*: 天日槍命が「この村の高さは他の村に優っている」と言ったので「高家(たかや)」と称されるという(宍粟市山崎町庄能から山崎付近に比定<ref name="播磨国風土記pp.124-127"/>)<ref name="播磨国風土記pp.86-87">『新編日本古典文学全集 5 風土記』小学館、2003年(ジャパンナレッジ版)、pp. 86-87。</ref><ref>神道・神社史料集成</ref>。
* 宍禾郡柏野里 伊奈加川条
*: 葦原志許乎命と天日槍命が土地の占有争いをした時、いななく馬がこの川で2神に遭遇したため「伊奈加川(いなかがわ)」と称されるという(菅野川に比定<ref name="播磨国風土記pp.124-127"/>)<ref name="播磨国風土記pp.86-87"/>{{Sfn|<ref>神道・神社史料集成}}</ref>。
* 宍禾郡雲箇里 波加村条
*: [[伊和神社|伊和大神]]の国占有の時、天日槍命が先に着き、大神は後から来たが、大神が「対策をはかりも(考えも)しなかったから天日槍命が先に着いたのか」と言ったので「波加村(はかのむら)」と称されるという(宍粟市波賀町安賀・有賀・上野付近に比定伊和大神の国占有の時、天日槍命が先に着き、大神は後から来たが、大神が「対策をはかりも(考えも)しなかったから天日槍命が先に着いたのか」と言ったので「波加村(はかのむら)」と称されるという(宍粟市波賀町安賀・有賀・上野付近に比定<ref name="播磨国風土記pp.124-127"/>)<ref name="播磨国風土記pp.89-92">『新編日本古典文学全集 5 風土記』小学館、2003年([[ジャパンナレッジ]]版)、pp風土記』小学館、2003年(ジャパンナレッジ版)、pp. 89-92。</ref>{{Sfn|<ref>神道・神社史料集成}}</ref>。
* 宍禾郡御方里条
*: 葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬[[気多郡 (兵庫県)|気多郡]]、1本は夜夫郡([[養父郡 (兵庫県)|養父郡]])、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう(宍粟市一宮町の北半部に比定葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう(宍粟市一宮町の北半部に比定<ref name="播磨国風土記pp.124-127"/>)<ref name="播磨国風土記pp.89-92"/>{{Sfn|<ref>神道・神社史料集成}}</ref>。
* [[神崎郡|神前郡]]多駝里 粳岡条
*: 伊和大神と天日桙命の2神が軍を起こして戦った際、大神の軍が集まって稲をつき、その糠が集まって丘となったが、その箕を落とした糠を墓といい、また「城牟礼山(きむれやま)」というとする([[姫路市]]船津町八幡の糠塚に比定<ref name="播磨国風土記pp.124-127"/>)<ref name="播磨国風土記pp.98-99">『新編日本古典文学全集 5 風土記』小学館、2003年([[ジャパンナレッジ]]版)、pp. 98-99。</ref>(別伝は省略)。