差分

ナビゲーションに移動 検索に移動
151 バイト除去 、 2022年3月31日 (木) 19:06
編集の要約なし
== 起源 ==
河童の由来は大まかに[[西日本]]と[[東日本]]に分けられ、西日本では[[河伯]]信仰に連なる大陸からの渡来とされるが、東日本では[[安倍晴明]]の[[式神]]、[[役小角]]の護法童子、[[飛騨の匠]]([[左甚五郎]]とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は[[猿猴]]と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国では[[ニホンザル]]など在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する。河童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ、西日本では河伯信仰に連なる大陸からの渡来とされるが、東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する。
河神<ref group="*">『[[日本書紀]]』には「時[[天皇]]夢有神 『日本書紀』には「時天皇夢有神 誨之曰 武臟人[[大部強頸武臟人大部強頸|強頸]] 河內人[[茨田衫子|茨田連衫子]] 河內人茨田連衫子 衫子 此云 於河伯 必獲塞 則覓二人而得之 因以禱於河神」の「[[河伯]]、河神」([[仁徳天皇]]11年条〈{{small|[[西暦]]換算}}:[[323年]]条〉)や、「於吉備中國川島河派 有大虯令苦人」の虯令{{sup|(みづち)}}(仁徳天皇67年条〈{{small|西暦換算}}:[[379年]]条〉)など河神の記述がある。因以禱於河神」の「河伯、河神」(仁徳天皇11年条〈西暦換算:323年条〉)や、「於吉備中國川島河派 有大虯令苦人」の虯令(みづち)(仁徳天皇67年条〈西暦換算:379年条〉)など河神の記述がある。</ref>が秋に[[山神]]となるように、河童も一部地域では冬になると[[山童]](やまわろ)になるといわれる。[[大分県]]では、秋に河童が山に入ってセコとなり、[[和歌山県]]では、ケシャンボになる。いずれも山童、即ち[[山の神]]の使いである。また、河童は[[龍]]などと同じ[[水神]]ともいわれる。山の[[精霊]]とも言われる[[座敷童子が秋に山神]]などと同様に、河童も一部の子供にしか見えなかったという談がある。となるように、河童も一部地域では冬になると山童(やまわろ)になるといわれる。大分県では、秋に河童が山に入ってセコとなり、和歌山県では、ケシャンボになる。いずれも山童、即ち山の神の使いである。また、河童は龍などと同じ水神ともいわれる。山の精霊とも言われる座敷童子などと同様に、河童も一部の子供にしか見えなかったという談がある。
河童は、[[間引き]]された子供の遺体が河原にさらされている姿との説もある。[[江戸時代]]には間引きは頻繁に行われており、他の子供に間引きを悟られないよう大人が作った嘘とも言われている。

案内メニュー