序列殺人

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世界樹の概念とその身分秩序を図示したもの

兄と弟の二人の兄弟がいて、弟の方が唐突に死ぬパターンの民話・神話群である。弟が兄に殺されるパターン、怪物に殺されるパターン、原因不明で死ぬパターン等があり、弟の死の原因は一定ではない。

オーストロネシア語族の民話・伝承にみられる物語である。日本、台湾、ポリネシア等に類話が分布する。

私的解説[編集]

これは、原始的な父系の社会身分秩序を投影した物語といえる。人間を中心とした世界は樹木に例えられ、頂上にはが留まる。枝には猿などがいて、木の実もなる。地面に近いところには、馬や豚といった動物、樹木以外の植物(穀物)があり、樹木の根元には蛇が住む。また土中には芋類がなる。これを人間の身分秩序になぞらえて、上にいる鳥が長兄、土中の芋が末弟となり、下へ行くほど身分は低くなる。長兄は下位の身分のもの、すなわち、馬や豚と言った家畜を利用し、穀物を食べ、芋類も食べる。すなわち、人になぞらえると、最高位の身分の者(兄)が、その下の身分の者(弟たち)を搾取して食い潰す、という構造を示す。この構造が、「世界樹」という秩序があり、その頂点に君臨するが世界を支配する、という思想となる。すなわち、世界樹とか、天の神々といった神話を持つ人々は全て、搾取を目的とした父系の身分秩序社会に属する人々、ということになる。父系の文化の源流が良渚文化にあるとすれば、オーストロネシア語族の「序列殺人」の民話や神話の源流は、良渚文化にあると思われる。


良渚よりも前は、世界樹の更にその上に「太陽(女神)」が存在し、世界樹の頂点にいる鳥神達は、太陽を支える存在だった。これが河姆渡文化以前の文化であり、母系の文化だったといえる。母系であるが故に、最高位の太陽は女性なのであり、この名残が日本神話の天照大神といえる。


鳥が太陽を兼ねる「三足烏」の神話などは、おそらく女性の社会的地位が低下して、父系の頂点にいる「鳥神」が「太陽神」を兼ねることとなって誕生したものと考える。

「植物」の象徴[編集]

芋そのもの[編集]

特に日本では「芋名月」に象徴されるように、山芋やそれに類する芋類が「低い身分の植物」を象徴しているし、民話や伝承の中で死に至るものが多いと感じる。

便類に関するもの[編集]

ハイヌウェレ神話では、ハイヌウェレは高価な品物を大便として排泄したという。日本の神話では、大宜津比売が食物を排泄した、とされている。ハイヌウェレの死骸からは芋類が生じ、大宜津比売の体からは穀類や豆類が生じているので、「植物神」とは、排泄行為(主に大便)で物を生み出す「排泄神」でもあることが分かる。そのため、民話や伝承でも、排泄行為(特に大便)に関する物語は、ハイヌウェレ型の「植物神」の神話が変化したものだ、といえる物語もあるのではないだろうか。

序列殺人の形式の民話・伝承[編集]

「鳥と芋」型[編集]

「鳥と植物神(排泄神)」型[編集]

参照・オーストロネシア語族とは[編集]

オーストロネシア祖族は東アジアのモンゴロイドで、約6000年前に中国南部、現在の福建省付近から台湾へ渡ったとされる[1]

この時に一部のグループは黒潮や対馬海流に乗って日本列島にも渡っており、特に沖縄県、鹿児島県、宮崎県や和歌山県南部、三重県、愛知県、静岡県南西部などに彼らの末裔が多いと言われている[2](隼人や南島系海人族)。HLAハプロタイプはB54-DR4がこの流れを示している[3]。ちなみに日本語は文法がアルタイ諸語のものであるが、音韻体系はポリネシア語の属するオーストロネシア語族と共通している部分がある。

いっぽうで台湾からは5000年前以降に一部がフィリピンやインドネシア方面へ拡散し[4][5]、紀元前2000年頃にインドネシアのスラウェシ島、ボルネオ島に到達した。

ボルネオ島のマレー人の一部はスンダ海峡を横断し、遠くマダガスカルへ達した。彼らは直接マダガスカル島まで航海した可能性が強く、この2つの島の間は4,500海里(8,300km)も離れているが、常に貿易風が追い風となる航海であるため、当時の東南アジア島嶼部の海民の技術レベルならば充分に現実的な航海である。

スラウェシ島のグループはここからニューギニア島海岸部、メラネシアと東進し、その間にオーストラロイドの先住民(パプア人、メラネシア人)と混血し、ポリネシア人、ミクロネシア人の始祖となる。彼らは紀元前1100年頃にはフィジー諸島に到達する。

現在、ポリネシアと呼ばれる地域への移住は紀元前950年頃からで、サモアやトンガからもラピタ人の土器が出土している。

サモアに到達した時点 でポリネシア人の東への移住の動きは一旦止まるのだが、紀元1世紀頃から再び移動を開始し、ポリネシア人たちはエリス諸島やマルキーズ諸島、ソシエテ諸島にまず移住した。その後、ソシエテ諸島を中心に300年頃にイースター島、400年頃にハワイ諸島、1000年頃にクック諸島やニュージーランドに到達した。

生活・文化[編集]

オーストロネシア系諸族は概ね農耕生活を営んでおり、太平洋諸島ではタロイモヤムイモなどの焼畑農業が行われる。漁労も行い、家畜はブタが中心でありニワトリも飼う。東南アジアのオーストロネシア系諸族は稲作もおこなうが、これは基層住民として分布していたオーストロアジア系諸族の生活体系を引き継いだものである。

ミクロネシア人は母系制社会、ポリネシア人は父系性社会である。メラネシアは比較的平等な社会である。

サトイモについて[編集]

サトイモはタロイモの仲間で、原産地はインドや中国[6]、またはマレー半島[7]などの熱帯アジアと言われているが[8]、インド東部からインドシナ半島にかけてとの説が有力視されている[9]。少なくとも、紀元前3000年ごろにはインドで栽培されていたとみられている[10]

日本への伝播ははっきりしていないが、イネの渡来よりも早い縄文中期~縄文時代後期(約4,000~3,000年前)と考えられている[11][12]。なお、鳥栖自生芋(佐賀県鳥栖市)のほかに、藪芋、ドンガラ、弘法芋(長野県青木村)と呼ばれる野生化したサトイモが、本州各地にあることが報告されている[13]。このうち、青木村の弘法芋群生地は県指定天然記念物となっている[14]。伝播経路は不明であるが、黒潮の流れに沿って北上したと考える研究者がいる[15]

昭和30年代ごろまでは、高知県熊本県五家荘)などでは山間地での焼き畑輪作農業により栽培されていた[16][17]

日本の食文化とサトイモの関わりは関係が深く、古い時代から月見の宴などの儀礼食に欠かさない食材で使われており、サトイモを餅の代用にした「餅なし正月」の習俗も日本各地で見られた[18]。戦国時代には野戦携行食として、茎葉の皮を剥いて乾燥させた保存食「干し ずいき」「芋がら」が重宝された。

関連項目[編集]

参照[編集]

  1. Kun, Ho Chuan (2006). "On the Origins of Taiwan Austronesians". In K. R. Howe. Vaka Moana: Voyages of the Ancestors (3rd ed.). Honolulu: University of Hawai'i Press. pp. 92–93
  2. 『日本語形成の謎に迫る』(新泉社、1999年)
  3. 徳永勝士 (1995)「HLA遺伝子群からみた日本人のなりたち」『モンゴロイドの地球(3)日本人のなりたち』東京大学出版会,第4章,遺伝子からみた日本人,p193-210
  4. ピーター・ベルウッド (1989)「太平洋 ―東南アジアとオセアニアの人類史―」植木武・服部研二 訳 東京:法政大学出版局
  5. ピーター・ベルウッド(2008)『農耕起源の人類史』長田俊樹・佐藤洋一郎 訳 地球研ライブラリー no. 6 京都:京都大学学術出版会
  6. 丸山亮平編, 2017, p104
  7. 猪股慶子監修 成美堂出版編集部編, 2012, p108
  8. 藤田智監修 NHK出版編, 2019, p112
  9. 講談社編, 2013, p189
  10. 講談社編, 2013, p189
  11. 講談社編, 2013, p189
  12. 小西達夫:世界のタロイモ -種の多様性と利用について- 有名野菜品種特性研究会 「有名野菜品種特性研究会(サトイモ)」報告
  13. 佐賀県鳥栖市に自生しているサトイモについて」『佐賀大学農学部彙報』佐賀大学農学部 Vol.71 pp.113 -122
  14. 平安時代初期の仏教僧侶・空海(弘法大師)にちなむ伝説から、弘法芋と呼ばれる。別名「石芋」。県指定天然記念物 沓掛の野生里芋 青木村ホームページ(2018年12月7日閲覧)
  15. 橋本征治「台湾蘭嶼におけるタロイモ栽培」『関西大学東西学術研究所紀要』第40輯, 2007年4月1日, pp.55-77
  16. 横川末吉「高知縣の燒畑耕作」『人文地理』1955年 7巻 1号 pp.41-48, テンプレート:Doi
  17. 上野福男「五家荘の燒畑耕作」『地理学評論』1938年 14巻 2号 pp.93-120, テンプレート:Doi
  18. 講談社編, 2013, p189