當麻津姫は当麻皇子の妻・舎人皇女や当麻皇子の母・葛城(当麻)広子のこととされるようである。ただし、古い由緒書には「當麻津姫」の名はなく、麻呂子皇子とあわせて祀られているのは'''日子坐王'''(ひこいます)である。'''日子坐王'''の子の'''小俣王'''(おまたのみこ)は'''当麻勾君'''(たいまのまがりのきみ)の祖とされる。
== 歴史的考察 ==
『延喜式』神名帳の大和国・山城国には「○○山口(坐)神社」と称する神社が15社記載されており、その中の一つが当社である。他の「○○山口(坐)神社」と同様、水源となる山間の地に山の神を祀り国家的に管理・祭祀したものと思われる。「○○山口(坐)神社」は全て『延喜式』臨時祭の祈雨神祭八十五座に加えられており、このことからも「○○山口(坐)神社」が水を司る神として朝廷から重視されたことが窺える。
当社は二上山・雌岳の東麓に立地しており、この山の水源や樹木を守護する神であったと共に、非常に古くからあったと思われる近隣の「當麻寺」と合わせて当地における聖域として信仰されたことが窺える。江戸時代以前には「新宮」と呼ばれると共に「熊野権現社」とも呼ばれていた。このため一時期は熊野神を祀っていたと思われるものの、現在はそのような形跡はない<ref>[https://jun-yu-roku.com/yamato-katsuge-taima-taimayamaguchi/ 当麻山口神社 (奈良県葛城市當麻)]、神社巡遊録(最終閲覧日:25-01-21)</ref>。
== 私的考察 ==