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− | 「[[玉兎]] | + | 「[[玉兎]]」といえば現代の中国では「月の神」というか月に住む神獣とされているが、紅山文化では「太陽女神」とされていたように思う(図2-5)。また、紅山文化からは玉の象?(図6)、目のついた雲型(図6)、玉亀、玉蛙、玉蝉、玉梟なども出土しており、「太陽神」に複数のトーテムが重ね合わせられていたか、それぞれに異なる神の役割を負っていた、いわゆる「多神教」の状態であったことが分かる。また、太陽女神は「兎様」ではあるけれども、耳の乏しいもの(図2)、人間的な耳を有しているもの(図4)などがあり、純粋な兎というよりは擬人化した兎であり、もしかしたら本来の兎にはない神獣的な役割も備わっていたかもしれないと思う。特に兎の特徴である長い耳は「鳥の翼」のようにも考えられていたのではないか、と個人的に想像する。 |
− | + | 少なくとも、中原では炎帝が「有熊国の住人」とされるように、太陽神のトーテムの一つに「熊」があったように思う。朝鮮の檀君神話では檀君の母は熊女であり、洞窟に籠もって修行して人間になったと言われている。日本神話の天照大御神は、直接彼女が熊であった、とはされていないが、日本には熊野といった熊に関する古来よりの信仰の聖地があり、熊野の神々と言われる伊邪那美命、須佐之男命、金山彦命等は天照大御神の眷属であって、彼らのトーテムがまとめて熊であることが暗に示唆されている。よって、古来より「太陽女神」の主要なトーテムには「熊」があったと思われる。熊は肉食獣であり、略奪遊牧系の民族であれば、獰猛な猛獣をトーテムとして勇猛さを誇ることは理にもかなっている。中東やエジプトでライオンが女神と関連づけて信仰されていたのも、同様に民族の「勇猛さ」を示したものと考える。 | |
しかし、紅山文化では、文化は母系であるにも関わらず、太陽女神は草食獣で捕食される動物である兎に変更され、それに伴ってその地位が低下しているように思う。紅山文化では玉亀、玉蛙が発見されており、その点は良渚文化と共通している。朝鮮神話では亀が月神とされており、また朱蒙の父親の一人に「金蛙王」と蛙をトーテムとした人物がいる。中国神話では亀は五山、すなわち世界を支える地面の基盤とされているため、これらの水生生物は紅山文化・良渚文化で共通して、「大地の神」か、あるいは「死んだ神」が変化して月神あるいは星神(特に「金」がつくものは金星)になったもの、とみなされていた可能性があるように思う。「大地の神」であっても、死後天に昇って星神となった、とされることはあるように思うからである。よって、紅山文化の翡翠の玉製品は、必ずしも太陽神に対する信仰のみに特化されていたものではなく、神々を示すものとされていたし、その思想は良渚文化にも受け継がれたように思う。また、神々の役割分担が細分化され、いわゆる「多神教化」が進んでおり、太陽女神の地位の低下もそれに伴った可能性があるように思う。 | しかし、紅山文化では、文化は母系であるにも関わらず、太陽女神は草食獣で捕食される動物である兎に変更され、それに伴ってその地位が低下しているように思う。紅山文化では玉亀、玉蛙が発見されており、その点は良渚文化と共通している。朝鮮神話では亀が月神とされており、また朱蒙の父親の一人に「金蛙王」と蛙をトーテムとした人物がいる。中国神話では亀は五山、すなわち世界を支える地面の基盤とされているため、これらの水生生物は紅山文化・良渚文化で共通して、「大地の神」か、あるいは「死んだ神」が変化して月神あるいは星神(特に「金」がつくものは金星)になったもの、とみなされていた可能性があるように思う。「大地の神」であっても、死後天に昇って星神となった、とされることはあるように思うからである。よって、紅山文化の翡翠の玉製品は、必ずしも太陽神に対する信仰のみに特化されていたものではなく、神々を示すものとされていたし、その思想は良渚文化にも受け継がれたように思う。また、神々の役割分担が細分化され、いわゆる「多神教化」が進んでおり、太陽女神の地位の低下もそれに伴った可能性があるように思う。 | ||
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+ | また、『女性の太陽神を祀るために、神像は高台に吊るされたと思われる<ref>[https://read01.com/o2O5oz.html 現存唯一紅山文化玉器女太陽神;高26寬7.5厚10厘米,重2246克、原文網址:https://read01.com/o2O5oz.html]、壹讀、15-04-21(最終閲覧日:22-12-19)</ref>。』とあることから、「木に吊された生贄([[人身御供]])」があったのではないか、と個人的には思う。彼らが太陽女神に捧げられたものであるのか、それ以外の神に捧げられたものかは判然としないが、「太陽女神の像を吊した」ということは、「'''太陽女神を模して他の神に生贄を捧げた'''」可能性の方が高いように思う。すなわち、太陽女神の兎化に伴って、太陽女神はその地位が低下すると共に、「生贄を捧げられる側」から「生贄となって捧げられる側」へと変化したことが示唆されると考える。太陽女神を模した人身御供であるならば、生贄は女性であった可能性が高く、母系社会ではあっても女性の社会的地位の低下が始まっていたことが窺える。墓の副葬品の中には破壊された女神像と思われるものもあり、「死者の再生」のために女神を模した女性(の延長線にある女神像)を生贄に捧げたことも示唆されるように思う。日本の縄文時代の遺跡にも墓に「意図的に破壊された女神像」が副葬品としてみられることがあり、紅山文化の影響がみられるように思う。 | ||
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+ | 紅山文化からは「目の着いた雲型」の玉器も発見されている。雲は日月を隠すものであるし、時には慈雨ではなく大雨や大雪、嵐をもたらすものである。図7の勾雲形玉器は、このように時には「祟り」とも言うべき災害をもたらす天候神の発生を示すものではないか、と個人的には思う。これは日本で言うところのいわゆる風神・雷神に相当する。中東や西欧の古代の多神教ではこのような天候神が主神とされることが多い。特に北欧神話のオーディン、ガリア神話のエススは「木に吊した生贄」を求める神なので、紅山文化の「吊す」思想が伝播したものと思われ興味深い。また、男性形の天候神は軍神を兼ねることも多く、その地位をかつての「熊野太陽女神」から受け継いだことが示唆されるように思う。「'''太陽女神を模した女性達'''」は、このように「'''災害をもたらす男性の天候神'''」を慰撫したり、機嫌をとって祟りを起こさせないために捧げられたものではないだろうか。紅山文化の「勾雲形玉器」は、[[大汶口文化]]の'''日雲山像'''の「'''雲'''」へと変遷していくように思う。この擬人化された「目のついた雲」が怒らぬように、太陽(や月)を隠して人々の生活に禍を起こさぬように祈るのである。この漠然とした神も、メソポタミア神話のエンリルのように「少なくとも一度は死んだもの」と考えられていたかもしれない。「目」がついているところから、現在の神話でいえば[[盤古]]、[[炎帝神農|炎帝]]、[[蚩尤]]などが生前の候補として挙げられるように思う。祟り神のように「悪い神」の要素が強い場合には[[嫦娥]]のような女性の女神が[[相柳]]のように作り替えられた可能性もある。また、これを人々は「天」と呼んで、太陽さえもこの「天」の神に従うものと考えたのではないだろうか。日本神話の[[天照大御神]]や北欧神話の太陽女神ソールは、必ずしも神話世界の主人ではなく、更に上位に複数の神々が存在し、それらに仕える立場でもある。 | ||
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+ | また、兎が太陽女神のトーテムとして採用された理由としては、兎が声帯を持たず、声を出さないことから「余計なおしゃべりをしない」という意味で、「下位の神」のトーテムとして相応しい、されたことに一因があると思う。特に西欧のギリシア・ローマ神話にはいくつかバリエーションを変えて、女性のおしゃべりを戒める神話が目立つ。この場合、女神のトーテムとしてしゃべれない動物が採用される傾向にあるように思う。ローマ神話の女神[[ラールンダ]]のトーテムは魚と思われる。女性の活動に抑制的な思想が垣間見えることから、文化は母系であっても、おそらくシャーマンといった神霊を取りしきる職業では男性の台頭が始まっていたのではないか、と推察される。 | ||
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+ | 紅山文化の朝鮮、日本への文化的影響について。朝鮮では亀が月の象徴とのことなので、紅山文化や良渚文化の影響が残されたものかと推察する。(管理人は朝鮮の考古学史には全く詳しくないのでこの程度のことしか書けないのだが。)日本については、翡翠の勾玉の形は玉龍に類似しているように思うので縄文系の勾玉文化に影響があったのではないか、と推察する。「目のついた雲」に象徴される「天神」の思想は、土器の紋様などからおそらく存在したと思われる。また、埋葬の副葬品に女神像を破壊したものを埋める習慣も紅山文化の影響ではないだろうか。 | ||
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2022年12月20日 (火) 18:23時点における最新版
紅山文化(こうさんぶんか、Hóngshān Wénhuà)は、中国河北省北部から内モンゴル自治区東南部、遼寧省西部に紀元前4700年頃-紀元前2900年頃[5])に存在した新石器時代の文化。
万里の長城より北方、燕山山脈の北から遼河支流の西遼河上流付近にかけて広がり、農業を主とした文化で、竜などをかたどったヒスイなどの玉から、現在の中国につながる文化や宗教の存在の可能性が考えられている。
紅山文化の名は、内モンゴル自治区の赤峰市で発見された紅山後(こうざんご、Hongshanhou)遺跡に由来する。1908年、満蒙調査を行っていた考古学者の鳥居龍蔵が発見し、1935年に濱田耕作(浜田青陵)や水野清一らにより大規模な調査が行われた。戦後各地で発掘が相次ぎ、彩陶と細石器に特徴付けられるこの文化は1954年、紅山後にちなんで紅山文化と命名されている。
紅山文化は母系社会で、神像は女性を祀るために使われたものと思われる。 また、女性の太陽神を祀るために、神像は高台に吊るされたと思われる[6]。
石器および陶器[編集]
紅山文化の主な遺跡は西遼河上流の支流、潢水および土河の流域に広がっている。その年代は現在から5000年以上さかのぼり、南の黄河流域の仰韶文化の中期および晩期に相当する。発見された石器は打製石器・磨製石器・細石器などであり、そのほとんどは農具で、石耜・石犁・石鋤などのすき類が多い。
紅山文化の陶器は、泥質紅陶および夾沙灰陶の2種類に分けられる。泥で作り筆で絵付けした彩陶(彩文土器)は煮炊きや食事などに使われ、紋様が刻まれた夾沙灰陶は食事の盛り付けなどに使われた。そのほかの陶器では、妊婦をかたどった胸像が各地から出土している。紅山文化では仰韶文化のような彩陶文化は発達しなかったが、龍山文化の黒陶の洗練された造形には近いものがある。また後期の遺跡からは青銅の環も発見されている[7]。
生活[編集]
紅山文化では農業が主で、家畜を飼育しての畜産も発達しておりブタやヒツジが飼われた。一方では狩猟や採集などで野生動物を狩ったり野草を採ったりすることもあった。
玉石と精神文化、牛河梁遺跡[編集]
紅山文化の墳墓からは、ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。ブタ、トラ、鳥のほか、龍を刻んだものも見つかっている。工芸の水準は高く、紅山文化の大きな特徴となっている。「猪竜/ 玉猪竜(zhūlóng)」(燭陰(Zhulong)とは別)と呼ばれる紅山文化の玉竜(竜を彫った玉)の造形は単純であり、竜が円形になっているものが多いが、後期になると盤竜・紋竜などの区別がはっきりとしてくる。考古学者の中には、後に中原で始まった竜への崇拝は、紅山文化にその源を発するという見方もある。
1983年に遼寧省凌源市から建平県にかけての広い範囲で発見された牛河梁遺跡(ぎゅうがりょういせき、Niuheliang)からは紅山文化とかかわりの深い祭祀施設が発見されている。5平方kmにおよぶ広い範囲に石を積んで作られた墳墓や祭壇が整然と分布している。また石の床と彩色を施された壁のあった神殿が見つかり、目がヒスイでできた陶製の女性頭像が発見されたことから「女神廟」と呼ばれることになった。発掘の過程で、地下1mから祭祀の場や祭壇、壁画、ケアン(石塚)が発見された[8]。
女神廟の中には、人間の3倍近い大きさの陶製の像が並んでいた。これらの像はおそらく神像であるが、現在の中国文化では類を見ないものである[9]。
牛河梁で発見された記念碑的な建築物の存在、また様々な土地との交易の証拠から、この時期には先史時代の「首長国」「王国」があったと考えられる[10]。
女神廟では彩陶も発見されている[8]。付近の60以上の墳丘墓も発掘が行われたが、これらは石を組んで石室が作られ、その上に礫をかぶせて塚が作られており、中から玉などの遺物も発見されている[11]。近くの2箇所の丘の上にはケアンが発見され、その近くには石灰岩を段々に積み上げて作った円墳や方墳もある。これらの墳丘墓の中からは龍や亀の彫刻が発見された[8]。紅山文化ではいけにえが捧げられたという指摘もある[8]。
仰韶文化初期の遺跡から発見された遺物が語るように、紅山文化の遺跡からも初期の風水の証拠とされるものが見つかっている。牛河梁遺跡など、紅山文化の祭祀遺跡にみられる円形や方形は、天円地方の宇宙観がすでに存在していたことを示唆している[12]。
遼河文明[編集]
すでに長江流域から新石器時代の独自の文化(長江文明)が発見されて黄河文明中心の中国史に一石が投じられているが、黄河から北へ離れた東北(満州)の遼河流域の地からも中国の精神文化へ繋がる文明が発見されたことは大きな反響を呼んだ。この後も、遼河流域から興隆窪文化などの新石器文化が発見されている。遼河流域の文化は黄河流域の文化などとともに中華文明へと合流したという評価がなされており、そのつながりを探る研究もなされている[13]。
2015年1月に合衆国科学アカデミー紀要に発表された中国科学院のXiaoping Yang、合衆国ニューメキシコ大学のLouis A. Scuderiと彼らの共同研究者による内モンゴル自治区東部の渾善達克砂丘地帯の堆積物の検討によれば、従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した[14]。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、のちの中国文化へと発達した可能性が指摘されている[15]。
韓国の研究家は満州にあった扶余が高句麗や百済などを建国したという伝承に紅山文化を関連付けている。「古朝鮮」文明と「遼河文明」を同じと考え、古朝鮮が遼河文明を通じ中国文明を築いたという説も唱えられている[16][17][18]。海外の史観では、紅山文化の土器が中国大陸の物より韓国の櫛文土器ともっと似ているという主張もある[19]、2007年に江原道高城郡と全羅南道麗水市には紅山文化の玉石と同じ形の玉石が発見されており、紀元前6000年のものである[20]。
韓国の在野史学(재야사학))(民間のアマチュア歴史愛好家)には、紅山文化と古朝鮮とを関連付ける見解があるが、講壇史学界(大学教員などのアカデミズム)では否定的な見解が主流であり、朝鮮古代史学界の権威である盧泰敦(노태돈)、ソウル大学)や盧泰敦の弟子の宋鎬晸(송호정、韓国教員大学)なども否定している[21]。韓国の古代史学界は、中国東北部の青銅器時代の典型的遺物である琵琶形銅剣とシャムシールと美松里式土器の使用開始年代は紀元前10世紀であり、朝鮮半島にはそれ以降に伝播した、つまり、国家が形成されるには青銅器時代が必要なことから古朝鮮の建国・出現は早くとも紀元前9世紀以降に比定しており[22]、紀元前30世紀頃に消滅した紅山文化と古朝鮮との時間的隔たりがあまりにも大きいため、紅山文化と古朝鮮との関係性を見出し難いためである[21]。
なお紅山文化時代の古人骨のY染色体ハプログループ分析によると、ウラル系諸族やヤクート人に高頻度で観察されるハプログループNが67%の高頻度で観察され[23]、遼河文明の担い手がウラル語族の言語を話していた可能性も考えられる。
私的考察[編集]
「玉兎」といえば現代の中国では「月の神」というか月に住む神獣とされているが、紅山文化では「太陽女神」とされていたように思う(図2-5)。また、紅山文化からは玉の象?(図6)、目のついた雲型(図6)、玉亀、玉蛙、玉蝉、玉梟なども出土しており、「太陽神」に複数のトーテムが重ね合わせられていたか、それぞれに異なる神の役割を負っていた、いわゆる「多神教」の状態であったことが分かる。また、太陽女神は「兎様」ではあるけれども、耳の乏しいもの(図2)、人間的な耳を有しているもの(図4)などがあり、純粋な兎というよりは擬人化した兎であり、もしかしたら本来の兎にはない神獣的な役割も備わっていたかもしれないと思う。特に兎の特徴である長い耳は「鳥の翼」のようにも考えられていたのではないか、と個人的に想像する。
少なくとも、中原では炎帝が「有熊国の住人」とされるように、太陽神のトーテムの一つに「熊」があったように思う。朝鮮の檀君神話では檀君の母は熊女であり、洞窟に籠もって修行して人間になったと言われている。日本神話の天照大御神は、直接彼女が熊であった、とはされていないが、日本には熊野といった熊に関する古来よりの信仰の聖地があり、熊野の神々と言われる伊邪那美命、須佐之男命、金山彦命等は天照大御神の眷属であって、彼らのトーテムがまとめて熊であることが暗に示唆されている。よって、古来より「太陽女神」の主要なトーテムには「熊」があったと思われる。熊は肉食獣であり、略奪遊牧系の民族であれば、獰猛な猛獣をトーテムとして勇猛さを誇ることは理にもかなっている。中東やエジプトでライオンが女神と関連づけて信仰されていたのも、同様に民族の「勇猛さ」を示したものと考える。
しかし、紅山文化では、文化は母系であるにも関わらず、太陽女神は草食獣で捕食される動物である兎に変更され、それに伴ってその地位が低下しているように思う。紅山文化では玉亀、玉蛙が発見されており、その点は良渚文化と共通している。朝鮮神話では亀が月神とされており、また朱蒙の父親の一人に「金蛙王」と蛙をトーテムとした人物がいる。中国神話では亀は五山、すなわち世界を支える地面の基盤とされているため、これらの水生生物は紅山文化・良渚文化で共通して、「大地の神」か、あるいは「死んだ神」が変化して月神あるいは星神(特に「金」がつくものは金星)になったもの、とみなされていた可能性があるように思う。「大地の神」であっても、死後天に昇って星神となった、とされることはあるように思うからである。よって、紅山文化の翡翠の玉製品は、必ずしも太陽神に対する信仰のみに特化されていたものではなく、神々を示すものとされていたし、その思想は良渚文化にも受け継がれたように思う。また、神々の役割分担が細分化され、いわゆる「多神教化」が進んでおり、太陽女神の地位の低下もそれに伴った可能性があるように思う。
また、『女性の太陽神を祀るために、神像は高台に吊るされたと思われる[24]。』とあることから、「木に吊された生贄(人身御供)」があったのではないか、と個人的には思う。彼らが太陽女神に捧げられたものであるのか、それ以外の神に捧げられたものかは判然としないが、「太陽女神の像を吊した」ということは、「太陽女神を模して他の神に生贄を捧げた」可能性の方が高いように思う。すなわち、太陽女神の兎化に伴って、太陽女神はその地位が低下すると共に、「生贄を捧げられる側」から「生贄となって捧げられる側」へと変化したことが示唆されると考える。太陽女神を模した人身御供であるならば、生贄は女性であった可能性が高く、母系社会ではあっても女性の社会的地位の低下が始まっていたことが窺える。墓の副葬品の中には破壊された女神像と思われるものもあり、「死者の再生」のために女神を模した女性(の延長線にある女神像)を生贄に捧げたことも示唆されるように思う。日本の縄文時代の遺跡にも墓に「意図的に破壊された女神像」が副葬品としてみられることがあり、紅山文化の影響がみられるように思う。
紅山文化からは「目の着いた雲型」の玉器も発見されている。雲は日月を隠すものであるし、時には慈雨ではなく大雨や大雪、嵐をもたらすものである。図7の勾雲形玉器は、このように時には「祟り」とも言うべき災害をもたらす天候神の発生を示すものではないか、と個人的には思う。これは日本で言うところのいわゆる風神・雷神に相当する。中東や西欧の古代の多神教ではこのような天候神が主神とされることが多い。特に北欧神話のオーディン、ガリア神話のエススは「木に吊した生贄」を求める神なので、紅山文化の「吊す」思想が伝播したものと思われ興味深い。また、男性形の天候神は軍神を兼ねることも多く、その地位をかつての「熊野太陽女神」から受け継いだことが示唆されるように思う。「太陽女神を模した女性達」は、このように「災害をもたらす男性の天候神」を慰撫したり、機嫌をとって祟りを起こさせないために捧げられたものではないだろうか。紅山文化の「勾雲形玉器」は、大汶口文化の日雲山像の「雲」へと変遷していくように思う。この擬人化された「目のついた雲」が怒らぬように、太陽(や月)を隠して人々の生活に禍を起こさぬように祈るのである。この漠然とした神も、メソポタミア神話のエンリルのように「少なくとも一度は死んだもの」と考えられていたかもしれない。「目」がついているところから、現在の神話でいえば盤古、炎帝、蚩尤などが生前の候補として挙げられるように思う。祟り神のように「悪い神」の要素が強い場合には嫦娥のような女性の女神が相柳のように作り替えられた可能性もある。また、これを人々は「天」と呼んで、太陽さえもこの「天」の神に従うものと考えたのではないだろうか。日本神話の天照大御神や北欧神話の太陽女神ソールは、必ずしも神話世界の主人ではなく、更に上位に複数の神々が存在し、それらに仕える立場でもある。
また、兎が太陽女神のトーテムとして採用された理由としては、兎が声帯を持たず、声を出さないことから「余計なおしゃべりをしない」という意味で、「下位の神」のトーテムとして相応しい、されたことに一因があると思う。特に西欧のギリシア・ローマ神話にはいくつかバリエーションを変えて、女性のおしゃべりを戒める神話が目立つ。この場合、女神のトーテムとしてしゃべれない動物が採用される傾向にあるように思う。ローマ神話の女神ラールンダのトーテムは魚と思われる。女性の活動に抑制的な思想が垣間見えることから、文化は母系であっても、おそらくシャーマンといった神霊を取りしきる職業では男性の台頭が始まっていたのではないか、と推察される。
紅山文化の朝鮮、日本への文化的影響について。朝鮮では亀が月の象徴とのことなので、紅山文化や良渚文化の影響が残されたものかと推察する。(管理人は朝鮮の考古学史には全く詳しくないのでこの程度のことしか書けないのだが。)日本については、翡翠の勾玉の形は玉龍に類似しているように思うので縄文系の勾玉文化に影響があったのではないか、と推察する。「目のついた雲」に象徴される「天神」の思想は、土器の紋様などからおそらく存在したと思われる。また、埋葬の副葬品に女神像を破壊したものを埋める習慣も紅山文化の影響ではないだろうか。
関連項目[編集]
遼河文明一覧[編集]
外部リンク[編集]
- 紅山文化とは - 意味・解説 : 考古用語辞典 Archeology-Words
- 牛河梁遺跡とは - 意味・解説 : 考古用語辞典 Archeology-Words
- 紅山文化部落連合体、早期国家形態の特徴に近い - 北京週報
- http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/15-1kouzan.htm, 紅山文化・富河文化, 20031101172457
- 内モンゴル遺跡紀行 関口広次
参考文献[編集]
- Wikipedia:紅山文化(最終閲覧日:22-12-18)
- [分析] 紅山文化太陽神、任南红山文化网、13-03-27(最終閲覧日:22-12-19)
- 現存唯一紅山文化玉器女太陽神;高26寬7.5厚10厘米,重2246克、原文網址:https://read01.com/o2O5oz.html、壹讀、15-04-21(最終閲覧日:22-12-19)
- 紅山文化と檀君史話、えにし書房、李讃九著、朴美貞訳、2019
参照[編集]
- ↑ https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E7%8E%89_%E5%A4%AA%E9%99%BD%E7%A5%9E%28A1%29_%E7%B4%85%E5%B1%B1%E6%96%87%E5%8C%96_%E7%8E%89%E8%80%8C%E5%AF%8C_1201.jpg
- ↑ [分析] 紅山文化太陽神、任南红山文化网、13-03-27(最終閲覧日:22-12-19)
- ↑ [分析] 紅山文化太陽神、任南红山文化网、13-03-27(最終閲覧日:22-12-19)
- ↑ 紅山文化と檀君史話、えにし書房、李讃九著、朴美貞訳、2019
- ↑ Timeline posted by National Gallery of Art, Washington, DC.
- ↑ 現存唯一紅山文化玉器女太陽神;高26寬7.5厚10厘米,重2246克、原文網址:https://read01.com/o2O5oz.html、壹讀、15-04-21(最終閲覧日:22-12-19)
- ↑ Hongshan Culture - The Jade Trade
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 [1] UNESCO State Bureau of Cultural Relics.
- ↑ Article by National Gallery of Art, Washington, DC.
- ↑ University of Pittsburgh, Pennsylvania: Regional Lifeways and Cultural Remains in the Northern Corridor: Chifeng International Collaborative Archaeological Research Project. Cited references: Drennan 1995; and Earle 1987, 1997.
- ↑ Exhibition Brochure, National Gallery of Art, Washington, DC.
- ↑ Sarah M. Nelson, Rachel A. Matson, Rachel M. Roberts, Chris Rock and Robert E. Stencel: Archaeoastronomical Evidence for Wuism at the Hongshan Site of Niuheliang, 2006.
- ↑ 例えば: Da-Shun, Guo 1995. Hongshan and related cultures. In: The archaeology of Northeast China: beyond the Great Wall. Nelson, Sarah M. ed. 21-64. London and New York: Routledge.
- ↑ Groundwater sapping as the cause of irreversible desertification of Hunshandake Sandy Lands, Inner Mongolia, northern China 合衆国科学アカデミー紀要
- ↑ New Thoughts on the Impact of Climate Change in Neolithic China Archaeology誌解説記事
- ↑ 中国の東北工程に影響された歴史学界…4つの新しい認識枠 東亜日報
- ↑ 「코리안루트를 찾아서」(1)中·한반도·日문명의 젖줄 ‘발해문명’ - 경향닷컴(京郷ドットコム) (2007-10-07)
- ↑ 제 5의 문명' 요하는 '중화'역사엔 없었다, 한겨례신문(ハンギョレ新聞)、박종찬、2010.01.28。
- ↑ Gina Barnes(1993), China, Korea and Japan : the rise of civilization in East Asia, p109
- ↑ https://news.joins.com/article/8622356
- ↑ 21.0 21.1 https://www.skyedaily.com/news/news_view.html?ID=127300, 고조선(단군조선)의 건국 기원(서기전 24세기) 불신론의 실체, skyedaily, 2021-04-08, https://web.archive.org/web/20211125162607/https://www.skyedaily.com/news/news_view.html?ID=127300, 2021-11-25
- ↑ https://www.joongang.co.kr/article/2647644, 단군신화 '역사'가 되려면, 中央日報, 2007-02-27, https://web.archive.org/web/20211012131435/https://www.joongang.co.kr/article/2647644#home, 2021-10-12}
- ↑ Yinqiu Cui, Hongjie Li, Chao Ning, Ye Zhang, Lu Chen, Xin Zhao, Erika Hagelberg and Hui Zhou (2013)"Y Chromosome analysis of prehistoric human populations in the West Liao River Valley, Northeast China. " BMC 13:216
- ↑ 現存唯一紅山文化玉器女太陽神;高26寬7.5厚10厘米,重2246克、原文網址:https://read01.com/o2O5oz.html、壹讀、15-04-21(最終閲覧日:22-12-19)