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::一説には、皇居と深い関わりにあった黒板勝美は宮内省から調査依頼を受け、実地見聞を1時間半程度行っただけで人柱否定説を打ち出してそのまま公的調査は終了したといい、その後、中央史壇などで供犠の話題で特集が組まれた。喜田貞吉は黒板の発言の矛盾を指摘し、批判するとともに、人柱の文化的な意味について考察を広げようとしていた。1934年(昭和9年)には坂下門近くでも5人の人骨と古銭が発見されている。なお、見つかった遺骨は震災の混乱の中、芝・増上寺で手厚く供養されたという。
=== 伝説の域にある人柱 ===
* 茨田堤と強頸・衫子
:: 『日本書紀』「巻第十一の十 仁徳天皇(仁徳天皇11年10月の条)」の伝えるところによれば、暴れ川であった淀川の治水対策として当時は広大な低湿地であった茨田(まんた、まんだ。のちの河内国茨田郡[まんたのこおり]、現在の大阪府守口市・門真市の全域、寝屋川市・枚方市・大東市・大阪市鶴見区の一部に及ぶ範囲)に茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(ちぬのうみ。現在の大阪湾)に落とす工事にかかったが、茨田地域にどうにもならない絶間(たえま。断間とも記す。決壊しやすい場所)が2箇所あって万策尽きてしまった<ref name="Miyoshi 2009, NIE">三善貞司, 2009-06-27, 荒れる淀川鎮める生贄に 工事成功へ天皇にお告げ , http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/090627/20090627058.html, 大阪日日新聞(ウェブサイト), 新日本海新聞社, 2012-10-14</ref><ref name="強頸碑, 大阪市">61.強頸絶間跡碑, http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000010040.html |work=(公式ウェブサイト), 大阪市]] , 2012-10-14}}</ref><ref>日本書紀 巻第十一の十 , http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/shoki27.htm, 岩倉紙芝居館(個人ウェブサイト), 個人 , 2012-10-14</ref>。そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神から「武蔵国の人・強頸(こわくび、参照)と河内国の人・茨田連衫子(まんたのむらじ ころもこ)の2名を人身御供として川神に捧げて祀れば必ずや成就する」とのお告げを得、かくしてただちに2名は捕らえられ、衫子は'''ヒョウタン'''を用いた策で難を逃れたが、強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められたため、堤は完成を見たという。江戸時代の『摂津名所図会』によれば、強頸が人柱にされた「強頸絶間」の跡は絶間池(非現存。大阪市旭区千林)として残っていた。現在は千林2丁目の民家に「強頸絶間之址」の碑が建っている。
:: 1682-1691年(天和2年-元禄4年)間の伝説。岩手県金ケ崎町にあるため池。「おいし」と呼ばれた女性が人柱として捧げられたといわれている<!--
--><ref>http://www.inakajin.or.jp/sisetsu/0303.html, 千貫石ため池, 先人が残した歴史的水利施設, 土地改良区(全国水土里ネット)(公式ウェブサイト), かみしばい「千貫おいし」, 岩手県(公式ウェブサイト), 岩手県 , 2011-08-03</ref>。
 === 九州 ===* イガイ牟田:福岡県大野城市牛頸、旧筑紫郡には女性が十六歳になると、「十六参り」と言って宝満山(ほうまんざん)の上宮にお参りして、良縁を願う風習があった。それに宝満山竈門神社(かまどじんじゃ)の祭神玉依姫命(たまよりひめのみとこ)は、水分(みまくり)の神なので水を治めるために、十六歳の少女を捧げるという伝説があった。* 百太郎溝:熊本県球磨郡多良木町、あさぎり町、錦町に江戸時代に造られた、全長19キロの灌漑用用水路で、人柱になった人の名前に因む。慰霊碑の写真がある。昔、太宰府から早良糸島(さわらいとしま)方面に往来する人は、イガイ牟田の沼の北側を横切って花無尾の丘に上がっていたが、沼を横切る所だけはいくら土を盛って道普請をしても、すぐ沼の中にめり込んでしまい、村人も旅人も大変難渋していた。道普請をしていると、十六歳の一人の巡礼の娘が通りかかり、身よりもいないから、と人柱を申し出た。村人は断ったが、娘は勝手に沼の中に入り、沈んでしまった。すると娘が通って行った跡だけ、みるみる水が乾いて一筋の道になった。村人達は涙を流して巡礼娘が沈んだあたりに向かって手を合わせ、早速そこに土を盛って突き固め、さらに土を盛って突き固めて、遂に立派な道ができ上がったという。その後村人たちは、この道を西の方に百メートル程行った所の花無尾の丘の道端にある六地蔵の傍らに祠をたて、巡礼娘への感謝の供養を怠らなかったという<ref>[https://www.city.onojo.fukuoka.jp/s077/030/010/070/010/2089.html 底なし沼の人柱(牛頸)]、大野城市HP(最終閲覧日:25-01-18)</ref>。* 百太郎溝:熊本県球磨郡多良木町、あさぎり町、錦町に江戸時代に造られた、全長19キロの灌漑用用水路で、人柱になった人の名前に因む。慰霊碑の写真がある。
::伝説によれば、昔、この地方を流れる川の氾濫で、田畑が流される災害がたびたび起こり村人が困っていた。ある時、「裾に二本の線がはいった着物を着た人物を人柱に立てよ」という神のお告げがあった。その着物を着た人物、百太郎に白羽の矢が立った。轟音とともに、橋の柱にくくりつけられた百太郎の声が、一晩中、村に響き渡ったという。それからは、水害はぴたりとやんだ。<ref>[http://yumeko2.otemo-yan.net/e363932.html]肥後国くまもとの歴史 多良木町百太郎溝入口旧樋門2014年2月26日閲覧</ref>
:苗賽(မြို့စတေး。)
;朝鮮半島の人柱
[[2017年]][[5月16日]]、[[大韓民国|韓国]]文化財庁は、[[慶州市]]にある[[新羅]]の王宮遺跡の下部から、[[5世紀]]のものとされる2人分の骨格(人柱)を発見したと発表した2017年5月16日、韓国文化財庁は、慶州市にある新羅の王宮遺跡の月城(Wolseong)の壁の下から、5世紀のものとされる2人分の骨格(人柱)を発見したと発表した。「伝承によると人柱は神々をなだめ、建築中の構造物が末永く立ち続けることを祈るためだったとされる」、とのことである<ref>[http://www.afpbb.com/articles/-/3128424?cx_part=txt_topics 韓国で行われた「人柱」の初証拠、新羅時代の遺跡で人骨発見] AFP(2017年5月16日)2017年5月16日閲覧</ref><ref>月城は元々[[瓠公]]の屋敷と言われていた。</ref>。 == 私的考察 ==建築物の安寧を求める「人柱」で発見されているうちで最古のものは、古代中国の[[石峁遺跡]]、[[陶寺遺跡]]であるように思う。[[石峁遺跡]]で顕著であるが、城壁そのものを神格化して、その安寧を願い生贄を捧げたものと思われる。この「城壁」という概念には完成物のみならず「完成させる建築技術」も含まれている。[[公輸盤|魯班]]に対する信仰にも、技術や技術者に対する神格化が認められる。人柱で「神々をなだめる」必要性があると考えられたのであれば、その「神」とは城壁そのものの神や、[[公輸盤|魯班]]のような技術を確立させた特許神に対してであっただろうと思われる。 とすれば、古代日本の人柱もこの文化の流れを組んでおり、人柱は工芸技術の神である須佐之男や[[五十猛神]]に捧げられたものといえるのではないだろうか。  日本の人柱は、伝説の域を出ないものを含めて、「'''猿'''」という地名がつくところに多いように思う。これはおそらく猿の神である猿田彦が「境界の神」であることと関連するように思う。猿田彦は、まず「道の神」であって、「塞の神」と言われる。道は境界の一種であって、道の向こう側とこちら側の境界でもあるし、自分の街と隣町をつなぐ境界でもある。黄泉平坂のように、現世界と冥界を繋ぐ坂道があるとすれば、猿田彦は「現世界と冥界を繋ぐ坂道」の神でもある。猿田彦自身も「死んだ神」であって黄泉平坂を通ったことがあるはずなので、新たにそこを通らねばならない人の道案内ができるはずである。 川も一種の「境界」である。特に現世界と冥界の間にあるとされる「三途の川」があれば、これも「境界」であるし、猿田彦はそこも渡ったことがあるはずである。よって、その渡り方も心得ているはずである。猿田彦は「三途の川」という境界を心得ている神であり、現実の川も向こう岸とこちらの岸の境界であるのだから、現実の川の渡り方も心得ているはずである。だから、猿田彦は川の神、川を支配する神なのである。 同様の理由で山も一種の「境界」なので、猿田彦は山の神、山を支配する神となる。猿が山に住んでいるから「山の神」なのではない。山は自分の村と隣の村、自分の集落と隣の集落、そういったものとの「境界」だから、猿田彦は「山の神」なのである。 家には「壁」というものがある。「壁」は家の内と外を分ける「境界」である。だから猿田彦は壁の神、家の神、家を支配する神でもある。 土地にも当然「境界」がある。「境界」があるからこそ、自分の土地と隣人の土地の区別がつく。橋というものも「境界」なので、猿田彦は橋の神であり、橋も支配する。 こういう具合に猿田彦はあらゆる「境界」を支配する神とされているように思う。  一方、日本には猿神に生贄を捧げるという伝承が各地にある。この猿神は普通の猿ではなく、人を料理して食べる猿神である。この猿神が猿田彦と同じものである、とは言われないが、「異なるものである」という根拠もないように思う。彼らは主に山に住んでいる、というイメージがある。それは今昔の猿神退治が飛騨の隠れ里で行われているため、山奥の隠れ里を思わせるからかもしれないし、猿は山に住むものであることも重ね合わされていよう。しかし、何故人は猿神に生贄を捧げなければいけないのだろうか。猿神が「境界神」であれば、「境界」の安寧のために人は生贄を捧げなければならない、とされていたのではないだろうか。 家の壁を建てるための生贄、橋を作るための生贄、山を鎮めるための生贄、川を鎮めるための生贄、である。これらを人は「人柱」と呼ぶ。  延暦寺の地主神である日吉神などの太陽神の使者は猿とされている。これを神猿(まさる)と呼ぶ。
== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書 |author=南方熊楠|authorlink=南方熊楠 |date=, 1971-01 |title=, 南方閑話・南方随筆他 |series=, 南方熊楠全集 |volume=, 第2巻 |publisher=[[, 平凡社]] |, isbn=:978-4-5824-2902-2 |ref=Minakata, Heibonsha (1971)}}
* [https://wikijp.org/wiki/Hitobashira#none 人柱]、wikijp(最終閲覧日:22-09-11)
== 関連項目 ==
* [[人身御供]]
* [[五十猛神]]
* [[棄老]]
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[[Category:日本神話]]
[[Category:中国神話]]
[[Category:朝鮮神話]]
[[Category:人柱|*]]
[[Category:岩戸型]]

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