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'''誉津別命'''(ほむつわけのみこと、[[生没年不詳]])は、『[[記紀]]』などに登場する[[古墳時代]]の[[皇族]](王族)。『[[日本書紀]]』では誉津別命、『[[古事記]]』では'''本牟智和気命'''もしくは'''品牟津和気命'''(ほむちわけのみこと)、『[[尾張国風土記]]』逸文では'''品津別皇子'''と表記される。[[垂仁天皇]]の第一皇子で、母は[[皇后]]の[[狭穂毘売|狭穂毘売命]](さほびめのみこと、[[日子坐王]]の女)。『[[上宮記]]』の逸文では[[継体天皇]]の先祖に、通常[[応神天皇]](誉田別命)とされる人物として'''凡牟都和希王'''(ほむつわけのみこ)の名が見える。

== 伝承 ==
=== 火中での出生 ===
[[File:NAJDA-158-0155 全像本朝古今列女伝1 (狹穗姬).jpg|誉津別命(左下)|thumb]]
『[[古事記]]』によると、名前の由来は稲城の焼かれる火中で生まれたので、母により本牟智和気御子と名づけられたとする。母の狭穂姫命はその兄[[狭穂彦王|狭穂彦]]の興した叛乱([[狭穂姫命#狭穂毘古の叛乱|狭穂毘古の反乱]])の際に自殺。『[[日本書紀]]』では反乱の前に生まれていたとするが、火中から救い出されたのは『古事記』に同じ。なお、垂仁天皇5年10月に討伐令が出されたが、稲城での籠城が翌月まで続き、そのため火攻めが行われたとされる。このため、『古事記』に従えば、誉津別命の誕生は垂仁天皇の5年11月に位置付けられる。

=== 出雲大神の祟り ===
誉津別皇子は父天皇に大変寵愛されたが、長じてひげが胸先に達しても言葉を発することがなく、特に『[[日本書紀]]』では赤子のように泣いてばかりであったという。

『日本書紀』によると皇子はある日、鵠(くぐい、今の[[ハクチョウ|白鳥]])が渡るさまを見て「是何物ぞ」と初めて言葉を発した。天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じる。[[天湯河板挙]](鳥取造の祖)が[[出雲国|出雲]](一書に[[但馬国|但馬]])で捕まえて献上し、鵠を遊び相手にすると、誉津別命は言葉を発するようになった。ここに鳥取部・鳥飼部・誉津部を設けたとある。

『[[古事記]]』では、誉津別皇子についてより詳しい伝承が述べられている。天皇は尾張の国の二股に分かれた杉で二股船を作り、それを運んできて、市師池・軽池に浮かべて、皇子とともに戯れた。あるとき皇子は天を往く鵠を見て何かを言おうとしたので、天皇はそれを見て鵠を捕らえるように命じた。鵠は[[紀伊国|紀伊]]・[[播磨国|播磨]]・[[因幡国|因幡]]・[[丹波国|丹波]]・但馬・[[近江国|近江]]・[[美濃国|美濃]]・[[尾張国|尾張]]・[[信濃国|信濃]]・[[越国|越]]を飛んだ末に捕らえられた。しかし皇子は鵠を得てもまだ物言わなかった。ある晩、天皇の[[夢]]に何者かが現れて「我が宮を天皇の宮のごとく造り直したなら、皇子はしゃべれるようになるだろう」と述べた。そこで天皇は[[太占]]で夢に現れたのが何者であるか占わせると、言語(物言わぬ)は出雲大神の[[祟り]]とわかった。天皇は皇子を[[曙立王]]・[[菟上王]]とともに出雲(現:[[島根県]]東部)に遣わして大神を拝させた。出雲から帰る際、[[斐伊川|肥川]]に橋を渡し、仮宮を造営して滞在していると、そこに[[出雲国造]]の祖先である[[岐比佐都美]]が青葉の木を飾り立てて川下に立て、食事を献上しようとした。その時、皇子が「この川下に青葉の山のように見えるものは、山の様で山ではない。もしかすると、出雲の石硐の曽宮に坐す、[[大国主|葦原色許男大神]]を仕え奉る祭場ではないだろうか」と問うた。皇子が話せるようになったことを御供の王たちは喜び、皇子を檳榔の長穂宮に移すと、早馬を走らせて天皇に報告した。天皇はこれを喜び、菟上王を出雲に返して[[出雲大社|大神の宮]]を造らせた。また鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設けたという。

『[[釈日本紀]]』に引く『尾張国風土記』逸文では阿麻乃彌加都比女の祟りとする。それによると誉津別皇子は7歳になっても話すことができなかったが、[[皇后]]の夢に多具の国の神・阿麻乃彌加都比売が現れて、「自分にはまだ祝(はふり)がいないので、自分を祭祀してくれる者を与えてくれたなら、皇子は話せるようになり、寿命も延びるであろう」と言った。そこで天皇は日置部らの祖・建岡君にこの神がどこにいるかを占わせた。建岡君は美濃国の花鹿山に行き、[[サカキ|榊]]を折って鬘(髪飾り)を作り、[[うけい|ウケイ]]して「この鬘の落ちたところに神はいらっしゃるだろう」と言った。すると鬘は空を飛んで[[尾張国]][[丹羽郡]]に落ちたので、建岡君は同地に社を建て、また同地も鬘が訛って[[阿豆良神社|阿豆良]](あづら)の里と呼ばれるようになったとある。多具の国とは、出雲国の多久川流域とされ、また阿麻乃彌加都比売は『[[出雲国風土記]]』[[秋鹿郡]]伊農郷にみえる天甕津日女(もしくは楯縫郡神名樋山の項の天御梶日女)と同神とされる。天御梶日女は葦原色許男大神の子である[[阿遅鉏高日子根神]]の妻とされ、阿遅鉏高日子根神は『出雲国風土記』において、誉津別皇子と同じく大人になっても子供のように泣き止まなかったとする伝承が掲載されている。

=== 肥長比売との出会い ===
『古事記』では、その後、出雲において皇子は[[ヒナガヒメ|肥長比売]]と婚姻したが、垣間見ると肥長比売が蛇体であったため、畏れて逃げた。すると肥長比売は海原を照らしながら追いかけてきたので、皇子はますます畏れて、船を山に引き上げて大和に逃げ帰った。

== 解釈をめぐる諸説 ==
これらの話は神話研究では、[[記紀]]での[[スサノオ]]が大人になっても泣いてばかりであったことや、また『出雲国風土記』での[[アヂスキタカヒコネ|アジスキタカヒコネ]]が口が利けなかったという神話と比較されている。また{{要出典範囲|date=2015年8月2日 (日) 01:26 (UTC)|火中出産は[[コノハナノサクヤビメ|木花咲耶姫]]の[[うけい|誓約]]につながるとの指摘がある。}}

== 関連項目 ==
* [[狭穂姫命]]
* [[狭穂彦王]]

== 脚注 ==

{{DEFAULTSORT:ほむつわけのみこと}}
[[Category:日本神話]]
[[Category:祝融型神]]

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