アフリカにおいてはツェツェバエの害などによって伝播が阻害されたものの、紀元前1500年ごろにはギニアのフータ・ジャロン山地でツェツェバエに耐性のある種が選抜され<ref>『新書アフリカ史』 宮本正興・松田素二編、講談社〈講談社現代新書〉、2003年2月20日、55頁。</ref>、西アフリカからヴィクトリア湖畔にかけては紀元前500年頃までにはウシの飼育が広がっていた<ref>サムエル・カスール 『アフリカ大陸歴史地図』 向井元子訳、東洋書林、第1版、2002年12月3日。19頁。</ref>。インドにおいてはバラモン教時代はウシは食用となっていたが、ヒンドゥー教への転換が進む中でウシが神聖視されるようになり、ウシの肉を食用とすることを禁じるようになった。しかし、乳製品や農耕用としての需要からウシは飼育され続け、世界有数の飼育国であり続けることとなった。
[[新大陸]]にはオーロックスが存在せず、[[1494年]]に[[クリストファー・コロンブス]]によって持ち込まれたのが始まりである。新大陸の気候風土にウシは適合し、各地で飼育されるようになった新大陸にはオーロックスが存在せず、1494年にクリストファー・コロンブスによって持ち込まれたのが始まりである。新大陸の気候風土にウシは適合し、各地で飼育されるようになった<ref name="Cambridge">『ケンブリッジ世界の食物史大百科事典 2 主要食物:栽培作物と飼養動物』 Kenneth F.Kiple, Kriemhild Conee Ornelas編、石毛直道ほか監訳、朝倉書店、2004年9月10日、第2版第1刷。ISBN 4254435320。550頁。</ref>。とくに[[アルゼンチン]]の[[パンパ]]においては、持ち込まれた牛の群れが野生化し、[[19世紀]]後半には1。とくにアルゼンチンのパンパにおいては、持ち込まれた牛の群れが野生化し、19世紀後半には1,500万頭から2,000万頭にも達した。このウシの群れに依存する人々は[[ガウチョ]]と呼ばれ、アルゼンチンや[[ウルグアイ]]の歴史上重要な役割を果たしたが、19世紀後半にパンパ全域が牧場化し野生のウシの群れが消滅すると姿を消した。[[北アメリカ大陸]]においてもウシは急速に広がり、19世紀後半には[[大陸横断鉄道]]の開通によってウシを鉄道駅にまで移送し市場であるアメリカ東部へと送り出す姿が見られるようになった。この移送を行う牧童は[[カウボーイ]]と呼ばれ、ウシの大規模陸送がすたれたのちもその独自の文化はアメリカ文化の象徴となっている。000万頭にも達した。このウシの群れに依存する人々はガウチョと呼ばれ、アルゼンチンやウルグアイの歴史上重要な役割を果たしたが、19世紀後半にパンパ全域が牧場化し野生のウシの群れが消滅すると姿を消した。北アメリカ大陸においてもウシは急速に広がり、19世紀後半には大陸横断鉄道の開通によってウシを鉄道駅にまで移送し市場であるアメリカ東部へと送り出す姿が見られるようになった。この移送を行う牧童はカウボーイと呼ばれ、ウシの大規模陸送がすたれたのちもその独自の文化はアメリカ文化の象徴となっている。
[[1880年代]]には[[冷凍船]]が開発され、遠距離間の牛肉の輸送が可能となった。これは[[アルゼンチン]]や[[ウルグアイ]]において牧場の大規模化や効率化をもたらし、牛肉輸出は両国の基幹産業となった<ref name="Cambridge"/>。また、鉄道の発達によって牛乳を農家から大都市の市場へと迅速に大量に供給することが可能になったうえ、[[ルイ・パスツール]]によって低温殺菌法([[パスチャライゼーション]])が開発され、さらに冷蔵技術も進歩したことで、チーズやバターなどの乳製品に加工することなくそのまま牛乳を飲む習慣が一般化した<ref>南直人 『ヨーロッパの舌はどう変わったか 十九世紀食卓革命』 講談社〈講談社選書メチエ〉、1998年2月10日、第1刷。113-114頁。</ref>。こうした技術の発展によって、ウシの利用はますます増加し、頭数も増加していった。