猿田毘古神は伊勢の阿邪訶(あざか。旧一志郡阿坂村、現松阪市)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれ、溺れる。この際、海に沈んでいる時に「底度久御魂」(そこどくみたま)、猿田毘古神が吐いた息の泡が昇る時に「都夫多都御魂」(つぶたつみたま)、泡が水面で弾ける時に「阿和佐久御魂」(あわさくみたま)という三柱の神が生まれた。この時に海中で溺れた際に生じた泡の三柱の神は阿射加神社(三重県松阪市大阿坂と小阿坂に2社存在する)に現在は鎮座されている。
『[[倭姫命世記]]』([[神道五部書]]の一つ)によれば、[[倭姫命]]が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である[[太田命|『倭姫命世記』(神道五部書の一つ)によれば、倭姫命が天照大神を祀るのに相応しい地を求めて諸国を巡っていたとき、猿田彦の子孫である'''大田命]](おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々[[伊勢神宮]]の玉串大内人に任じられた。しかし、大田命を猿田彦の子孫と主張し始めたのは[[鎌倉時代]]に成立した『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』や『倭姫命世記』であり、[[延暦]]期成立と見られる『皇太神宮儀式帳』や[[後三条天皇|後三条朝]]までの編年記事が見える『大神宮諸雑事記』では、宇治土公は単に大田命の子孫であるとだけ主張しており、大田命の遠祖に猿田彦を架上したものと指摘される'''(おおたのみこと)が倭姫命を先導して五十鈴川の川上一帯を献上したとされている。大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)と称し、代々伊勢神宮の玉串大内人に任じられた。しかし、大田命を猿田彦の子孫と主張し始めたのは'''鎌倉時代に成立した『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』や『倭姫命世記』'''であり、延暦期成立と見られる『皇太神宮儀式帳』や後三条朝までの編年記事が見える『大神宮諸雑事記』では、宇治土公は単に大田命の子孫であるとだけ主張しており、大田命の遠祖に猿田彦を架上したものと指摘される<ref>[[宝賀寿男]]「猿女君の意義 稗田阿禮の周辺(中)」『東アジアの古代文化』107号、2001年、174頁。宝賀寿男「猿女君の意義 稗田阿禮の周辺(中)」『東アジアの古代文化』107号、2001年、174頁。</ref>。「児島系図」では[[久斯比賀多命]]三世孫の久斯気主命を祖とし、[[磯部氏|石部公]]や狛人部と同族であるとされており。「児島系図」では久斯比賀多命三世孫の久斯気主命を祖とし、石部公や狛人部と同族であるとされており<ref>[[中田憲信]]「児島」『諸系譜』第二十六冊。中田憲信「児島」『諸系譜』第二十六冊。</ref>、これに従えば[[三輪氏]]族となる。、これに従えば三輪氏族となる。
[[椿大神社]](三重県鈴鹿市)の社伝によると伊勢の阿邪訶にて溺れた際に命を落とし、後に同神社の高山土公神御陵に葬られたとされており、これが猿田彦命の御陵とされている。