川書店。また松岡正剛千夜一夜、第三百三十一夜、2001年7月9日

外部リンク

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