自然の植物の大部分は雌雄同体であって1つの個体で生殖が可能であり、親が枯れてしまっても種が残ればそこからまた新たな芽を出すことは、現代的・科学的に事実であり、現代人であれば信仰とは関係なく自然現象として知っていることである。しかし、古代の人がこのような科学は、現象としては知っていても理論を知っていたとは思えないので、神話に置き換えるためには神話的理屈が必要であったと思われる。その解決法の一つが、「'''植物を自ら発生させることから、死後加工するまでを管轄していた神である[[須佐之男命]]'''」から、「'''木を切り倒し、加工して利用する神'''」という性質を分離して新たに[[五十猛神]]を[[須佐之男命]]の子神として独立させたことではないだろうか。こうすることで、[[須佐之男命]]はいつまでも体毛から木を生やすことを続ける神となり、[[五十猛神]]はそれを切り倒して利用し続ける神になることができるのである。切り倒された植物の1本1本は死ぬが、親である[[須佐之男命]]は死なないし、植物たちを切り倒す「兄弟」ともいえる[[五十猛神]]も死なないことになる。
これを民間伝承と比較すると、「美女と野獣」の娘の父親は[[五十猛神]]的神([[エスス]])、野獣は植物と一体化した[[須佐之男命]]的神となる。「キジも鳴かずば」の場合は、娘の父親が[[五十猛神]]的神、盗まれた小豆が[[須佐之男命]]の化身といえる。女主人公が植物の豊穣に関する女神の場合は、父親の死は[[オシリス]]の死のように次の植物への化生と豊穣へと続く可能性があるが、「キジも鳴かずば」は治水技術に関する話なので、女主人公には建設工事に関する職能神としての性質が求められているといえる。すなわち「キジも鳴かずば」は、建設工事に関する「神」としての権利と義務がまだ男性神に移行していない時代の思想を繁栄している物語なのである。また長野県信州新町水内は彦神別神神社があり、古代においては金刺氏の勢力範囲にあったと思われる地域なので、日本書紀の茨田堤の[[茨田連衫子]](まむたのむらじころもこ)の伝承と併せると、[[神八井耳命]]の子孫と言われている多氏系の氏族が、治水に関する建設工事に関わると共に、それに関わる祭祀で、おそらくの子孫と言われている多氏系の氏族が、治水に関する建設工事に関わると共に、それに関わる(おそらく)[[人身御供]]に関わる祭祀の祭祀者として振る舞っていた事実がかつてあったのではないか、と思われる。茨田堤でも「キジも鳴かずば」でも[[人身御供]]に捧げられているのは'''男性'''なので、建築工事に関する[[人柱]]は男女を問わなかった可能性がある。そして、多氏系氏族の祭祀者としての権威は天皇の権威よりも「上」であるとみなされていた可能性があるように思う。
「キジも鳴かずば」は、本来は建設工事を司る女神に小豆と小豆の化身とみなされる[[人身御供]]を捧げることで無事に建設工事が完遂された、という神話であったと思われる。この女神は元は植物神である小豆神の母あるいは妻とされていたと思われるが、父系の強化と共に、植物神の「娘」となり、神としての地位が低下していることが分かる。「'''小豆を盗み利用する神'''」が'''小豆神として'''[[人身御供]]に捧げられる、という点は[[須佐之男命]]的な「植物神」と、利用する神である[[五十猛神]]的神の性質が完全に分離しておらず、「利用する者が供物でもある」という矛盾が神話としては解消されていない状態といえる。「キジも鳴かずば」ではこの矛盾の解消のために「泥棒は罰せられねばならない」という論理を付け加え、利用する神である[[五十猛神]]的神の権威を否定して、植物神であるという理由とは別の理由で、彼が人身御供となることを正当化している。しかし、小豆ご飯(赤飯)が特別な霊的食べ物である、という思想も物語の中に残されることになった。小豆を混ぜて炊く赤飯は現代ではハレの日のご馳走とされるが、古代においては神に捧げられるものだったと推察される。