事態を憂慮した天皇は、占いによって、災いの起こる理由を究明しようとした。ここで、占いをすることを「命神亀」と記しているが、亀卜のことを指している。なお『魏志倭人伝』の描く3世紀には、倭人は鹿の骨を焼く占いをしていた、とある。
そこで、神浅茅原(かんあさじはら)へ行幸し、八十万(やそよろず)の神々を集えて、占いをした。すると、[[倭迹迹日百襲姫命]](やまとととびももそひめのみこと)に神がのりうつり、自分を敬えば自然に疫病は平らぐと言った神がいた。不思議に思った天皇が名前を尋ねると、「私は倭国の域(さかい)の内にいる神で、名前は[[大物主神]]という」と自己紹介をした。この神のお告げにしたがってお祀りをしたが、効果はなく、そこで、天皇は[[物忌み|斎戒]][[沐浴]]し、「殿」(みあらか)のうちを清めて、「自分の信心が不十分なのでしょうか、夢の中で教えてください」と頼んだ。すると、その日の夢に貴人の姿をした大物主神が現れて、という」と自己紹介をした。この神のお告げにしたがってお祀りをしたが、効果はなく、そこで、天皇は斎戒沐浴し、「殿」(みあらか)のうちを清めて、「自分の信心が不十分なのでしょうか、夢の中で教えてください」と頼んだ。すると、その日の夢に貴人の姿をした大物主神が現れて、
{{quotation|<blockquote>「天皇<small>(すめらみこと)</small>、復<small>(また)</small>な愁<small>(うれ)</small>へましそ。国<small>(くに)</small>の治<small>(をさま)</small>らざるは、是<small>(これ)</small>吾<small>(わ)</small>が意<small>(こころ)</small>ぞ。若<small>(も)</small>し吾<small>(わ)</small>が児<small>(こ)</small>大田田根子<small>(おほたたねこ)</small>を以て、吾<small>(われ)</small>を令祭<small>(まつ)</small>りたまはば、立<small>(たちどころ)</small>に平<small>(たひら)</small>ぎなむ。亦<small>(また)</small>海外<small>(わたのほか)</small>の国<small>(くに)</small>有<small>(あ)</small>りて、自<small>(おの)</small>づからに帰伏<small>(まうしたが)</small>ひなむ」
(天皇よ、そんなに憂えなさるな。国の治まらないのは、吾が意<small>(こころ)</small>によるものだ。もしわが子大田田根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう)-[[#ujitani|訳・宇治谷孟]]によるものだ。もしわが子大田田根子に、吾を祀らせたら、たちどころに平らぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう)-訳・宇治谷孟<ref>『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条</ref>}}</blockquote>
とおっしゃった。
その後、倭迹速神浅茅原目妙姫(やまとと はやかんあさじはら まくわしひめ=倭迹迹日百襲姫命)や、臣下の[[穂積氏|穂積臣]]の祖先であるまくわしひめ=倭迹迹日百襲姫命)や、臣下の穂積臣の祖先である[[大水口宿禰]](おおぬなくち の すくね)らの夢にも貴人が現れて、大田田根子(おおたたねこ)と[[市磯長尾市]](いちし の ながおち)をそれぞれ大物主神と倭大国魂の祭主にすれば、天下太平になるという内容であった。天皇はこの夢の言葉を得て、天下に告げて大田田根子を捜したところ、茅渟県の陶邑で大田田根子が発見された。彼は、父親は大物主大神で、母親は陶津耳(すえつみみ)の娘の活玉依媛(いくたまよりびめ)であると答えた。そこで、卜占で、ながおち)をそれぞれ大物主神と倭大国魂の祭主にすれば、天下太平になるという内容であった。天皇はこの夢の言葉を得て、天下に告げて大田田根子を捜したところ、茅渟県の陶邑で大田田根子が発見された。彼は、父親は大物主大神で、母親は[[葛城国造|陶津耳]](すえつみみ)の娘の活玉依媛(いくたまよりびめ)であると答えた。そこで、卜占で、[[物部氏|物部連]]の祖先である[[伊香色雄]](いかがしこお)を「神班物者」(かみのものあかつひと=神に捧げる物を分かつ人)に任命した<ref>『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条</ref>。
それから、伊香色雄に沢山の平瓮(ひらか=平らな土器。平たい皿様の器)を神祭の供物とし、大田田根子を大物主大神の祭主、市磯長尾市を倭大国魂神の祭主にした、という。これにより、疫病は収まり、国内も鎮まり、五穀が実って、百姓は賑わった、というそれから、[[伊香色雄]]に沢山の平瓮(ひらか=平らな土器。平たい皿様の器)を神祭の供物とし、大田田根子を大物主大神の祭主、市磯長尾市を倭大国魂神の祭主にした、という。これにより、疫病は収まり、国内も鎮まり、五穀が実って、百姓は賑わった、という<ref>『日本書紀』崇神天皇7年11月13日条</ref>。
崇神天皇8年12月に天皇は、大田田根子に「大神」(おおみわのかみ)を祀らせた、という。この大田田根子が[[三輪氏|三輪君]]の始まりだという崇神天皇8年12月に天皇は、大田田根子に「大神」(おおみわのかみ)を祀らせた、という。この大田田根子が三輪君の始まりだという<ref>『日本書紀』崇神天皇8年12月20日条</ref>。
『[[古事記]]』にある物語は、これほど煩雜ではないが、大筋は同じで、[[崇神天皇]]の時、疫病が流行で人民が多く死に、天皇の夢枕に大物主大神が現れ「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた。天皇はその人物を捜し出し、意富多々泥古命に三輪山の神を祭らせ、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に天(あめ)の八十(やそ)びらかを作らせて、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め祭らせた、という話は同じである。ただ、こちらは「神の血を引く子」で、大物主大神と、陶津耳命(すえつみみのみこと)の娘の活玉依毘売(いくたまよりびめ)の3代目の孫である。さらに、活玉依毘売がどうして神の子を産んだのか、という物語も語られている<ref name="kojiki"/>。
大田田根子が登場するのはここまでであるが、このことから、崇神天皇が[[大和国]][[三輪山]]の神を祭ることで、祭政一致の政策を行い、さらに、海外も含めた周辺の諸国の統一に着手していることも分かる。
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%94%B0%E7%94%B0%E6%A0%B9%E5%AD%90 大田田根子](最終閲覧日:25-02-09)
* {{citation|和書|author=[[荻原浅男]] 訳|title=古事記|series=完訳日本の古典1|publisher=小学館|year=1983|isbn=4095560010}}
* <cite id="kojiki">{{Cite web|url=http://www.seisaku.bz/kojiki_index.html|title=古事記、全文検索|accessdate=2019-11-16}}</cite>
* 鈴木正信『日本古代氏族研究叢書4 大神氏の研究』雄山閣、2014年。
* 鈴木正信『古代氏族 大神氏』筑摩書房、2023年。
== 関連項目 ==
* [[飛鳥時代以前の人物一覧葛城国造]]:大田田根子の母は葛木氏とされる。
* [[大神神社]]
* [[大神氏]]