小泉小太郎伝説
小泉小太郎(こいずみこたろう)は、長野県上田地域に伝わる民話。人間の父親と大蛇の母親との間に産まれた少年・小太郎にまつわる物語。同じく長野県安曇野地域には泉小太郎(いずみこたろう)という民話が伝わり、こちらは小太郎が自らの母親である竜と共に安曇野周辺を開拓する物語である。これらは内容こそ異なるものの関連が指摘されており、現代になってこれらを一つの物語に再編する試みがなされ、作家・松谷みよ子による創作『龍の子太郎』では物語の根幹を成す。
目次
上田地域の小泉小太郎[編集]
小泉小太郎にまつわる民話の大要が1922年(大正11年)発行の『小県郡史 余篇』に収録されているので、以下に要約して紹介する[1]。
- 西塩田村にある鉄城山の山頂に寺があり、そこへ毎晩のように通う一人の女性がいた。彼女がどこからやって来たのか分からず、不思議に思った寺の住職は、彼女の衣服に糸を付けた針を刺しておいた。翌朝、住職が糸をたどって行き着いた先は、川の上流にある鞍淵の洞窟であった。中をのぞくと、赤子を産もうと苦しむ大蛇の姿があった。住職は驚いて逃げ出し、出産を終えた大蛇も正体が知られたことを恥じて死んでしまう。
- 赤子は小泉村の老婆に拾われ、小太郎という名前で育てられた。身長は小さいものの、たくましい体に成長した小太郎であったが、食べては遊んでばかりで仕事をしたことがない。14、5歳になった頃、老婆から仕事を手伝うよう促された小太郎は、小泉山へ薪を取りに出かけることにした。
- 夕方、小太郎は萩の束を2つほど持ち帰った。これは山じゅうの萩を束ねたものだから、使うときは1本ずつ抜き取るようにして、決して結びを解いてはいけない、と小太郎は老婆に伝えたが、たった1日でそのようなことができるはずがないと思った老婆は結びを解いてしまう。すると、束がたちまち膨れあがり、家も老婆も押しつぶしてしまった。
補足として以下に何点か記す。
- 似たような伝承は日本の各地に見られ、それらの根幹は古事記にある三輪山伝説であると考えられている[1]。
- 『小県郡史 余篇』によると、寺があるとされる鉄城山は殿城山またはデッチョウ山とも呼ばれ、その支峰が独鈷山であると記されている[2]。のちに再編された作品の中では独鈷山という名前に置き換えられている[3]。
- [産川という川の名前は、大蛇が赤子を産んだという逸話に由来する[1]。また、産川の流域に散らばる沸石は蛇骨石と呼ばれ、それらは死んだ大蛇の遺骨であるという[1]。
- 小泉山は、その山じゅうの萩を小太郎が刈り尽くしたため、以来1本も萩が生えなくなったという[1]。とは言え、現代では萩の繁茂が見られるようである[1]。
- 小太郎とその子孫は当地に永住したが、彼らの横腹には蛇紋のような斑点があるという[1]。
- 松谷みよ子は塩田平を訪れた際に小泉小太郎の民話を耳にしている[4]。内容は『小県郡史 余篇』にあるものとほぼ同じものであるが、小太郎を出産後に死んだ大蛇の死因は鉄の毒によるものであったという[4]。松谷は小太郎に抱いた怠け者という印象から、物くさ太郎や三年寝太郎、厚狭の寝太郎といった物語を連想し、小太郎も将来大きな事をやってのけるのではないかと考えたが、当地の語り手からは松谷が期待する内容の逸話を得ることはできなかった[4]。
安曇野地域の泉小太郎[編集]
長野県安曇野に伝わる民話に泉小太郎(いずみこたろう、日光泉小太郎、泉小次郎とも)がある。かつて安曇野を含む松本盆地は大きな湖で、泉小太郎が陸地に開拓したというものである[1]。
『信府統記』に泉小太郎に関する記述があるので、以下に要約して紹介する[5]。
- 景行天皇12年まで、(安曇野の対岸にある)松本のあたりは山々から流れてくる水を湛える湖であった。その湖には犀竜が住んでおり、東の高梨の池に住む白竜王との間に一人の子供をもうけた。名前を日光泉小太郎という。しかし小太郎の母である犀竜は、自身の姿を恥じて湖の中に隠れてしまう。
- 筑摩郡中山の産ヶ坂で生まれ、放光寺で成人した小太郎は母の行方を捜し、尾入沢で再会を果たした。そこで犀竜は自身が建御名方神の化身であり、子孫の繁栄を願って顕現したことを明かす。そして、湖の水を流して平地とし、人が住める里にしようと告げた。小太郎は犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った。
大昔に山清路を人の手で開削して松本盆地を排水、開拓したとする『仁科濫觴記』の記述を根拠に、これを伝説の由来とする説がある[6]。「泉小太郎」の名も、その功労者である「白水光郎」(あまひかるこ)の名が書き誤られたもの(「白」・「水」の2文字を「泉」の1文字に、「光」の1文字を「小」・「太」の2文字にといった具合に)であるという[6]。
民話ゆかりの地である松本市・安曇野市・大町市・長野市には、伝説にちなむ銅像や石像が建立されている。また、大町市の大町温泉郷には泉小太郎を扱う博物館「民話の里おおまち小太郎」がある。
小泉小太郎と泉小太郎との関連[編集]
小泉小太郎と泉小太郎との関連について、『小県郡史 余篇』には「内容は異なれど其名称相似たり」とあり[7]、民俗学者の柳田國男も自著『桃太郎の誕生』の中で「元は一つであつたらうことが注意せられる」と指摘している[8]。松谷みよ子は小泉小太郎の民話を聞いたのち、安曇野周辺を訪れて泉小太郎の民話を聞くと、「相違点はあるにせよ、これはおそらく一つの話に違いない」と考えた[9]。
1957年(昭和32年)発行の『信濃の民話』(未來社『日本の民話』シリーズ)には、長野県の各地(南安曇郡・北安曇郡・東筑摩郡・小県郡)に伝わる小泉小太郎および泉小太郎の民話を一つの物語にまとめた「小泉小太郎」が収録されている[3]。前半部分は概ね先に示した小泉小太郎のあらすじに沿った内容であるが、小太郎の母は山の向こうの湖の中で生きており、後半で成長した小太郎が母をたずねて旅立ち、再会した二人が力を合わせて湖を切り開くという内容である[3]。同様の物語は1973年(昭和48年)発行の『民衆の英雄』(角川書店『日本の民話』シリーズ)にも「小泉小太郎と母竜」(瀬川拓男による再話)の題で収録されているが、本作では小太郎の父親が開拓者集団の長(おさ)という設定であり、松本盆地のみならず、同じく湖であった上田盆地についても、三頭山から虚空蔵山を結ぶ半過の崖を小太郎と母竜が突き崩し、排水したとするなど[10][11]、『小県郡史 余篇』や『信濃の民話』のものとは異なる点もある。この「小太郎と母龍」の物語はテレビアニメ『まんが日本昔ばなし』で放送され、同作のDVD第5巻に収録されている[12]。演出は樋口雅一、文芸は沖島勲、美術は小関俊一、作画は高橋信也が担当した[12]。
『信濃の民話』の編集委員の一人であった松谷みよ子は、「水との闘いの民話」の多くが陰惨な内容であるなか、小泉小太郎を明るく雄大な物語として捉えた[13]。忘れられつつあった小泉小太郎を復活させ、秋田県の民話や自身の体験、また子供たちとの関わりなどをもとに、松谷が1959年(昭和34年)度に創作したのが『龍の子太郎』である[14][15]。
私的解説・再現神話[編集]
昔、八布施山の山頂に神社があり、そこへ毎晩のように通う一人の女性がいた。彼女がどこからやって来たのか分からず、不思議に思った村の老人が、こっそり彼女の衣服に糸を付けた針を刺しておいた。翌朝、村人が糸をたどって行き着いた先は、犀川の縁にある洞窟だった。中をのぞくと、赤子を産もうと苦しむ大蛇の姿があったが、男の子を産んだ大蛇は息も絶え絶えだった。
「私は出産で力を使い果たし、このままでは生きていかれません。川の底の我が家で休まなければなりません。どうかこの子を預かって育ててください。」
そう言うと、大蛇は老人に赤子と龍の赤い玉を預けて、犀川に入って行ってしまった。老人は赤ん坊に小太郎と名付け、妻と一緒に大切に育てた。身長は小さいものの、たくましい体に成長した小太郎だったが、食べては遊んでばかりで仕事をしたことがない。14、5歳になった頃、養母から仕事を手伝うよう促された小太郎は、小泉山へ薪を取りに出かけることにした。母親からもらった龍の玉を使うと仕事は簡単に済んだ。小太郎は萩の束を2つほど持ち帰った。これは山じゅうの萩を束ねたものだから、使うときは1本ずつ抜き取るようにして、決して結びを解いてはいけない、と小太郎は養母に伝えたが、たった1日でそのようなことができるはずがないと思った養母は結びを解いてしまった。すると、束がたちまち膨れあがり、養母はその下敷きになって動けなくなってしまった。
「お母さん、僕の言うことを信用しないから、罰を受けたんですよ。次から気をつけてください。」
小太郎はそう言いながら、萩をのけて養母を助け出した。小太郎のとってきた萩の薪はとても良く燃えて怖いくらいだった。
薪取りで失敗したので、小太郎は今度は養父の畑仕事を手伝うことにした。石ころだらけの山坂を開墾する厳しい仕事だ。農地は少ないし、仕事は大変だし、小太郎は嫌気がさした。
「こんなに山が険しくては田畑も少ししか作れない。せめて犀川の周囲がもっと平らだったら村のみんなも仕事が楽になるのになあ。」
と小太郎は思った。そこで、小太郎はなんとかならないものかと、母親の大蛇に会いに行くことにした。実は母親の大蛇は犀川の女神の犀竜だったのだ。母親は尾入沢というところに住んでいて、近頃ではすっかり具合も良くなり、天気の良い日には陸に上がってきて、尾だけを水につけて日向ぼっこしながら昼寝をしている、と噂で聞いたのだ。だから、その地を「尾入沢」と言うのだ。小太郎が養父母にその話をすると、養父母は小太郎が険しい山道を越えていけるように馬を1頭貸してくれた。
小太郎が会いに行くと犀竜はとても喜んでくれた。
「少し体を休めようと思っていたら、子供がこんなに大きくなるほど時間が経っていたなんて気がつきませんでした。お前の用向きは私が何とかしてあげましょう。」
と犀竜は言った。そして、犀竜は自身が諏訪湖の女神・八須良姫で、小太郎の父親は諏訪湖の神・八須良雄だと教えてくれた。八須良雄は白い龍だと言う。
「私と夫は、役の行者という悪者と戦って、瀕死の重傷を負ったのです。この行者が神々の神域に入り込んで、修行する、と言っては荒らし回るので追い出そうとしました。でも、良く話してみたら少しは話が分かるところもあったので、神域を大きく荒らさないことを約束させて戦いをやめることにしたのです。傷ついたお父さんは、飯山の白龍湖で今も体を休めています。私は具合が良くなったから、川の流域を平地として、人が住める里にしましょう。」
と犀竜は言った。小太郎は犀竜に乗って山清路の巨岩や久米路橋の岩山を突き破り、日本海へ至る川筋を作った。仕事が終わると、母の犀竜はまた水底の住処へと帰っていった。小太郎と人々は、久米路橋のほとりに、「小太郎神神社(彦神別神神社)」を作って母の八須良姫を祀った。白龍湖の近くにも「小太郎神神社(彦神別神神社)」を作って父の八須良雄を祀った、小太郎は箱清水という所に住んで、「小太郎神神社(彦神別神神社)」を作り、自分がそこの彦神別神という神様になった。彼らの神社は水内大社と呼ばれ、朝廷からも篤い尊敬を受けた。
でも、役の行者とその仲間たちは、小太郎一家を恨んでいたので、こっそり八須良雄を「八面大王という盗賊だ。」とか、八須良姫を「鬼女紅葉だ。」と悪口を言って言いふらしたので、小太郎の両親は今ではそっちの名前の方が有名になってしまったのだった。
再現神話の解説[編集]
そもそも怠け者の小太郎が、開拓事業なんかするはずがない、ということで、「開拓」の話そのものが、子孫のお手盛り感が強い創作神話だと管理人は感じる。犀龍女神の開拓神話は、その子孫を名乗る皆様が、犀川流域の土地の利権を独占するために
「全部うちの先祖が開拓した」
と言いたくて、お手盛りで作ったのが泉小太郎神話と考える。
特に、泉小太郎については、元は「エンリルとニンリル」的な女神が夫の後を追って冥界に向かうタイプのメリュジーヌ譚で、ミャオ族の神話で言うところのチャンヤン神話と考える。そこに犬祖神話が微妙に組み合わされている。
「竜女神は夫が死んだので、彼を生まれ変わらせるために殺されて冥界で子を産んだ。生まれた子供は山に捨てた。そして更に子供の養母(犀竜女神の別形態)は死んだ(あるいは息子に焼き殺された)。実の母親は子供に龍玉を与えるためにたまに黄泉の国から戻ってきた。」
という話が元にあったと思われる。小泉小太郎についても同じ。子供が養父を焼き殺す、とすると朝鮮の伝承「龍女」に近い話になる。これがもっと民間伝承化したらいわゆる「子育て幽霊」になると思われる。母親は元は「飴を買いにくる」のではなく「捨てた子供に飴(玉)を渡しに来る」というのが本来の神話だ。これは疫神である子供を鎮める効果もあるし、龍玉の能力(財産や権力を)を子供に譲る、という意味でもあると考える。日本神話では、天照大御神が父親から首飾りを譲られる、という話がある。泉小太郎では、母親は玉を渡しに来るだけでなく、「犀川流域の開拓まで子供のために行う」という内容に中身が拡張されている。
「生まれた子供を捨てる。」というモチーフは北東アジアの犬祖神話に多く見られ、燕や朝鮮などの王家の始祖神話にみられる。日本では賀茂系氏族の始祖神話に見られる。本来、犬神の元は犬をトーテムに持っている黄帝のこと、龍神といったら蛇をトーテムに持っている伏羲・女媧のこと、あるいは水神で龍でもある黄帝のこと、なのだけれども、北東アジアでは、女媧型の女神が、「犬神の妻」扱いされる神話が多いように思う。
小泉小太郎を信用しなかった養母が薪で殺されてしまうのは、「焼き殺された」の暗喩と思われる。でも管理人は安易に殺す話は嫌いなので、「薪が良く燃える薪だった」という表現に改めた。これは小泉小太郎が元は火神の祝融でもあったことを示すためのものだ。「刺す住職」とはチャンヤン神話の蛾王のことで、小泉小太郎の父の白龍の別の姿かもしれない、ともいえる。殺された養母は犀竜の別の姿でもある。だから、管理人はその点をふまえて、養父母と犀竜・白龍は元は同じもの、という意味を込めて再現している。
泉小太郎が生まれた場所[編集]
泉小太郎が生まれた場所は筑摩郡中山の産ヶ坂、とされている。これは現在の松本市中山のこと。このあたりは、鉢伏山、高ボッチ山を挟んで山を越えると諏訪大社下社がある地域である。小太郎が母龍と再会したとされる尾入沢は中山から松本市を挟んで反対側の波田町に近い所にあるから、だいぶ産ヶ坂や諏訪大社からは離れている。尾入沢の付近には大宮熱田神社がある。犀川の主が住む場所としては、犀川の上流にある梓川沿いの尾入沢の方がふさわしいのだが、「諏訪の神」という点からいえば産ヶ坂(鉢伏山)の方が諏訪に近い。だけどこちらは犀川には遠い。いったい、どちらが犀竜の本当の住まいなのだろうか、ということになる。
鉢伏山は「頂上が鉢を伏せたように平らになっている」という意味から鉢伏山という、とされているようだ。松本市側の麓、中山に近い所に牛伏寺という真言宗智山派金峯山という古刹がある。この寺は鉢伏山などの近辺の山々の山岳信仰に関わっており、お寺の紋は上社の諏訪梶と思われる。でも、なぜ上社の紋が寺紋なのかしっかりとは明らかにされていないように思える。鉢伏山から諏訪方面に流れる横河川という川があるが、この川がつくる扇状地の扇頂部には出早雄小萩神社がある。こちらは下社の諏訪梶が神紋で、諏訪神の子神である出早雄命(いづはやをのみこと)と小萩命(こはぎのみこと)が祀られている。鉢伏山の山頂には諏訪湖の方を向いていくつかの石祠があり、「鉢伏大権現」「鉢伏太神」「小萩」「日本第一軍神」などの文字が解読できるとのこと[16]。鉢伏山の山頂には、現在は牛伏照寺の牛伏権現と称して蔵王権現を祀っていたとのことだが、かつては出早雄命(いづはやをのみこと)や小萩命(こはぎのみこと)が祀られていたのではないか、と管理人は考える。「鉢伏大権現」や「日本第一軍神」というのは、諏訪神か出早雄命のことではないだろうか。出早雄命の「いづ」とは「天津」が変形した言葉で、本来は「天津早雄命」というのではないか、と管理人は考える。「早」とは「伊農波夜」の言葉どおり、天甕津日女命の夫である出雲の犬神のことと考える。天甕津日女命を「厄払いの女神」とした場合、同じ性質を持つ男性の神で対になるのは大国主命なので、出雲の犬神「早」とは、出早雄命でもあり大国主命のことでもある、と管理人は考える。諏訪神を頂点とする諏訪信仰では大国主命も子神に編入されてしまうのだ。鉢伏山の山頂に、犬神・出早雄命が住んでいて、彼と諏訪湖の女神との子供が泉小太郎だから、小太郎は父の住む山の麓の中山で産まれたのではないだろうか、とまず管理人は考えた。犬神の子供だから、神話的なパターンにのっとって小太郎は産まれてすぐ捨てられてしまうのである。それは実は北東アジアでは「一国の王」の出生譚としても相応しい典型的な神話なのだ。
長野市信州新町竹房地区に八布施山という山があり、武八布施神社という神社がある。このあたりは古代において布制氏あるいは布施氏という氏族が活動した地域で、犀川から千曲川の東側を、竹房地区あたりから少なくとも小布施の辺りまで活動していたとみえる。この地域には布施氏の名前に由来する神社や地名がいくつもある。(松本市中山も犀川の東側といえば東側だ。)竹房地区には他に武富佐神社という神社があり、ここでは祭神の一柱に「速瓢(はやち)神」という名が見える。「速」という名があるので、これも出雲由来の犬神、すなわち大国主命のことと考える。「速瓢(はやち)」というのは「疾風(はやて)」のことでもあるのではないだろうか。駒ヶ根の光善寺ではこの犬神のことを「はやて」と読んで「早太郎」としているし、静岡の見付天神では「しっぷう」と読んで「しっぺい太郎」としているように思う。布施氏の祖神は大彦命で、この神の名の「大」を「多」とすれば、布施氏は多氏の一派といえるし、出雲的に「意宇」と読めば出雲の氏族ともとれる。意宇郡には布自奈神社という神社があり、大国主命(大穴持)を祀る。松本市の鉢伏山も元は、布施氏に由来する八布施山と言ったのではないだろうか。そして信濃布施氏は、犬神である大国主命を奉祭する氏族だったのではないだろうか、と管理人は考える。だから、松本の中山(鉢伏山)が小太郎の出生の地、であることを引用して、「小太郎の出生地は犀川沿いにある長野市信州新町の八布施山」というように書き換えてみた。そうすれば、諏訪からは遠いけれども、犀竜と夫の犬神が存在する地として相応しいと考えたからだ。どのみち彼らが活躍する場所は、山清路や久米路峡であって諏訪からは遠い地なのだから。
白龍とは何者なのだろうか[編集]
出雲の犬神の妻である天甕津日女命には、犬神でもある大国主命の他に、阿遅鉏高日子根という夫がいる。賀茂系氏族や、多氏の一派である信濃金刺氏の祖神としては大国主命よりは、阿遅鉏高日子根の方が「小太郎の父親」として相応しいのだが、小太郎の物語では、父親とされる白龍は大国主命とした方が良いのか、阿遅鉏高日子根した方が良いのか、まず迷う。ただ「白龍」と名前に白がつく点は、大国主命や、その長野県での分身ともいえる諏訪神を連想させる。賀茂系の神のイメージカラーは八咫烏に代表されるように「黒」なのだ。
尾入沢について[編集]
そこで、小太郎の母が住んでいた、とされた尾入沢に注目してみた。尾入沢の近傍には大宮熱田神社がある。こちらは祭神の中に尾張氏の女神である宮簀媛(みやずひめ)を祀る。日本武尊の妻であり、「布をさらした女神」とされる。要は「布の穢れを払ってきれいにする女神」であって、厄払いの女神の一種である。この女神は熱田神宮から西では夫の形見といえる草薙剣を祀る女神とされているのだが、長野県では女神の取り扱いが異なるように感じる。駒ヶ根市の大御食神社では五郎姫として祀られていて、柳田国男の述べるところの「御霊」として祀られているのだ。御霊信仰とは非業の死を遂げた人物を祀ることで、そのパワーを分けてもらって利用しよう、という感じの信仰だ。宮簀媛の正式な伝承では、非業の死を遂げたことになっていないが、『倭建命は比売の月の障りをおして交わった』という逸話があるので、本来はそれに続いて、
宮簀媛は経血とか、見られたくないものを日本武尊に見られてしまって、恥ずかしくて死んだ
という話があったのかもしれない。そして媛の加護が亡くなったので、疫神と戦った日本武尊は負けて病気になってしまったのではないだろうか。でも、そうすると日本武尊の死後、宮簀媛が草薙剣を祀った、とすることができなくなるので、宮簀媛が亡くなるくだりは後に削除されてしまったのではないか、と思う。でも長野県の方では「死んでしまった女神」という概念が残ったものと思われる。
愛知県一宮市に阿豆良神社という神社があり、天甕津日女命を祀る。天甕津日女命も厄払いの女神の一種である。この阿豆良という言葉からかなり多くの女神が派生しているのではないか、と管理人は考える。
- 伊豆能売のように「伊豆」に近い言葉がつく女神
- 速佐須良比売神(はやさすらひめのかみ):祓戸の女神
- 宮簀媛(みやずひめ、「御やずひめ」という意味か)
- 八須良姫命(やすらひめのみこと)
- 須勢理毘売(すせりびめ)
- 八坂刀売?
などである。八須良姫命は長野市信州新町の彦神別神社の境内内にある伊勢社に、天照大御神、伊豆玉姫命と共に祀られている。太陽女神信仰と関連する女神と考えられる。八坂刀売の名前には、単に阿豆良に関連するだけでなく、「坂」という言葉が「黄泉比良坂」に通じ、冥界神だったり、「酒解」という言葉に通じて酒作りの女神だったり、という意味も含まれると考えるが、それ以外の女神たちは、おおむね厄払いの女神の一種と考える。
管理人が思うに、尾入沢のあたりには、元々誰か若い女性が入水して亡くなった、とか蛇女がいて退治された、とかそのような伝承があったのではないだろうか。(もし、なくても作れば良いだけのことであるが。)それに宮簀媛を当てはめて、いかにも「宮簀媛が犀竜である。」と人々が思うように話を作りたかったのではないか、と思う。その場合、梓水大神を父とすれば、小太郎はまさに梓川の化身となって、下流の犀川を開拓するに相応しい神になり得る。梓川流域には龍神伝説があり、上流の乗鞍高原から諏訪湖まで巨大な龍の体が続いている、と言われている。もしかしたら、最初は小太郎の話は安曇族の伝承であって、彼らは小太郎を梓水大神と宮簀媛(北信濃では八須良姫命)のような女神の子としたかったのが、時代が下るにつれて犀川流域を諏訪大社下社に縁のある金刺氏が支配するようになったので、「小太郎は諏訪湖の神の子」として、彦神別神の化身に見えるように設定が変えられたのではないかと思う。そこで、小太郎が産まれたのは諏訪湖の近くなのに、母と再会したのは安曇野とか、母龍が諏訪神とか、なんだか設定に不自然さが出てしまっているのではないか、と思う。そして、父親の「白龍」というのが、本来は梓水大神だったとしても、長野県の宗教事情からして、それは出雲系の神であろうし、諏訪神でなければ、その父神の大国主命であっても不自然ではないと思う。管理人の考えでは、宮簀媛が天甕津日女命と同じ女神であれば、出雲で「厄払いの神」として天甕津日女命と対、すなわち夫婦と考えられるのは大国主命なので、日本武尊も大国主命の一形態なのだ。安曇野系の梓水大神を父としても、諏訪系の犬神を父としても、どちらも元は大国主命であるなら、「白龍」は大国主命である、として良いと思うのだ。
白龍大権現[編集]
ちなみに管理人は、長野市辺りでは白龍大権現が祀られているのをあまり見たことがない。調べてみると長野市田子に「白龍大権現堂」というものがあるので、長野では修験道系の神なのか、という感がする。ただ、京都府向日市にある向日神社、愛知県名古屋市にある伊奴神社は、元は治水の神である犬神を祀っていたと思われるのだが、そのいずれにも境内内に白龍が祀られているので、犬神に変わって白龍が水神の代替的地位にいるかもしれない、とは思う。そうすると、信濃の白龍も「犬神の代替」としての意味があるかもしれない、と思うのだ。
飯山の彦神別神社[編集]
長野市信州新町の彦神別神社に八須良姫命が祀られているのと対になる形で、飯山市の彦神別神社の相殿には八須良雄命(やすらをのみこと)という神が祀られている。この辺りは小菅神社があって、古来より修験道が盛んであった。
ちなみに長野市信州新町には皇足穂命神社がある。これは古くは山穂刈という地区にあったが、天災で壊滅したため、里穂刈に移したと言われている。山岳修験道の神社であって、穂刈には摩多羅神を思わせる又田羅という地名もある。一方、飯縄山修験道は、1233年(天福元年)信濃国荻野(信州新町)の地頭である伊藤兵部太夫豊前守忠綱が、飯縄大明神のお告げにより入山し、山頂に飯縄大権現を勧請した、とされており、飯縄神社は現在皇足穂命神社と呼ばれているので、もしかしたら信州新町の皇足穂命神社が飯縄神社の前身ではないか、と管理人は考える。山穂刈の神社は現在は豊受神社と称し、豊受姫命が主祭神とされているようだが、天照大御神、大己貴命も祭神である。飯縄神社の祭神は、意富斗能地神、大斗乃弁神とする兄妹神なのだが、意富とは意宇とも受け取れる。また斗とは管理人には「北斗の斗」のように思えるので、これを出雲の北斗女神である天甕津日女命とすると、その対神は大国主命なので、意富斗能地神とは大国主命のことなのではないのか、と感じられる。とすれば、飯縄修験道の完成形ともいえる戸隠修験道は、「戸隠」とはそもそも「斗隠」という意味であり、主祭神の天手力雄命が大国主命、九頭竜女神が対神の天甕津日女命のことなのではないか、と思えるくらいである。九頭竜女神が天甕津日女命と同じ女神であって、北斗女神でもあり、太陽女神でもあるなら、戸隠神社の祭神は、北斗の神である大国主命と、北斗の女神である天照大御神とも言い換えることができるのではないだろうか。戸隠は大国主命と天照大御神を隠して祀っている神社だったのである。その起源は信州新町にあったのだった。信州新町津和・山穂刈では、皇足穂命神社(現豊受神社)に大国主命と天照大御神、近戸皇大神社に建甕槌神と天照大御神を祀っており、これは出雲における「犬神と天甕津日女命」・「阿遅鉏高日子根神と天甕津日女命」の組み合わせに対応するといえる。
それはともかく、八須良雄命とは、その名の通り「厄払いの神」と考えられ、八須良姫命と対応するのであれば、大国主命のこと、と言わざるをえない。また小菅神社の近くには白竜湖という湖があるが、須坂市高梨には、これといった湖がない。かつて須坂・中野に拠点のあった高梨氏は飯山市の近くまで領地があったそうなので、小太郎伝説に出てくる白龍が滞在している湖は、「高梨氏の領地の湖」という意味で、飯山の白竜湖でも良いと思うのだ。そして、白龍が水神でもある大国主命(犬神)であるならば、それに対応するのは八須良雄命ともいえる。飯山の八須良雄命が安曇野と関係するのか、といえば、関係する、と管理人は考える。
小菅神社方面から、斑尾山の南を回って信濃町に向かい、そこから戸隠方面に向かう古来からの街道がある。古くは修験道の行者が使用した道と考える。戸隠から鬼無里・信州新町方面へ向かえば、鬼無里から安曇野に抜けられるし、信州新町からは東信の丸子町方面へ抜ける道がある。修験道の道は山間部の中を網の目のように広範囲に広がっている。行者たちの力を借りれば、飯山の八須良雄命を八面大王に変換して安曇野まで運ぶなどたやすいことなのだ。
大洪水の再現[編集]
小太郎と母龍が、川が流れている狭い渓谷を掘削したら、それまで溜まっていた水がどっと下流に流れ出ることは明らかだ。古代の人でもそのくらいのことは理解していたと思う。そうすれば下流でで洪水が起きることは必須だ。これは伏羲・女媧の神話の大洪水になぞらえた話でもあるし、小太郎自身が「大洪水を起こす神」としても表されているように思う。これは、「自分に従わなかったら大洪水を起こすぞ。」という支配者の理論にも通じないだろうか。疫神でもあり、支配者層の祖神でもあった小太郎の一面が垣間見えるような思いがする。
八須良雄命と八面大王[編集]
そもそも、「八須良雄命(やすらおのみこと)」と読んだ時点で「あれ?」と思う管理人である。「やすら」を「やつら(八面)」としたら、八面大王になるんじゃないのか、と思うのだ。ということは、八面大王の妻と言われる鬼女・紅葉は八須良姫命のことと言うしかない。大国主命と天照大御神をそんな風に変えてしまっていいのか? と思う。
それはともかく、全体から見て、健御名方富命彦神別神社は犀川流域にあり、信濃金刺氏が建立した「水内大社」と呼ばれる神社であったことは間違いない。祭神の中に信濃金刺氏の祖神も含まれている。また長野市箱清水の健御名方富命彦神別神社は、かつては善光寺とほぼ一体化していた。善光寺は一番最初は現在の長野県飯田市に建立され、その後諏訪に移り、最終的に長野市に落ち着いた寺である。長野県内の金刺氏の拠点を転々としている点から、これも金刺氏が建立した寺と考えられる。このように犀川流域は北信濃の金刺氏の一大拠点だった。泉小太郎が龍神を両親に持つ半人半神の存在ならば、この話は元は重要氏族の祖神神話だった可能性が高く、その主な活動範囲が山清寺よりも北の、かつての「水内郡」だったならば、これは金刺氏の祖神神話が民間伝承化したもの、と考えざるをえない。
もしかしたら、信濃金刺氏と諏訪大社は、古くは愛知県の尾張氏と同族であることを示すため、阿須良女神にちなんで、八須良姫命と出早雄命(犬神)、八須良雄命を祀り、上社では八須良姫命と出早雄命(犬神)、下社では八須良姫命と八須良雄命を祭神としていたのではないか、と考える。これは出雲における天甕津日女命と犬神(大国主命)、阿遅鉏高日子根神に相当する。出雲では犬神(大国主命)が、阿遅鉏高日子根神の名を思わせる蘆高神社に祀られているので、そもそも犬神(大国主命)と阿遅鉏高日子根神も元は「同じ神」と考える。
北東アジアの各地の神話を比較検討するに、王家の祖神としては中国神話における祝融に相当する神が充てられているように思う。この祝融は伝承によっては、黄帝と父子と受け取れる伝承がある火神であり、かつ黄帝と戦う神でもある、という複雑な神だ。そのため、この神を始祖とすると、その父は黄帝に相当する神になるのだが、敵が存在する場合には、その敵も黄帝に相当する神になるため、祝融的な神は、神話としては父を敬う神になるのか、父を殺す神になるのか、敵に相当するものを父神とは分けて別の形の怪物にでもしてしまうか、ともかく国主の祖神に相応しくある程度のモラル感、ある程度の勇猛さ、ある程度の寛大さ、ある程度の謙虚さ、ある程度の公僕感をもたせて、かつ整合性のある神話を語るのに、非常に苦労する神なのだ。それに併せて、父とされる黄帝的な神も、偉大なる帝王である善神の黄帝から、英雄に倒される怪物的悪神まで、非常に性質の振り幅が大きい神となっている。中国神話の段階からすでにそうなっており、悪神的な黄帝は遅くとも良渚文化の頃には登場していたと思われる。
大国主命は日本神話における黄帝的な神である。国を統一し、開拓した神として描かれる。しかし、中国神話の黄帝になぞらえている部分が多い神なので、やはり善神から悪神まで性質の振り幅が大きい神なのだ。出雲神話に八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)という神がいて、力持ちの巨人神である。管理人はこの神も大国主命の一形態と考えているし、長野県の八須良雄命と近縁姓の高い神ではないか、と考えている。なぜ八束水臣津野命に似た神が当初、信濃金刺氏の祖神とされたのか、その理由は諏訪の縄文系の人々の間にダイダラボッチという巨人神が信じられていたため、彼らになじみやすいように似た神を祖神に設定したのではないか、と思う。
しかし、その後、国全体の氏族の神話がまとめられていく中で、信濃金刺氏は賀茂系氏族ではなく、神八井耳命を祖神として天皇系の系譜に連なる氏族とすることにしたため、尾張物部氏に通じる八須良姫命と八須良雄命は諏訪大社の祭神から外されてしまったのではないかだろうか。上社の方は、出雲の大国主命に連なる系譜の建御名方富命を祭神に採用して、出雲の神々との繋がりを残し、下社の方は八須良姫命を八坂刀売と変えて、これを安曇族の神である穂高見命の妹神へと再編しなおした。下社の女神も当初は八須良姫命や宮簀媛のような尾張物部氏系の女神だったものが、政治的状況の変化により豊玉毘売のような安曇族系の女神に変えたと思われる。というよりも、諏訪下社系の信仰では、豊玉毘売がそのまま八坂刀売の別形態のように扱われる傾向がある。記紀神話では豊玉毘売は天皇家の先祖に嫁いだかのような設定になっているが、長野県ではこれとは異なる取り扱いをしているように思う。
そして、信濃金刺氏の祖は、神八井耳命の子孫の武五百建命として、諏訪大社の神々の子孫の位置から外し、その妻に諏訪系の女神として諏訪神の娘神とされる会津比売を据えることで、諏訪大社との繋がりを示すこととなったと思われる。水内大社の「彦神別神」は当初、古い諏訪神である八須良雄命の子神とされ、次に建御名方富命の子神とされて金刺氏の祖神とされていたものが、神々の系譜の再編の中で、うまく神八井耳命の子孫として再編することができなかったか、あるいは意図的に再編しなかったかして、「金刺氏が奉祭する諏訪神の子神」という曖昧な地位に置かれることになったと思われる。民間伝承化した小泉小太郎の方は、政治的都合で系譜が再編されることなく、竜女神的な八須良姫命と竜神かつ犬神的な水神白龍(八須良雄命)の子神として語りつがれたのだと思う。これはまさに彦神別神の神話が民間伝承化したものと管理人は考える。そのため、管理人が再現した神話ではそのような設定にしてみた。
だいたい、小太郎が信濃金刺氏の祖神神話の民間伝承化したものだからこそ、安曇野や東信といった離れた地域に似た名前の伝承があるのだと考える。金刺氏が長野県中に展開して東信にも存在したからだ。東信の小太郎が、山中の「荻」を刈ってしまうのは、神話的にはかなり「ご愛嬌」の部類だと思う。長野市信州新町の古名は「荻野」といって、この辺りも北信の金刺氏の拠点だったので、同族といえど、東信の金刺氏には、北信の金刺氏に対して、かつて何か心情的に面白からざることがあって、「荻に象徴される連中など山中から消えてしまえばいいのに。」と思ったことがあったのかもしれないと想像してしまう。いわば「呪い」のようなものにも感じる。長野県の歴史を見ると、管理人があれこれ想像することはあるが、それは泉小太郎とは直接関係ないので、ここには書かない。
修験道との関わりについて[編集]
管理人が再現した泉小太郎の両親は、「悪者の役行者と戦った」という設定にしてみた。長野市大岡に樋知大神社(ひじりだいじんじゃ)という神社がある。この神社がある聖山も古来より修験道の盛んな山で、当初は「高梄(こうゆう)の山」と呼ばれたとのことだ。「梄」という言葉には「たきぎ。かがりび。木を積んで燃やす。柴をたいて天の神をまつる。また、その祭礼。」という意味だそうなので[17]、かつては何か火を燃やすような祭祀を行う聖なる山だったのかと思う。聖山は水源の山でもあって、かつ雨乞いの山でもあった。樋知大神社の境内内には、お種池(田苗池・種苗池)と呼ばれる湧き水の池があり、干ばつの際には大岡地区ばかりでなく、長野市川中島や篠ノ井、東筑摩郡筑北村などからも人々が訪れ、雨乞いの祈願をしたといわれている[18]。樋知大神社の祭神は武水別命(たけみずわけのみこと)あるいは水波女命、水神系の神を祀る。武水別命は諏訪神の子神とされ、樋知大神社式内社・武水別神社の論社の一つである。樋知大神社の隣には真言宗宗高峰寺という寺があり、明治維新までは聖大権現として神を祀り、紀州・熊野権現から水玉(水器)をいただき、社僧・神職と共に奉仕していた[19]。
雨乞いの際に、現代でも
石祠の周りを冷水に耐えて歩き、水を濁すと滋雨が降るといわれている。雨が降ったときに池の水が濁ることが由来だそう。儀式では代表者が石祠に御神酒を注ぎ、周囲を3回まわりながら棒で池底をつついて水を濁す。[20]
という祭祀を行っているとのことである。賀茂系の日本人は、三輪山伝承とか、玉依姫の婚姻譚とか「つつく話」が好きだなあ、と思う。かつてなにがしかの火を燃やす祭祀も山で行っていたのであれば、この雨乞いの祭祀は下社のお船祀りに類する祭祀がよくよく簡略化されたものと考える。「雨乞い」という観点からは、やはり干ばつを起こす疫病神を慰撫して鎮める、というものであると思う。「石祠に御神酒を注ぐ」点は、黄帝の一形態である羿に祝融に相当する息子が酒を飲ませて殺した宴の再現劇、「周囲を3回まわる」のは祝融の一形態である伏羲が、妻を殺すために追い回した惨劇の再現劇、「池底をつつく」のは黄帝に殺された蚩尤を祝融に生まれ変わらせるための再現劇、また「池の水が濁る」というのは、伏羲と女媧の大洪水の神話の再現劇で、全体としては干ばつの神様に
「こうして生まれ変わらせてあげたのだから、祟らないでください」
という趣旨の祭祀と思われる。疫病神を生まれ変わらせたら逆に祟るのでは? と思うのだけれども、これが祖神の「彦神別神」でもあるので、慰撫した後にどこかに捨てに行こう、とかそういう発想はよくよく乏しいように思う。おそらく祭神の武水別命は、元は出早雄命かあるいは速瓢神といって、水神でもある犬神だったと思われる。水波女命を祭神とすれば、これは
「疫病神を生むために殺された女神」
となるので、趣旨としては犀龍と同じ女神といえる。聖山で燃やしていた薪が、正確には「何の薪」だったのかは分からない。柴などの薪であれば、犬神とその妻をばらして焼く火であったと思われる。小泉小太郎の伝承の通り、もし萩の薪だったりしたら「彦神別神」を頂く犀川西岸の荻野の金刺氏に対する嫌がらせといえる。聖山は犀川の東側にあって、古代においては東信の文化圏に入るので、山で何を燃やしたのかは気になるところである。
ということで、樋知大神社は最終的に真言宗高峰寺の管轄になり、祭祀も寺で行っていた。別に修験道の僧侶の皆様が悪い、とかそういうわけではないのだが、そうなることで古い時代の神々の本当の姿が減じたり、滅したりしたものがあるのではないか、と思う。仏教の影響がなければ、本来の犬神と龍女神の婚姻譚が池に残っていて、泉小太郎の伝承は聖山だけで完結してしまったのではないか、と管理人は考える。信州新町の側から見ると、この山にどのような状態で雲がかかるのかは天候の変化を知るための重要な情報なのだ。聖の山は降水を司る重要な山と考えられたので、そこに重要な祖神を祀ったのが、山の祭祀の起源ではなかったか、と考える。
また、松本市の鉢伏山もそうだが、牛伏寺のおかげで、山頂に祀られていた本来の神の名前や機能がかなり散逸しているように思う。伝承をあれこれ研究していると、元の神の姿が良く分からなくて「金峯山の蔵王権現が邪魔だ」と思うことは割と良くある。ということで、古い神々を散逸させてしまう、少し「悪い存在」として修験道の開祖・役行者を少し再現伝承に取り入れてみた。古い伝承を愛する管理人の個人的なささやかな恨みも込めて。
Appendix[編集]
ところで、泉小太郎が、彦神別神と同じものであるのは、ともかくとして、中国のミャオ族の伝承などと比較すると、泉小太郎は「何かの生まれ変わり」ということになるようである。一体何の生まれ変わりなのか。その内に考察してみたいと思う。
参考文献[編集]
- Wikipedia:小泉小太郎伝説(最終閲覧日:24-11-22)
- 「信濃の民話」編集委員会編『日本の民話 1 信濃の民話』未來社、1957年6月30日。
- 松谷みよ子著、坪田譲治〔等〕編『松谷みよ子全集 9 龍の子太郎』講談社、1971年[10月8日。
- 瀬川拓男・松谷みよ子編『日本の民話 4 民衆の英雄』角川書店、1973年5月30日。
- 松谷みよ子著『講談社現代新書 370 民話の世界』講談社、1974年10月28日。
- 鈴木重武、三井弘篤編『NDLDC:765132 信府統記 巻五』吟天社、1884年
- 降幡雎著『[NDLDC:765126 新撰仁科記』伊藤書店、1904年3月5日。
- 藤沢衛彦編著『NDLDC:953569 日本伝説叢書 信濃の巻』日本伝説叢書刊行会、1917年7月31日。
- 小県郡役所編纂『NDLDC:965787 小県郡史 余篇』小県時報局、1923年3月25日。
- 柳田國男著『NDLDC:1062590 桃太郎の誕』三省堂、1942年7月20日。
- 佐久教育会編『佐久口碑伝説集 北佐久編』佐久教育会、1978年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 泉小太郎(松本地域) - 長野県
- 電子紙芝居 小泉小太郎物語
- 塩田の里交流館(とっこ館)
- 民話の里おおまち小太郎
- 国立国会図書館のデジタル化資料:953569:日本伝説叢書. 信濃の巻
- 国立国会図書館のデジタル化資料:1018693:信濃の伝説
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 『小県郡史 余篇』NDLDC:965787/36 46 - 47ページ。
- ↑ 『小県郡史 余篇』NDLDC:965787/25 24 - 25ページ。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 『日本の民話 1 信濃の民話』175 - 183ページ。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 『講談社現代新書 370 民話の世界』37 - 38ページ。
- ↑ 『信府統記 巻五』[NDLDC:765132/26 23 - 24ページ]。
- ↑ 6.0 6.1 『新撰仁科記』9 - 10ページ。
- ↑ 『小県郡史 余篇』NDLDC:965787/36 47ページ(かっこ内は引用)。
- ↑ 『桃太郎の誕生』NDLDC:1062590/125 228ページ(かっこ内は引用)。
- ↑ 『講談社現代新書 370 民話の世界』39ページ(かっこ内は引用)。
- ↑ 『日本の民話 4 民衆の英雄』6 - 15ページ。
- ↑ かつて湖だった上田盆地を排水したという内容の民話は、ほかにも大ネズミが食い破ったという話(『日本伝説叢書 信濃の巻』[NDLDC:953569/106 157- [NDLDC:953569/107 159ページ)や、ダイダラボッチが突き崩したという話(『佐久口碑伝説集 北佐久編』105ページ)が伝えられている。
- ↑ 12.0 12.1 「小太郎と母龍」『まんが日本昔ばなし DVD第5巻』 (EAN:4988104066459) より。
- ↑ 『講談社現代新書 370 民話の世界』36 - 39ページ。
- ↑ 『松谷みよ子全集 9 龍の子太郎』170 - 171ページ。
- ↑ 『講談社現代新書 370 民話の世界』39 - 40、57 - 65ページ。
- ↑ 鉢伏山(岡谷市)、たてしなの時間(最終閲覧日:24-11-23)
- ↑ 漢字「梄」について、漢字辞典Online(最終閲覧日:24-11-25)
- ↑ 樋知大神社(ひじりだいじんじゃ)、ナガラボ(最終閲覧日:24-11-25)
- ↑ 樋知大神社、玄松子(最終閲覧日:24-11-25)
- ↑ 樋知大神社(ひじりだいじんじゃ)、ナガラボ(最終閲覧日:24-11-25)