矢塚男命
矢塚男命(やつかおのみこと)は、長野県諏訪地方の民間伝承(諏訪信仰)の神。
概要[編集]
諏訪地方の先住神と伝わる。建御名方神(諏訪大社の祭神)に服従した洩矢神と戦った際に矢に当たって命を落としたと言われている[1][2][3]。
永明村天白七五三社由緒ニ、字宮渡祭神矢塚男命此地ニ穴居ス、健御名方命此国ニ到リシ時洩矢神ト弓矢を以テ戦フ、矢塚男其矢ニ中リテ死セントシ、建御名方命ニ云フ、我ハ大神ニ随フベシ、一女アリ献ラムト言ヒ終テ死ストノ口伝アリ (下略)[4][5]
民話では蟹河原(がにがわら)の長者とも称される。野馬を飼い馴らし、馬に乗って山へ狩りに出かけたり遠い国の市場で物交してたりして、洩矢神さえも時には一歩を譲らなければいけないほどの権力者と描かれる。外来の建御名方神に敗れて降服した洩矢神を腰抜けと見なし、手下たちに罵倒させた。最初は馬耳東風と受け流したものの、宣戦布告の合図として建御名方神の居館に赤い矢が射ち込まれると、挑戦に応じた建御名方神と洩矢神は軍勢を率いて蟹河原長者の陣営を攻撃する。油断していた長者はすっかりと攻め立てられ、ついには流れ矢に当たってしまう。死ぬ間際に洩矢神に謝罪し、大切な娘を建御名方神に差し上げた。建御名方神はこの娘を家臣の彦狭知命[6]に嫁がせ、2柱は蟹河原の領地に永住した[7][8]。
系譜[編集]
茅野市横内の大矢嶋氏の祖先神とされる[9]。
神社[編集]
- 天白七五三(しめ)社(天白〆社)(長野県茅野市ちの横内)
- 達屋酢蔵神社(長野県茅野市ちの横内)
- 諏訪大社上社の摂社・達屋社と酢蔵社の合併神社。
- 大天白社(長野県茅野市ちの横内)
私的考察[編集]
名前からして、この神は八束水臣津野命を諏訪的に変換した神ではないか、と思う。また、飯山市の健御名方富命彦神別神社には「八須良雄命」という神が祀られているが、同じ神ではないか、と考える。また「まつろわぬ神」として、後の時代の「八面大王」へと変化しているのではないだろうか。
また、諏訪ではこの神が「天白神」として取り扱われていることが分かる。これが八束水臣津野命のことであり、水神であり、微妙に風神としての性質も持つのであれば、八束水臣津野命とはイラン系のヴァルナのこととして差し支えないのではないだろうか。ともかく、諏訪地域において、古い時代に出雲系の氏族が開拓に入っていたところに、金刺氏、諏訪氏(おそらく物部氏と阿部氏の混血集団)が後から移住したなどの結果、悪神に追いやられてしまったものと思われる。天白信仰の衰退とも関連するであろう。
長野県の「天白神」が八束水臣津野命のこととすると、この神は「犬神の親」でもあるので、長野市の狗天伯社の神の親神、あるいは神そのものとしても相応しいのではないだろうか。
参考文献[編集]
- Wikipedia:矢塚男命(最終閲覧日:25-01-29)
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ↑ 宮坂光昭「古墳の変遷から見た古氏族の動向」『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会 編、人間社、2017年、79頁。
- ↑ 野本三吉「天白論ノート―民衆信仰の源流―」『古諏訪の祭祀と氏族』 古部族研究会 編、人間社、2017年、251-252頁。
- ↑ 宮地直一「[NDLDC:1076393/39 諏訪地方の原始信仰]」『諏訪史 第2巻 前編』信濃教育会諏訪部会、1931年、62頁。
- ↑ 山田肇, 1929, 諏訪大明神, 信濃郷土文化普及会, p74-88, 信濃郷土叢書 第1編, 健御名方命に降服した諏訪の國つ神 洩矢神及び武居大伴主惠美志命
- ↑ 延川和彦「[NDLDC:927368/21 信濃国官社諏訪神社神長官守矢家略系図]」『諏訪氏系図 続編』飯田好太郎、1921年、21コマ目。
- ↑ 『古語拾遺』では、天照大御神が天岩戸に隠れた時、讃岐忌部氏の祖先とされる手置帆負(たおきほおい)命とともに瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造った神。ここでは建御名方神の殿を建てたとされる。達屋酢蔵神社の祭神の1柱でもある。
- ↑ 今井野菊「がに河原長者」『諏訪ものがたり』甲陽書房、1960年、42-49頁。
- ↑ 今井野菊「蟹河原長者」『神々の里 古代諏訪物語』国書刊行会、1976年、46-51頁。
- ↑ 山田宗睦『天白紀行』人間社、2016年、147頁。
- ↑ 山田宗睦『天白紀行』人間社、2016年、143-144頁。
- ↑ 達屋酢蔵神社案内板。
- ↑ 大天白社本殿案内板。