== 記録 ==
『[[日本書紀]]』巻第五によると、崇神天皇5年、『日本書紀』巻第五によると、崇神天皇5年、{{quotation|<blockquote>国内<small>(くにうち)</small>に、疾疫<small>(えのやまひ)</small>多<small>(おほ)</small>くして、民<small>(おほみたから)</small>死亡<small>(まか)</small>れる者<small>(もの)</small>有<small>(あ)</small>りて、且大半<small>(なかばす)</small>ぎなむとす。
(国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった)-[[#ujitani|訳・宇治谷孟]](国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった)-訳・宇治谷孟<ref>『日本書紀』崇神天皇5年条</ref>}}</blockquote>
6年には、「百姓」(おおみたから)は流離してしまい、或いは叛逆するものもあった。その勢いは徳で治めるのが難しかった。朝夕神祇祈り祭った。これよりも前に、[[天照大神天照御大神]]・[[倭大国魂神]]を天皇の「大殿」(みあらか)に並んで祭ったが、神の勢いを畏怖し、一緒に生活することができなかった。そこで、天皇が皇女、を天皇の「大殿」(みあらか)に並んで祭ったが、神の勢いを畏怖し、一緒に生活することができなかった。そこで、天皇が皇女[[豊鍬入姫命]](とよすきいりびめ 豊鍬入姫命(とよすきいりびめ の みこと)・[[渟名城入姫命]](ぬなきのいりびめ みこと)・渟名城入姫命(ぬなきのいりびめ の みこと)に2つの神をそれぞれ祭らせることにした。天照大神は倭のみこと)に2つの神をそれぞれ祭らせることにした。[[笠縫邑天照御大神]](かさぬいのむら)に祭り、豊鍬入姫には磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立てた。淳名城入姫はは倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭り、豊鍬入姫には磯堅城(しかたき)の神籬(ひもろぎ)を立てた。淳名城入姫は[[倭大国魂神]]を祭らせたが、髪が抜けて体が痩せて、お祀りすることができなかった<ref>『日本書紀』崇神天皇6年条</ref>。
事態を憂慮した天皇は、占いによって、災いの起こる理由を究明しようとした。ここで、占いをすることを「命神亀」と記しているが、[[亀卜]]のことを指している。なお『[[魏志倭人伝]]』の描く[[3世紀]]には、[[倭人]]は鹿の骨を焼く占いをしていた、とある。事態を憂慮した天皇は、占いによって、災いの起こる理由を究明しようとした。ここで、占いをすることを「命神亀」と記しているが、亀卜のことを指している。なお『魏志倭人伝』の描く3世紀には、倭人は鹿の骨を焼く占いをしていた、とある。
そこで、神浅茅原(かんあさじはら)へ行幸し、八十万(やそよろず)の神々を集えて、占いをした。すると、[[倭迹迹日百襲姫命]](やまとととびももそひめのみこと)に神がのりうつり、自分を敬えば自然に疫病は平らぐと言った神がいた。不思議に思った天皇が名前を尋ねると、「私は倭国の域(さかい)の内にいる神で、名前は[[大物主神]]という」と自己紹介をした。この神のお告げにしたがってお祀りをしたが、効果はなく、そこで、天皇は[[物忌み|斎戒]][[沐浴]]し、「殿」(みあらか)のうちを清めて、「自分の信心が不十分なのでしょうか、夢の中で教えてください」と頼んだ。すると、その日の夢に貴人の姿をした大物主神が現れて、
大田田根子が登場するのはここまでであるが、このことから、崇神天皇が[[大和国]][[三輪山]]の神を祭ることで、祭政一致の政策を行い、さらに、海外も含めた周辺の諸国の統一に着手していることも分かる。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
* [[大神氏]]
* [[ホツマツタヱ]]-江戸時代の偽書という説が濃厚であるが、後編は大田田根子が著したとされている。
== 脚注 ==
{{DEFAULTSORT:おおたたねこ}}
[[Category:日本神話]]
[[Category:大神氏]]