差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
920 バイト追加 、 2025年1月18日 (土)
::一説には、皇居と深い関わりにあった黒板勝美は宮内省から調査依頼を受け、実地見聞を1時間半程度行っただけで人柱否定説を打ち出してそのまま公的調査は終了したといい、その後、中央史壇などで供犠の話題で特集が組まれた。喜田貞吉は黒板の発言の矛盾を指摘し、批判するとともに、人柱の文化的な意味について考察を広げようとしていた。1934年(昭和9年)には坂下門近くでも5人の人骨と古銭が発見されている。なお、見つかった遺骨は震災の混乱の中、芝・増上寺で手厚く供養されたという。
=== 伝説の域にある人柱 ===
* 茨田堤と強頸・衫子
:: 『日本書紀』「巻第十一の十 仁徳天皇(仁徳天皇11年10月の条)」の伝えるところによれば、暴れ川であった淀川の治水対策として当時は広大な低湿地であった茨田(まんた、まんだ。のちの河内国茨田郡[まんたのこおり]、現在の大阪府守口市・門真市の全域、寝屋川市・枚方市・大東市・大阪市鶴見区の一部に及ぶ範囲)に茨田堤を築いて淀川の奔流を押さえ、次に難波堀江を開削して流水を茅渟の海(ちぬのうみ。現在の大阪湾)に落とす工事にかかったが、茨田地域にどうにもならない絶間(たえま。断間とも記す。決壊しやすい場所)が2箇所あって万策尽きてしまった<ref name="Miyoshi 2009, NIE">三善貞司, 2009-06-27, 荒れる淀川鎮める生贄に 工事成功へ天皇にお告げ , http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/090627/20090627058.html, 大阪日日新聞(ウェブサイト), 新日本海新聞社, 2012-10-14</ref><ref name="強頸碑, 大阪市">61.強頸絶間跡碑, http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000010040.html |work=(公式ウェブサイト), 大阪市]] , 2012-10-14}}</ref><ref>日本書紀 巻第十一の十 , http://www.kyoto.zaq.ne.jp/dkanp700/koten/shoki27.htm, 岩倉紙芝居館(個人ウェブサイト), 個人 , 2012-10-14</ref>。そのような最中のとある夜、天皇は夢枕に立った神から「武蔵国の人・強頸(こわくび、参照)と河内国の人・茨田連衫子(まんたのむらじ ころもこ)の2名を人身御供として川神に捧げて祀れば必ずや成就する」とのお告げを得、かくしてただちに2名は捕らえられ、衫子は'''ヒョウタン'''を用いた策で難を逃れたが、強頸は泣き悲しみながら人柱として水に沈められたため、堤は完成を見たという。江戸時代の『摂津名所図会』によれば、強頸が人柱にされた「強頸絶間」の跡は絶間池(非現存。大阪市旭区千林)として残っていた。現在は千林2丁目の民家に「強頸絶間之址」の碑が建っている。
:: 1682-1691年(天和2年-元禄4年)間の伝説。岩手県金ケ崎町にあるため池。「おいし」と呼ばれた女性が人柱として捧げられたといわれている<!--
--><ref>http://www.inakajin.or.jp/sisetsu/0303.html, 千貫石ため池, 先人が残した歴史的水利施設, 土地改良区(全国水土里ネット)(公式ウェブサイト), かみしばい「千貫おいし」, 岩手県(公式ウェブサイト), 岩手県 , 2011-08-03</ref>。
 === 九州 ===* イガイ牟田:福岡県大野城市牛頸、旧筑紫郡には女性が十六歳になると、「十六参り」と言って宝満山(ほうまんざん)の上宮にお参りして、良縁を願う風習があった。それに宝満山竈門神社(かまどじんじゃ)の祭神(さいじん)玉依姫命(たまよりひめのみとこ)は、水分(みまくり)の神なので水を治めるために、十六歳の少女を捧げるという伝説が考えられたと思われる。* 百太郎溝:熊本県球磨郡多良木町、あさぎり町、錦町に江戸時代に造られた、全長19キロの灌漑用用水路で、人柱になった人の名前に因む。慰霊碑の写真がある。昔、太宰府から早良糸島(さわらいとしま)方面に往来する人は、イガイ牟田の沼の北側を横切って花無尾の丘に上がっていたが、沼を横切る所だけはいくら土を盛って道普請(みちぶしん)をしても、すぐ沼の中にめり込んでしまい、村人も旅人も大変難渋(なんじゅう)していた。* 百太郎溝:熊本県球磨郡多良木町、あさぎり町、錦町に江戸時代に造られた、全長19キロの灌漑用用水路で、人柱になった人の名前に因む。慰霊碑の写真がある。
::伝説によれば、昔、この地方を流れる川の氾濫で、田畑が流される災害がたびたび起こり村人が困っていた。ある時、「裾に二本の線がはいった着物を着た人物を人柱に立てよ」という神のお告げがあった。その着物を着た人物、百太郎に白羽の矢が立った。轟音とともに、橋の柱にくくりつけられた百太郎の声が、一晩中、村に響き渡ったという。それからは、水害はぴたりとやんだ。<ref>[http://yumeko2.otemo-yan.net/e363932.html]肥後国くまもとの歴史 多良木町百太郎溝入口旧樋門2014年2月26日閲覧</ref>

案内メニュー