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、 2022年11月7日 (月) 17:41
<sup>''(出典の明記、2010年7月)''</sup>
* 氏姓:金刺舎人
* 始祖:[[神八井耳命]]
* 出自:[[多氏]]
* 氏祖:[[武五百建命]]
* 本貫:信濃国小県郡、水内郡、伊那郡、諏訪郡
'''金刺氏'''(かなさしし)は、日本の古代氏族の一つ。
== 概要 ==
金刺氏は'''磯城島金刺宮朝'''に遷都した[[欽明天皇]]に、御名代・舎人として出仕し、宮名の一部である「金刺」を自分達の氏の名前に負ったと考えられている<ref name="#1">佐藤雄一「古代信濃の氏族と信仰」(吉川弘文館、2021年)</ref>。
『[[古事記]]』の国譲り神話の部分にのみ登場する[[建御名方神]]について、『諏訪市史』では、[[科野国造]]の後裔である[[金刺氏]]が、始祖([[神八井耳命]])を同じくする系譜を持つ[[太安万侶]]に働きかけ、建御名方神についての神話を挿入させたとする<ref> 諏訪市史編纂委員会『諏訪市史. 上巻(原始・古代・中世)』(諏訪市、1995年)</ref>。
「創作された神」であると考えられる[[建御名方神]]が、本来の[[諏訪]]における神(『[[日本書紀]]』[[持統天皇]]紀に見える水神としての「須波神」)に代わって信仰を集めるようになった理由を、6世紀に[[欽明天皇]]に仕え氏族として成立した金刺舎人氏が、6世紀後半に諏訪を支配するようになって以降、[[守矢氏]]と共同で祭祀を行ない、その地位を高め、それを示すのが建御名方神の神階昇叙であると仮定した<ref name="#1"/>。加えて、金刺舎人氏は[[多氏]]と同族であり、[[太安万侶]]を通じて『[[古事記]]』に建御名方神の神話を書かせ、[[壬申の乱]]で騎兵を率いた[[多品治]]も、信濃国で馬を飼育していた金刺舎人氏と接近し、朝廷と金刺舎人氏を結びつける役割を担ったという<ref name="#1"/>。
[[奈良時代]]から[[平安時代]]初期の信濃の地方政治は、金刺部舎人氏や[[他田部氏|他田部舎人氏]]の活動を中心に繰り広げられたと見られ、伊那・諏訪・筑摩・水内・埴科・小県の各郡の郡司を占める。信濃の郡司を代表する人物に[[伊那郡]]大領[[金刺八麻呂|金刺舎人八麻呂]]がいる。郡司の子弟として平城京に出仕していた際に[[藤原仲麻呂の乱]](764年)が起こり、[[孝謙天皇|孝謙上皇]]の側で乱の鎮圧に功績が認められたと見られ翌年に外従五位下・勲六等の位が与えられた。また伊那郡の郡司は信濃国内に置かれた[[馬寮|内厩寮]]直轄の[[勅旨牧|御牧]]全体を統括する責任者([[牧主当]])でもあった。伊那郡や[[諏訪郡]]には、信濃国の御牧16牧のうち5牧があり、御牧が南信地域に多く置かれていたことがわかる。文献の面では、少なくとも奈良時代末期から金刺舎人氏が、馬によって中央との関係を持っていたことが知られている。金刺氏と馬は切り離し難い関係にあり、彼らが中央他のつながりを持つ際の手段の一つであったと考えられている<ref name="#1"/>。
また、金刺氏のうち、[[水内郡]]の[[郡司]]となった一族は、[[善光寺]]の創建に関わっており、水内郡南半の、[[裾花川]]沿いの[[芋井郷]](現在の[[長野市]]南俣や上高田周辺)を拠点にしたとする説がある<ref>桐原健『私の古代学ノート』(信毎書籍出版センター、1983年)</ref>。
[[貞観 (日本)|貞観]]4年([[862年]])には信濃国[[埴科郡]][[大領]]金刺舎人正長が小県郡[[郡司|権少領]]他田舎人藤雄と共に[[外従五位下]]に叙された。翌年には[[右近衛将監]][[大貞長|金刺舎人貞長]]が[[多氏|太]][[朝臣]]への改姓が許され、その弟貞継は[[八色の姓]]で[[宿禰]]を賜与された。さらに貞長は、翌年には長田(他田)直利世と共に外従五位下に序され、3年後には[[三河国|三河]]の[[介]]に任ぜられている。しかし、彼らの名はその後[[諏訪大社]]特に下社[[神官]]として残り政治の舞台からは遠のく。[[屋代町|屋代]][[木簡]]の中には5月20日の日付で[[稲取人]]である金刺舎人若麿らに対して埴科[[郡家]]の[[正倉]]から20束の稲を貸し与えた記述の物がある。
[[元慶]]3年([[879年]])に太皇太后の近侍として従五位下に叙された太朝臣平子は、「多朝臣」ではなく「太朝臣」であることから、太(金刺)貞長の一族であったと考えられる<ref>國學院大学氏族データーベース「意富臣[http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/ujizoku/oonoomi/]」</ref>。
; 信濃国の金刺氏・金刺部<ref>傳田伊史「古代信濃の地域社会構造」(同成社、2017年)</ref>
*[[伊那郡]]
**[[金刺舎人八麻呂]]
**:[[郡司|大領]]、[[信濃国]]牧主当、外従五位下勲六等
*[[諏訪郡]]
**[[大貞長|金刺舎人貞長]]
**:右近衛将監、正六位上
*[[水内郡]]
**[[金刺舎人若島|金刺舎人連若嶋]]
**:女嬬、正七位下、外従五位下、従五位下
*[[埴科郡]]
**[[金刺舎人正長]]
**:大領、外従七位上、借外従七位上
**金刺舎人真清
**金刺舎人小尼
**金刺舎人(欠名)
**金刺部若侶
**金刺部富止
**金刺部(欠名)
== 金刺部 ==
[[file:Shikishima-Kanasashi Palace.JPG|thumb|right|奈良県桜井市にある磯城島金刺宮の碑]]
起源は、[[部民制]]における[[名代]]の一つである'''金刺部'''にあるとされる。金刺部は[[欽明天皇]]の[[皇居]]であった[[磯城嶋金刺宮]]に由来し、その資用に充てられた料地等の管理に従事した人々である。
== 金刺舎人・金刺部の分布とその理由 ==
金刺舎人や金刺部は、[[伊豆国]]の一例を除いて[[信濃国]]と[[駿河国]]に集中している。信濃と駿河は、古墳などからの馬具の出土例が集中する地域であり、馬の繁殖や育成を行うということは、ただ馬を朝廷に供給するというだけではなく、武装騎乗する騎馬兵力を供給するということでもある。舎人という職業やその性格を踏まえれば、6世紀中頃のヤマト王権は、政治機構を整えていく中で、信濃や駿河の馬の生産を掌握し、騎馬兵力を構成しうる地域の首長を舎人として体制内に編成したと考えられる<ref name="#2">傳田伊史『古代信濃の地域社会構造』(同成社、2017年)</ref>。
これに対して、[[他田氏|他田舎人]]や[[他田氏|他田部]]は金刺よりも広範囲に分布しているが、これは、6世紀後半にはヤマト王権による編成の対象となる首長がより多くの地域に広がったことを表している。ただし、「他田舎人」という氏姓を有する人物は、[[若狭国]]の一例を除いて金刺舎人のように信濃と駿河に分布しており、他田舎人として編成された信濃や駿河の首長も、金刺舎人として編成された首長等と基本的に同様の目的で編成されていたと考えられる<ref name="#2"/>。
信濃に当時存在したのは中小首長達であったが、彼らがヤマト王権に編成されたのは、[[磐井の乱]]というヤマト王権の体制に関わる事件が発生したことによって、より強固な政治機構の整備が必要とされたことと、6世紀後半には、鉄製農具や新しい農業技術の流入や普及による農業生産力の発展によって、世帯共同体の成立が相次いでいたことが、[[大室古墳群]]のような[[群集墳]]が増えていることからわかり、従来からの中小首長(後の金刺舎人や他田舎人)に動揺を与え、そのために中小首長はヤマト王権の職制に組み込まれ、支配の正統性を主張し、その強化を図ったと考えられる。そして、同じ職制に組み込まれたことによって、それぞれの中小首長が同じ「金刺舎人」や「他田舎人」という擬似的な同族関係が生じるようになった<ref name="#2"/>。
== 関連項目 ==
*[[諏訪氏]]
== 参照 ==
{{Japanese-history-stub}}
{{DEFAULTSORT:かなさしへし}}
[[Category:日本神話]]
[[Category:氏族]]
[[Category:賀茂系]]