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[[ファイル:Kavani_Logo.png|thumb|right|px|デラフシュ・カヴィアニ<br>[[wikipedia:Derafsh Kaviani|Derafsh Kaviani]]]]
「鍛冶師のカーヴェ」は「[[エスファハーン]]の鍛冶師」とか「[[エスファハーン]]のカーヴェ」として知られている。<ref>E. W. West.[http://books.google.com/books?id=XxAXFbaHQjsC&pg=PA50 Sad Dar].Kessinger Publishing.p.50.ISBN 978-1-4191-4578-0. Retrieved 8 September 2012.</ref><ref name="second">Muḥammad ibn Khāvandshāh Mīr Khvānd.[http://books.google.com/books?id=gDNAAAAAYAAJ&pg=PA130 History of the early kings of Persia: from Kaiomars, the first of the Peshdadian dynasty, to the conquest of Iran by Alexander the Great].Oriental Translation Fund of Gt. Brit. & Ireland. p. 130. Retrieved 8 September 2012.</ref><ref name="Malcolm1829">Sir John Malcolm.[http://books.google.com/books?id=pRHSgl-4WmwC&pg=PA13 The History of Persia: From the Most Early Period to the Present Time].Murray. p. 13. Retrieved 8 September 2012.</ref>カーヴェは、冷酷な異国の王[[ザッハーク]]に対する民衆の蜂起を指導したといわれる神話上の人物である。この物語は10世紀のペルシャの詩人[[フェルドウスィー]]による[[イラン]]の建国叙事詩「[[シャー・ナーメ]]」で語られている。<ref>この叙事詩は、[[ペルシア人]]の王朝である[[サーマーン朝]](873年~999年)の詩人[[フェルドウスィー]]が君主に捧げる目的で作製したものである。そのため、叙事詩は神話的時代の物語から、彼らが始祖の王朝と考える[[サーサーン朝]](226年~651年)へと続く構成になっており、必ずしも史実どおりの歴史が語られているわけではない。[[ペルシア人]]の王朝のための、[[ペルシア人]]の国家を正統化し、称えるための叙事詩といえよう。</ref>[[アヴェスター]]<ref>[[アヴェスター]]とは[[ゾロアスター教]]の根本経典であるが、散逸が激しく現在では当初の1/4程度しか残されていないと言われている。</ref>の伝承によると、[[ザッハーク]]、より正確に述べれば[[アジ・ダハーカ]]は、人間というよりは[[バビロニア]]から来た悪魔であった。[[フェルドウスィー]]はこの神話的人物を邪悪な専制君主として描き直している。<ref>「[[アヴェスター]]」の[[アジ・ダハーカ]]は悪神[[アンラ・マンユ]]の配下にある異形の竜の化け物とされている。一方、[[ザッハーク]]は両肩から蛇が生えている異形の王として描かれる。この王は一度は暴君を倒して国を救うが、両肩の蛇が毎日二人の生きた若者の脳みそを要求するため、国家は暗黒と絶望の国へと転落してしまう。この邪悪な王を倒したのが、[[シャー・ナーメ]]の英雄王[[フェリドゥーン]]とされているのである。</ref>
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「鍛冶師のカーヴェ」は「[[wikija:エスファハーン|エスファハーン]]の鍛冶師」とか「[[wikija:エスファハーン|エスファハーン]]のカーヴェ」として知られている。<ref>E. W. West.[http://books.google.com/books?id=XxAXFbaHQjsC&pg=PA50 Sad Dar].Kessinger Publishing.p.50.ISBN 978-1-4191-4578-0. Retrieved 8 September 2012.</ref><ref name="second">Muḥammad ibn Khāvandshāh Mīr Khvānd.[http://books.google.com/books?id=gDNAAAAAYAAJ&pg=PA130 History of the early kings of Persia: from Kaiomars, the first of the Peshdadian dynasty, to the conquest of Iran by Alexander the Great].Oriental Translation Fund of Gt. Brit. & Ireland. p. 130. Retrieved 8 September 2012.</ref><ref name="Malcolm1829">Sir John Malcolm.[http://books.google.com/books?id=pRHSgl-4WmwC&pg=PA13 The History of Persia: From the Most Early Period to the Present Time].Murray. p. 13. Retrieved 8 September 2012.</ref>カーヴェは、冷酷な異国の王[[wikija:ザッハーク|ザッハーク]]に対する民衆の蜂起を指導したといわれる神話上の人物である。この物語は10世紀のペルシャの詩人[[wikija:フェルドウスィー|フェルドウスィー]]による[[wikija:イラン|イラン]]の建国叙事詩「[[wikija:シャー・ナーメ|シャー・ナーメ]]」で語られている。<ref>この叙事詩は、[[wikija:ペルシア人|ペルシア人]]の王朝である[[wikija:サーマーン朝|サーマーン朝]](873年~999年)の詩人[[wikija:フェルドウスィー|フェルドウスィー]]が君主に捧げる目的で作製したものである。そのため、叙事詩は神話的時代の物語から、彼らが始祖の王朝と考える[[wikija:サーサーン朝|サーサーン朝]](226年~651年)へと続く構成になっており、必ずしも史実どおりの歴史が語られているわけではない。[[wikija:ペルシア人|ペルシア人]]の王朝のための、[[wikija:ペルシア人|ペルシア人]]の国家を正統化し、称えるための叙事詩といえよう。</ref>[[wikija:アヴェスター|アヴェスター]]<ref>[[wikija:アヴェスター|アヴェスター]]とは[[wikija:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]の根本経典であるが、散逸が激しく現在では当初の1/4程度しか残されていないと言われている。</ref>の伝承によると、[[wikija:ザッハーク|ザッハーク]]、より正確に述べれば[[wikija:アジ・ダハーカ|アジ・ダハーカ]]は、人間というよりは[[wikija:バビロニア|バビロニア]]から来た悪魔であった。[[wikija:フェルドウスィー|フェルドウスィー]]はこの神話的人物を邪悪な専制君主として描き直している。<ref>「[[wikija:アヴェスター|アヴェスター]]」の[[wikija:アジ・ダハーカ|アジ・ダハーカ]]は悪神[[wikija:アンラ・マンユ|アンラ・マンユ]]の配下にある異形の竜の化け物とされている。一方、[[wikija:ザッハーク|ザッハーク]]は両肩から蛇が生えている異形の王として描かれる。この王は一度は暴君を倒して国を救うが、両肩の蛇が毎日二人の生きた若者の脳みそを要求するため、国家は暗黒と絶望の国へと転落してしまう。この邪悪な王を倒したのが、[[wikija:シャー・ナーメ|シャー・ナーメ]]の英雄王[[wikija:フェリドゥーン|フェリドゥーン]]とされているのである。</ref>
  
古い伝承によると、中部[[イラン]]の[[エスファハーン]]出身の鍛冶師カーヴェは、二人の子供を[[ザッハーク]]の蛇のために失ったため、異国の邪悪な専制君主に対して国を挙げての反乱に乗り出した。<ref>Kaveh the Blacksmith, Persian Hero. Iran Daily. March 15, 2011. Retrieved 2012-09-08.</ref><ref name="GlasséSmith2003">Cyril Glassé;Huston Smith.[http://books.google.com/books?id=focLrox-frUC&pg=PA219|accessdate=8 The New Encyclopedia of Islam].Rowman Altamira. p. 219. ISBN 978-0-7591-0190-6. Retrieved 8 September 2012.</ref><ref name="second" /><ref name="Marashi2008">Afshin Marashi.[http://books.google.com/books?id=q0_vSbSidaQC&pg=PA78 Nationalizing Iran: Culture, Power, and the State, 1870-1940].University of Washington Press. p. 78. ISBN 978-0-295-98820-7. Retrieved 8 September 2012.</ref><ref name="Kashani-Sabet2000">Firoozeh Kashani-Sabet.[http://books.google.com/books?id=iyz9OXvSV6sC&pg=PA148 Frontier Fictions: Shaping the Iranian Nation, 1804-1946]. I.B.Tauris. p. 148. ISBN 978-1-85043-270-8. Retrieved 8 September 2012.</ref>カーヴェは異国の支配者を追い払い、純粋なイラン人による統治を再確立した。<ref name="Marashi2008" />
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古い伝承によると、中部[[wikija:イラン|イラン]]の[[wikija:エスファハーン|エスファハーン]]出身の鍛冶師カーヴェは、二人の子供を[[wikija:ザッハーク|ザッハーク]]の蛇のために失ったため、異国の邪悪な専制君主に対して国を挙げての反乱に乗り出した。<ref>Kaveh the Blacksmith, Persian Hero. Iran Daily. March 15, 2011. Retrieved 2012-09-08.</ref><ref name="GlasséSmith2003">Cyril Glassé;Huston Smith.[http://books.google.com/books?id=focLrox-frUC&pg=PA219|accessdate=8 The New Encyclopedia of Islam].Rowman Altamira. p. 219. ISBN 978-0-7591-0190-6. Retrieved 8 September 2012.</ref><ref name="second" /><ref name="Marashi2008">Afshin Marashi.[http://books.google.com/books?id=q0_vSbSidaQC&pg=PA78 Nationalizing Iran: Culture, Power, and the State, 1870-1940].University of Washington Press. p. 78. ISBN 978-0-295-98820-7. Retrieved 8 September 2012.</ref><ref name="Kashani-Sabet2000">Firoozeh Kashani-Sabet.[http://books.google.com/books?id=iyz9OXvSV6sC&pg=PA148 Frontier Fictions: Shaping the Iranian Nation, 1804-1946]. I.B.Tauris. p. 148. ISBN 978-1-85043-270-8. Retrieved 8 September 2012.</ref>カーヴェは異国の支配者を追い払い、純粋な[[wikija:イラン|イラン]]人による統治を再確立した。<ref name="Marashi2008" />
  
多くの人が[[アルボルズ山脈]]の[[ダマーヴァンド山]]でカーヴェに従った。そこにはアーブティーンとファラーナクの息子[[フェリドゥーン]]が住んでいた。若い[[フェリドゥーン]]は[[ザッハーク]]に対する反乱のリーダーになることに同意した。[[ザッハーク]]はすでに首都を逃げ出しており、[[フェリドゥーン]]の軍隊に対する抵抗はわずかであった。[[フェリドゥーン]]は[[ザッハーク]]に捕らわれていた人々を全て解放した。カーヴェは[[イラン]]において他国の専制君主に抵抗した人物として、ペルシャ神話の登場人物の中では最も有名な存在なのである。暴政への抵抗と団結の象徴として、カーヴェは槍の上に鍛冶師の皮のエプロンを広げた「[[wikipedia:Derafsh Kaviani|デラフシュ・カヴィアニ]]」という紋章を掲げたとされている。<ref>この紋章は希に「[[ジャムシード|ジャムシード王]]の旗」「[[フェリドゥーン]]の旗」「王旗」と呼ばれることもあるようである。</ref>この旗は後に高価な宝石で飾られ、異国の侵略者との戦いにおける庶民の抵抗運動の象徴として用いられたのと同様に、[[ペルシア人]]の独立、暴政への抵抗、国土の回復の象徴ともされた。
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多くの人が[[wikija:アルボルズ山脈|アルボルズ山脈]]の[[wikija:ダマーヴァンド山|ダマーヴァンド山]]でカーヴェに従った。そこにはアーブティーンとファラーナクの息子[[wikija:フェリドゥーン|フェリドゥーン]]が住んでいた。若い[[wikija:フェリドゥーン|フェリドゥーン]]は[[wikija:ザッハーク|ザッハーク]]に対する反乱のリーダーになることに同意した。[[wikija:ザッハーク|ザッハーク]]はすでに首都を逃げ出しており、[[wikija:フェリドゥーン|フェリドゥーン]]の軍隊に対する抵抗はわずかであった。[[wikija:フェリドゥーン|フェリドゥーン]]は[[wikija:ザッハーク|ザッハーク]]に捕らわれていた人々を全て解放した。カーヴェは[[wikija:イラン|イラン]]において他国の専制君主に抵抗した人物として、ペルシャ神話の登場人物の中では最も有名な存在なのである。暴政への抵抗と団結の象徴として、カーヴェは槍の上に鍛冶師の皮のエプロンを広げた「[[wikipedia:Derafsh Kaviani|デラフシュ・カヴィアニ]]」という紋章を掲げたとされている。<ref>この紋章は希に「[[wikija:ジャムシード|ジャムシード王]]の旗」「[[wikija:フェリドゥーン|フェリドゥーン]]の旗」「王旗」と呼ばれることもあるようである。</ref>この旗は後に高価な宝石で飾られ、異国の侵略者との戦いにおける庶民の抵抗運動の象徴として用いられたのと同様に、[[wikija:ペルシア人|ペルシア人]]の独立、暴政への抵抗、国土の回復の象徴ともされた。
  
1920年には、カーヴェの名が、ペルシャ社会主義ソビエト共和国(ギーラーン共和国)の州旗に描かれた。<ref>これはイラン北部の[[ギーラーン州]]が[[ソビエト]]の支持を受けて[[イラン]]からの独立を目指し、1920年6月~1921年9月の間存在した短期の国家のことである。最終的には[[ギーラーン州]]は再び[[イラン]]に帰属することとなった。</ref><ref>[http://flagspot.net/flags/ir-shlvd.html Persia (Iran): Short-lived states].Flags Of The World. Retrieved 2012-09-08.</ref>
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1920年には、カーヴェの名が、ペルシャ社会主義ソビエト共和国(ギーラーン共和国)の州旗に描かれた。<ref>これはイラン北部の[[wikija:ギーラーン州|ギーラーン州]]が[[wikija:ソビエト|ソビエト]]の支持を受けて[[wikija:イラン|イラン]]からの独立を目指し、1920年6月~1921年9月の間存在した短期の国家のことである。最終的には[[wikija:ギーラーン州|ギーラーン州]]は再び[[wikija:イラン|イラン]]に帰属することとなった。</ref><ref>[http://flagspot.net/flags/ir-shlvd.html Persia (Iran): Short-lived states].Flags Of The World. Retrieved 2012-09-08.</ref>
  
メヘレガンは[[フェリドゥーン]]が[[ザッハーク]]に勝利したことを祝う祭であり、秋雨が降り始める時期に行われる。<ref>メヘレガンとは[[イラン]]の秋祭り(収穫祭)で、その起源は紀元前4世紀以前に遡る。</ref>
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メヘレガンは[[wikija:フェリドゥーン|フェリドゥーン]]が[[wikija:ザッハーク|ザッハーク]]に勝利したことを祝う祭であり、秋雨が降り始める時期に行われる。<ref>メヘレガンとは[[wikija:イラン|イラン]]の秋祭り(収穫祭)で、その起源は紀元前4世紀以前に遡る。</ref>
  
[[wikipedia:Hyrcania|ヒルカニア]]のカーレーン氏族は、自らをカーヴェの子孫と称していた。<ref>カーレーン氏族は[[パルティア]]時代から続く[[サーサーン朝]]の貴族であり、ヒルカニアを本拠地としていた。彼らの先祖は、本来は[[スキタイ]]系のパルニ氏族に属し、[[イラン]]北東の草原地域で遊牧生活を送っていたようであるが、[[アケメネス朝]]崩壊後に[[イラン]]を支配していた[[ギリシャ人]]の国家が弱体化すると、[[イラン]]への侵入を開始したようである。彼らが興した国家[[パルティア]]は、支配層と被征服民との階級差が明確であり、支配層は領地を経営しながら半遊牧的な生活を送っていた。</ref>
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[[wikipedia:Hyrcania|ヒルカニア]]のカーレーン氏族は、自らをカーヴェの子孫と称していた。<ref>カーレーン氏族は[[wikija:パルティア|パルティア]]時代から続く[[wikija:サーサーン朝|サーサーン朝]]の貴族であり、[[wikipedia:Hyrcania|ヒルカニア]]を本拠地としていた。彼らの先祖は、本来は[[wikija:スキタイ|スキタイ]]系のパルニ氏族に属し、[[wikija:イラン|イラン]]北東の草原地域で遊牧生活を送っていたようであるが、[[wikija:アケメネス朝|アケメネス朝]]崩壊後に[[wikija:イラン|イラン]]を支配していた[[wikija:ギリシャ人|ギリシャ人]]の国家が弱体化すると、[[wikija:イラン|イラン]]への侵入を開始したようである。彼らが興した国家[[wikija:パルティア|パルティア]]は、支配層と被征服民との階級差が明確であり、支配層は領地を経営しながら半遊牧的な生活を送っていた。</ref>
  
 
== 私的解説・「ペルシア人」について ==
 
== 私的解説・「ペルシア人」について ==
[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]](紀元前550年~330年)が[[マケドニア]]の[[アレクサンドロス3世]]に滅ぼされた後、現在の[[イラン]]の地には複数の国家が誕生しては、また消えていった。まずは、それを順を追って挙げていきたい。
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[[wikija:アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]](紀元前550年~330年)が[[wikija:マケドニア|マケドニア]]の[[wikija:アレクサンドロス3世|アレクサンドロス3世]]に滅ぼされた後、現在の[[wikija:イラン|イラン]]の地には複数の国家が誕生しては、また消えていった。まずは、それを順を追って挙げていきたい。
# [[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]](紀元前550年~330年):[[ゾロアスター教]]
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# [[wikija:アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]](紀元前550年~330年):[[wikija:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]
# [[マケドニア|マケドニア王国]](紀元前330年~312年):ギリシア的多神教
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# [[wikija:マケドニア|マケドニア王国]](紀元前330年~312年):ギリシア的多神教
# [[セレウコス朝|セレウコス朝シリア]](紀元前312年~63年)、[[アレクサンドロス3世]]の部下が興したギリシア人の国家:ギリシア的多神教
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# [[wikija:セレウコス朝|セレウコス朝シリア]](紀元前312年~63年)、[[wikija:アレクサンドロス3世|アレクサンドロス3世]]の部下が興した[[wikija:ギリシャ人|ギリシャ人]]の国家:ギリシア的多神教
## [[グレコ・バクトリア王国]](紀元前255年頃~130年頃)、[[セレウコス朝]]の弱体化により、現在の[[アフガニスタン]]北部、[[タジキスタン]]等のあたりに誕生したギリシア人の国家。:ギリシア的多神教
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## [[wikija:グレコ・バクトリア王国|グレコ・バクトリア王国]](紀元前255年頃~130年頃)、[[wikija:セレウコス朝|セレウコス朝]]の弱体化により、現在の[[wikija:アフガニスタン|アフガニスタン]]北部、[[wikija:タジキスタン|タジキスタン]]等のあたりに誕生した[[wikija:ギリシャ人|ギリシャ人]]の国家。:ギリシア的多神教
# [[パルティア]](紀元前247年頃~後228年)、[[イラン]]北東部から[[wikipedia:Hyrcania|ヒルカニア]]にかけて興った、[[スキタイ]]系遊牧民の国家。[[セレウコス朝]]の弱体化により、[[グレコ・バクトリア王国|バクトリア王国]]の辺縁地域に侵入定住し、そこから更に南下して[[イラン]]に侵入してきた。ギリシア文化は保護した。:[[ゾロアスター教]]、[[ミトラ教]]、ギリシア的多神教
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# [[wikija:パルティア|パルティア]](紀元前247年頃~後228年)、[[wikija:イラン|イラン]]北東部から[[wikipedia:Hyrcania|ヒルカニア]]にかけて興った、[[wikija:スキタイ|スキタイ]]系遊牧民の国家。[[wikija:セレウコス朝|セレウコス朝]]の弱体化により、[[wikija:グレコ・バクトリア王国|バクトリア王国]]の辺縁地域に侵入定住し、そこから更に南下して[[wikija:イラン|イラン]]に侵入してきた。ギリシア文化は保護した。:[[wikija:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]、[[wikija:ミトラ教|ミトラ教]]、ギリシア的多神教
# [[サーサーン朝|サーサーン朝ペルシャ]](226年~651年)、[[ファールス州|パールス地方]]の[[ゾロアスター教]]の神官階級より発生した。国教は[[ゾロアスター教]]で[[マニ教]]や[[仏教]]、[[ネストリウス派|ネストリウス派キリスト教]]などの新興宗教を排斥した。
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# [[wikija:サーサーン朝|サーサーン朝ペルシャ]](226年~651年)、[[wikija:ファールス州|パールス地方]]の[[wikija:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]の神官階級より発生した。国教は[[wikija:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]で[[wikija:マニ教|マニ教]]や[[wikija:仏教|仏教]]、[[wikija:ネストリウス派|ネストリウス派キリスト教]]などの新興宗教を排斥した。
# [[正統カリフ]](イスラム共同体、651年~661年):以降[[イスラム教]]
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# [[wikija:正統カリフ|正統カリフ]](イスラム共同体、651年~661年):以降[[wikija:イスラム教|イスラム教]]
# [[ウマイヤ朝]](661年~750年)
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# [[wikija:ウマイヤ朝|ウマイヤ朝]](661年~750年)
# [[アッバース朝]](750年~1258年)
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# [[wikija:アッバース朝|アッバース朝]](750年~1258年)
## [[サーマーン朝]](873年~999年)、[[アッバース朝]]の元、[[イラン]]地方の[[イラン]]系太守が独立的に興した王朝
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## [[wikija:サーマーン朝|サーマーン朝]](873年~999年)、[[wikija:アッバース朝|アッバース朝]]の元、[[wikija:イラン|イラン]]地方の[[wikija:イラン|イラン]]系太守が独立的に興した王朝
## [[ガズナ朝]](955年~1187年)、[[サーマーン朝]]より半独立し、現在の[[アフガニスタン]]を中心に興った王朝
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## [[wikija:ガズナ朝|ガズナ朝]](955年~1187年)、[[wikija:サーマーン朝|サーマーン朝]]より半独立し、現在の[[wikija:アフガニスタン|アフガニスタン]]を中心に興った王朝
民族の興亡が激しい古代[[イラン]]において、[[アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]]が[[マケドニア|マケドニア王国]]に滅ぼされた後には、紀元前100年頃まで[[ギリシャ人]]の支配が続いていた。この[[ギリシャ人]]の王国群が弱体化した際に、[[イラン]]の北東部から[[スキタイ]]系の遊牧民が侵入を開始し、そこから興った王朝が[[サーサーン朝]]である。[[サーサーン朝]]は宗教的には[[アケメネス朝]]以来の伝統である[[ゾロアスター教]]を踏襲したが、[[アケメネス朝]]との文化的な連続性は乏しかったのではないかと思われる。[[スキタイ]]系民族の有力な家系であるカーレーン氏族は[[カスピ海]]の南岸にある[[wikipedia:Hyrcania|ヒルカニア]]を領有し、[[ゾロアスター教]]以前からの民族固有の神話を誇っていたと思われる。<br>
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民族の興亡が激しい古代[[wikija:イラン|イラン]]において、[[wikija:アケメネス朝|アケメネス朝ペルシャ]]が[[wikija:マケドニア|マケドニア王国]]に滅ぼされた後には、紀元前100年頃まで[[wikija:ギリシャ人|ギリシャ人]]の支配が続いていた。この[[wikija:ギリシャ人|ギリシャ人]]の王国群が弱体化した際に、[[wikija:イラン|イラン]]の北東部から[[wikija:スキタイ|スキタイ]]系の遊牧民が侵入を開始し、そこから興った王朝が[[wikija:サーサーン朝|サーサーン朝]]である。[[wikija:サーサーン朝|サーサーン朝]]は宗教的には[[wikija:アケメネス朝|アケメネス朝]]以来の伝統である[[wikija:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]を踏襲したが、[[wikija:アケメネス朝|アケメネス朝]]との文化的な連続性は乏しかったのではないかと思われる。[[wikija:スキタイ|スキタイ]]系民族の有力な家系であるカーレーン氏族は[[wikija:カスピ海|カスピ海]]の南岸にある[[wikipedia:Hyrcania|ヒルカニア]]を領有し、[[wikija:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]以前からの民族固有の神話を誇っていたと思われる。<br>
やがて[[イスラム教]]が興ると、[[イラン]]も中東の他の地域と同じく、広域に渡る「イスラム王朝」の支配下に入るが、紀元後873年に[[イラン]]地方の太守であった[[サーマーン朝]]が独立的な立場を手に入れ、そこで民族意識の高揚と共に誕生したのが、民族叙事詩「[[シャー・ナーメ]]」であると思われる。[[スキタイ]]系の古神話をイスラム時代に併せて「英雄叙事詩」として焼き直し、国家と民族の象徴としたのである。すなわち、この時代の「[[ペルシア人]]」の中核を成す人々は[[スキタイ]]系の血を引く人々で、彼らが[[サーサーン朝]]の時代と同様に国家の上層部に君臨していたのではないだろうか。<br>
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やがて[[wikija:イスラム教|イスラム教]]が興ると、[[wikija:イラン|イラン]]も中東の他の地域と同じく、広域に渡る「イスラム王朝」の支配下に入るが、紀元後873年に[[wikija:イラン|イラン]]地方の太守であった[[wikija:サーマーン朝|サーマーン朝]]が独立的な立場を手に入れ、そこで民族意識の高揚と共に誕生したのが、民族叙事詩「[[wikija:シャー・ナーメ|シャー・ナーメ]]」であると思われる。[[wikija:スキタイ|スキタイ]]系の古神話をイスラム時代に併せて「英雄叙事詩」として焼き直し、国家と民族の象徴としたのである。すなわち、この時代の「[[wikija:ペルシア人|ペルシア人]]」の中核を成す人々は[[wikija:スキタイ|スキタイ]]系の血を引く人々で、彼らが[[wikija:サーサーン朝|サーサーン朝]]の時代と同様に国家の上層部に君臨していたのではないだろうか。<br>
古代世界においては、各民族にそれぞれの太陽神かつ先祖の神が少しずつ異なった名前で存在し、有力な氏族の神が多神教かつ他民族世界の頂点に君臨するという構造が各地にみられたが、宗教として民族を越えた普遍的な[[イスラム教]]を受容する時代に入ると、古き神々は「人間の英雄先祖」として書き換えられた形で、民族の独自性を誇ることに使われるようになったのだと思われる。<br>
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古代世界においては、各民族にそれぞれの太陽神かつ先祖の神が少しずつ異なった名前で存在し、有力な氏族の神が多神教かつ他民族世界の頂点に君臨するという構造が各地にみられたが、宗教として民族を越えた普遍的な[[wikija:イスラム教|イスラム教]]を受容する時代に入ると、古き神々は「人間の英雄先祖」として書き換えられた形で、民族の独自性を誇ることに使われるようになったのだと思われる。<br>
鍛冶師のカーヴェ(Kaveh)は、名前からみて古代世界における「Ker-Bar」と呼ばれた太陽神から変化したもので、本来の名を非常に良く残した存在といえる。山を神聖視して「神の拠り所」的な扱いをしているところにも、古い時代の太陽信仰の名残が覗えると感じる。興味深いことは、この神の子孫がカーレーン氏族(Karen)と呼ばれることで、こちらには「蛇」を意味する「n」の子音が末尾に付加されている。「Ker-Bar」の神の子が「Kar-n」として、月であろうと太陽であろうと「蛇神」に変更されているのだが、これは古代世界の人々がどのようにして「Ker-Bar」の神を「蛇神」におきかえていったか、という過程の一つをかいまみることができるように感じる。この場合は「Ker-Bar」の子神が「蛇神」であるとして、神の名を書き換えると共に、かつてはそのようにして自らの蛇神信仰を正統化していた民族であったことが分かる。彼らが[[イラン]]全域に拡がり「[[ペルシア人]]」を自称するようになったので、その象徴が鍛冶師のカーヴェとされるようになったのであろう。要するに[[イラン]]の伝承における鍛冶神カーヴェの本来の姿は「[[スキタイ]]系パルニ氏族の祖神」であったと思われる。<br>
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鍛冶師のカーヴェ(Kaveh)は、名前からみて古代世界における「Ker-Bar」と呼ばれた太陽神から変化したもので、本来の名を非常に良く残した存在といえる。山を神聖視して「神の拠り所」的な扱いをしているところにも、古い時代の太陽信仰の名残が覗えると感じる。興味深いことは、この神の子孫がカーレーン氏族(Karen)と呼ばれることで、こちらには「蛇」を意味する「n」の子音が末尾に付加されている。「Ker-Bar」の神の子が「Kar-n」として、月であろうと太陽であろうと「蛇神」に変更されているのだが、これは古代世界の人々がどのようにして「Ker-Bar」の神を「蛇神」におきかえていったか、という過程の一つをかいまみることができるように感じる。この場合は「Ker-Bar」の子神が「蛇神」であるとして、神の名を書き換えると共に、かつてはそのようにして自らの蛇神信仰を正統化していた民族であったことが分かる。彼らが[[wikija:イラン|イラン]]全域に拡がり「[[wikija:ペルシア人|ペルシア人]]」を自称するようになったので、その象徴が鍛冶師のカーヴェとされるようになったのであろう。要するに[[wikija:イラン|イラン]]の伝承における鍛冶神カーヴェの本来の姿は「[[wikija:スキタイ|スキタイ]]系パルニ氏族の祖神」であったと思われる。<br>
また、もう一つ興味深いと感じる部分は「カーレーン氏族」という名である。[[古代エジプト]]の第2中間期(紀元前1782年頃~1570年頃)のあたりに[[パレスチナ]]方面から異民族の侵入と平行して、[[古代エジプト]]社会にもたらされた鷹の神はコロン(Choron)という。この神の名は「Ker-n」から変化したものと思われ、カーレーン氏族の名との間に連続性がみられる。要するに、第2中間期に[[古代エジプト]]に侵入した「[[ヒクソス]]」と呼ばれる人々と、[[スキタイ]]系遊牧民の氏族との間には、神の名に関して文化的連続性が認められると思われる。おそらく「カーレーン氏族」の先祖は、太陽神の子である「蛇の尾を持つ鷹神」だと彼らは考えていたのであろう。これが[[ゾロアスター教]]時代にはフラワシと習合し、[[イスラム教]]時代に入ると「民族の英雄」として焼き直されたのだと思われる。また、[[バビロニア]]の暴君との苛烈な戦いの神話は、古い時代に彼らの先祖が[[メソポタミア]]の勢力と激しい衝突を繰り返した事実を投影しているのではないだろうか。<br>
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また、もう一つ興味深いと感じる部分は「カーレーン氏族」という名である。[[wikija:古代エジプト|古代エジプト]]の第2中間期(紀元前1782年頃~1570年頃)のあたりに[[wikija:パレスチナ|パレスチナ]]方面から異民族の侵入と平行して、[[wikija:古代エジプト|古代エジプト]]社会にもたらされた鷹の神はコロン(Choron)という。この神の名は「Ker-n」から変化したものと思われ、カーレーン氏族の名との間に連続性がみられる。要するに、第2中間期に[[wikija:古代エジプト|古代エジプト]]に侵入した「[[wikija:ヒクソス|ヒクソス]]」と呼ばれる人々と、[[wikija:スキタイ|スキタイ]]系遊牧民の氏族との間には、神の名に関して文化的連続性が認められると思われる。おそらく「カーレーン氏族」の先祖は、太陽神の子である「蛇の尾を持つ鷹神」だと彼らは考えていたのであろう。これが[[wikija:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]時代にはフラワシと習合し、[[wikija:イスラム教|イスラム教]]時代に入ると「民族の英雄」として焼き直されたのだと思われる。また、[[wikija:バビロニア|バビロニア]]の暴君との苛烈な戦いの神話は、古い時代に彼らの先祖が[[wikija:メソポタミア|メソポタミア]]の勢力と激しい衝突を繰り返した事実を投影しているのではないだろうか。<br>
このような状況のため、おそらく「[[アヴェスター]]」における[[アジ・ダハーカ]]と「[[シャー・ナーメ]]」における蛇王[[ザッハーク]]の間には、直接の文化的連続性は乏しいのではないかと感じる。そのため、[[アケメネス朝]]時代の[[ゾロアスター教]]は、多宗教に対して寛容であったが、より排他的な蛇神と習合した[[サーサーン朝]]の[[ゾロアスター教]]は排他的な宗教へと変貌しているのではないだろうか。<br>
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このような状況のため、おそらく「[[wikija:アヴェスター|アヴェスター]]」における[[wikija:アジ・ダハーカ|アジ・ダハーカ]]と「[[wikija:シャー・ナーメ|シャー・ナーメ]]」における蛇王[[wikija:ザッハーク|ザッハーク]]の間には、直接の文化的連続性は乏しいのではないかと感じる。そのため、[[wikija:アケメネス朝|アケメネス朝]]時代の[[wikija:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]は、多宗教に対して寛容であったが、より排他的な蛇神と習合した[[wikija:サーサーン朝|サーサーン朝]]の[[wikija:ゾロアスター教|ゾロアスター教]]は排他的な宗教へと変貌しているのではないだろうか。<br>
また、国家の象徴とされる「デラフシュ・カヴィアニ」は[[アッカド]]の[[楔形文字]]においては[[パピルス]]を示す×と同じ形であり、蛇神信仰を思わせる紋としても興味深い。<br>
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また、国家の象徴とされる「[[wikipedia:Derafsh Kaviani|デラフシュ・カヴィアニ]]」は[[wikija:アッカド|アッカド]]の[[wikija:楔形文字|楔形文字]]においては[[wikija:パピルス|パピルス]]を示す×と同じ形であり、蛇神信仰を思わせる紋としても興味深い。<br>
また、蛇王[[ザッハーク]]を倒して王となった[[フェリドゥーン]]には「3人の息子がいて、その内の一人に中国を治めさせた」という伝承があり、遠い昔に彼らの同族が中国を支配した事実があったことの古い記憶が伝承の中に残されているのではないか、とそのようにも思うのである。
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また、蛇王[[wikija:ザッハーク|ザッハーク]]を倒して王となった[[wikija:フェリドゥーン|フェリドゥーン]]には「3人の息子がいて、その内の一人に中国を治めさせた」という伝承があり、遠い昔に彼らの同族が中国を支配した事実があったことの古い記憶が伝承の中に残されているのではないか、とそのようにも思うのである。
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
* [[蛇の尾を持つホルス:ヒエログリフ]]
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* [[wikib1:蛇の尾を持つホルス:ヒエログリフ|蛇の尾を持つホルス:ヒエログリフ]]
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* [[wikib1:リングと太陽の鳥|リングと太陽の鳥]]
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* [[クシュフ]]:[[wikija:ザッハーク|ザッハーク]]の起源について
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* [[ピレウス帽]]:カーヴェの起源についての考察
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* [[ヘバト]]:カーヴェという言葉の起源について
  
 
== 参照 ==
 
== 参照 ==
 
<references/>
 
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==External links==
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==外部リンク==
 
*[http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/36222/rec/1 A king's book of kings: the Shah-nameh of Shah Tahmasp], an exhibition catalog from The Metropolitan Museum of Art (fully available online as PDF), which contains material on Kaveh
 
*[http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/36222/rec/1 A king's book of kings: the Shah-nameh of Shah Tahmasp], an exhibition catalog from The Metropolitan Museum of Art (fully available online as PDF), which contains material on Kaveh
  
 
== 原文 ==
 
== 原文 ==
* [[Kaveh the blacksmith]]
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* [[wikipedia:Kaveh the blacksmith|Kaveh the blacksmith]]
  
 
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2014年4月29日 (火) 18:57時点における最新版

ペルシア人の移動経路
デラフシュ・カヴィアニ
Derafsh Kaviani

「鍛冶師のカーヴェ」は「エスファハーンの鍛冶師」とか「エスファハーンのカーヴェ」として知られている。[1][2][3]カーヴェは、冷酷な異国の王ザッハークに対する民衆の蜂起を指導したといわれる神話上の人物である。この物語は10世紀のペルシャの詩人フェルドウスィーによるイランの建国叙事詩「シャー・ナーメ」で語られている。[4]アヴェスター[5]の伝承によると、ザッハーク、より正確に述べればアジ・ダハーカは、人間というよりはバビロニアから来た悪魔であった。フェルドウスィーはこの神話的人物を邪悪な専制君主として描き直している。[6]

古い伝承によると、中部イランエスファハーン出身の鍛冶師カーヴェは、二人の子供をザッハークの蛇のために失ったため、異国の邪悪な専制君主に対して国を挙げての反乱に乗り出した。[7][8][2][9][10]カーヴェは異国の支配者を追い払い、純粋なイラン人による統治を再確立した。[9]

多くの人がアルボルズ山脈ダマーヴァンド山でカーヴェに従った。そこにはアーブティーンとファラーナクの息子フェリドゥーンが住んでいた。若いフェリドゥーンザッハークに対する反乱のリーダーになることに同意した。ザッハークはすでに首都を逃げ出しており、フェリドゥーンの軍隊に対する抵抗はわずかであった。フェリドゥーンザッハークに捕らわれていた人々を全て解放した。カーヴェはイランにおいて他国の専制君主に抵抗した人物として、ペルシャ神話の登場人物の中では最も有名な存在なのである。暴政への抵抗と団結の象徴として、カーヴェは槍の上に鍛冶師の皮のエプロンを広げた「デラフシュ・カヴィアニ」という紋章を掲げたとされている。[11]この旗は後に高価な宝石で飾られ、異国の侵略者との戦いにおける庶民の抵抗運動の象徴として用いられたのと同様に、ペルシア人の独立、暴政への抵抗、国土の回復の象徴ともされた。

1920年には、カーヴェの名が、ペルシャ社会主義ソビエト共和国(ギーラーン共和国)の州旗に描かれた。[12][13]

メヘレガンはフェリドゥーンザッハークに勝利したことを祝う祭であり、秋雨が降り始める時期に行われる。[14]

ヒルカニアのカーレーン氏族は、自らをカーヴェの子孫と称していた。[15]

私的解説・「ペルシア人」について

アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年~330年)がマケドニアアレクサンドロス3世に滅ぼされた後、現在のイランの地には複数の国家が誕生しては、また消えていった。まずは、それを順を追って挙げていきたい。

  1. アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年~330年):ゾロアスター教
  2. マケドニア王国(紀元前330年~312年):ギリシア的多神教
  3. セレウコス朝シリア(紀元前312年~63年)、アレクサンドロス3世の部下が興したギリシャ人の国家:ギリシア的多神教
    1. グレコ・バクトリア王国(紀元前255年頃~130年頃)、セレウコス朝の弱体化により、現在のアフガニスタン北部、タジキスタン等のあたりに誕生したギリシャ人の国家。:ギリシア的多神教
  4. パルティア(紀元前247年頃~後228年)、イラン北東部からヒルカニアにかけて興った、スキタイ系遊牧民の国家。セレウコス朝の弱体化により、バクトリア王国の辺縁地域に侵入定住し、そこから更に南下してイランに侵入してきた。ギリシア文化は保護した。:ゾロアスター教ミトラ教、ギリシア的多神教
  5. サーサーン朝ペルシャ(226年~651年)、パールス地方ゾロアスター教の神官階級より発生した。国教はゾロアスター教マニ教仏教ネストリウス派キリスト教などの新興宗教を排斥した。
  6. 正統カリフ(イスラム共同体、651年~661年):以降イスラム教
  7. ウマイヤ朝(661年~750年)
  8. アッバース朝(750年~1258年)
    1. サーマーン朝(873年~999年)、アッバース朝の元、イラン地方のイラン系太守が独立的に興した王朝
    2. ガズナ朝(955年~1187年)、サーマーン朝より半独立し、現在のアフガニスタンを中心に興った王朝

民族の興亡が激しい古代イランにおいて、アケメネス朝ペルシャマケドニア王国に滅ぼされた後には、紀元前100年頃までギリシャ人の支配が続いていた。このギリシャ人の王国群が弱体化した際に、イランの北東部からスキタイ系の遊牧民が侵入を開始し、そこから興った王朝がサーサーン朝である。サーサーン朝は宗教的にはアケメネス朝以来の伝統であるゾロアスター教を踏襲したが、アケメネス朝との文化的な連続性は乏しかったのではないかと思われる。スキタイ系民族の有力な家系であるカーレーン氏族はカスピ海の南岸にあるヒルカニアを領有し、ゾロアスター教以前からの民族固有の神話を誇っていたと思われる。
やがてイスラム教が興ると、イランも中東の他の地域と同じく、広域に渡る「イスラム王朝」の支配下に入るが、紀元後873年にイラン地方の太守であったサーマーン朝が独立的な立場を手に入れ、そこで民族意識の高揚と共に誕生したのが、民族叙事詩「シャー・ナーメ」であると思われる。スキタイ系の古神話をイスラム時代に併せて「英雄叙事詩」として焼き直し、国家と民族の象徴としたのである。すなわち、この時代の「ペルシア人」の中核を成す人々はスキタイ系の血を引く人々で、彼らがサーサーン朝の時代と同様に国家の上層部に君臨していたのではないだろうか。
古代世界においては、各民族にそれぞれの太陽神かつ先祖の神が少しずつ異なった名前で存在し、有力な氏族の神が多神教かつ他民族世界の頂点に君臨するという構造が各地にみられたが、宗教として民族を越えた普遍的なイスラム教を受容する時代に入ると、古き神々は「人間の英雄先祖」として書き換えられた形で、民族の独自性を誇ることに使われるようになったのだと思われる。
鍛冶師のカーヴェ(Kaveh)は、名前からみて古代世界における「Ker-Bar」と呼ばれた太陽神から変化したもので、本来の名を非常に良く残した存在といえる。山を神聖視して「神の拠り所」的な扱いをしているところにも、古い時代の太陽信仰の名残が覗えると感じる。興味深いことは、この神の子孫がカーレーン氏族(Karen)と呼ばれることで、こちらには「蛇」を意味する「n」の子音が末尾に付加されている。「Ker-Bar」の神の子が「Kar-n」として、月であろうと太陽であろうと「蛇神」に変更されているのだが、これは古代世界の人々がどのようにして「Ker-Bar」の神を「蛇神」におきかえていったか、という過程の一つをかいまみることができるように感じる。この場合は「Ker-Bar」の子神が「蛇神」であるとして、神の名を書き換えると共に、かつてはそのようにして自らの蛇神信仰を正統化していた民族であったことが分かる。彼らがイラン全域に拡がり「ペルシア人」を自称するようになったので、その象徴が鍛冶師のカーヴェとされるようになったのであろう。要するにイランの伝承における鍛冶神カーヴェの本来の姿は「スキタイ系パルニ氏族の祖神」であったと思われる。
また、もう一つ興味深いと感じる部分は「カーレーン氏族」という名である。古代エジプトの第2中間期(紀元前1782年頃~1570年頃)のあたりにパレスチナ方面から異民族の侵入と平行して、古代エジプト社会にもたらされた鷹の神はコロン(Choron)という。この神の名は「Ker-n」から変化したものと思われ、カーレーン氏族の名との間に連続性がみられる。要するに、第2中間期に古代エジプトに侵入した「ヒクソス」と呼ばれる人々と、スキタイ系遊牧民の氏族との間には、神の名に関して文化的連続性が認められると思われる。おそらく「カーレーン氏族」の先祖は、太陽神の子である「蛇の尾を持つ鷹神」だと彼らは考えていたのであろう。これがゾロアスター教時代にはフラワシと習合し、イスラム教時代に入ると「民族の英雄」として焼き直されたのだと思われる。また、バビロニアの暴君との苛烈な戦いの神話は、古い時代に彼らの先祖がメソポタミアの勢力と激しい衝突を繰り返した事実を投影しているのではないだろうか。
このような状況のため、おそらく「アヴェスター」におけるアジ・ダハーカと「シャー・ナーメ」における蛇王ザッハークの間には、直接の文化的連続性は乏しいのではないかと感じる。そのため、アケメネス朝時代のゾロアスター教は、多宗教に対して寛容であったが、より排他的な蛇神と習合したサーサーン朝ゾロアスター教は排他的な宗教へと変貌しているのではないだろうか。
また、国家の象徴とされる「デラフシュ・カヴィアニ」はアッカド楔形文字においてはパピルスを示す×と同じ形であり、蛇神信仰を思わせる紋としても興味深い。
また、蛇王ザッハークを倒して王となったフェリドゥーンには「3人の息子がいて、その内の一人に中国を治めさせた」という伝承があり、遠い昔に彼らの同族が中国を支配した事実があったことの古い記憶が伝承の中に残されているのではないか、とそのようにも思うのである。

関連項目

参照

  1. E. W. West.Sad Dar.Kessinger Publishing.p.50.ISBN 978-1-4191-4578-0. Retrieved 8 September 2012.
  2. 2.0 2.1 Muḥammad ibn Khāvandshāh Mīr Khvānd.History of the early kings of Persia: from Kaiomars, the first of the Peshdadian dynasty, to the conquest of Iran by Alexander the Great.Oriental Translation Fund of Gt. Brit. & Ireland. p. 130. Retrieved 8 September 2012.
  3. Sir John Malcolm.The History of Persia: From the Most Early Period to the Present Time.Murray. p. 13. Retrieved 8 September 2012.
  4. この叙事詩は、ペルシア人の王朝であるサーマーン朝(873年~999年)の詩人フェルドウスィーが君主に捧げる目的で作製したものである。そのため、叙事詩は神話的時代の物語から、彼らが始祖の王朝と考えるサーサーン朝(226年~651年)へと続く構成になっており、必ずしも史実どおりの歴史が語られているわけではない。ペルシア人の王朝のための、ペルシア人の国家を正統化し、称えるための叙事詩といえよう。
  5. アヴェスターとはゾロアスター教の根本経典であるが、散逸が激しく現在では当初の1/4程度しか残されていないと言われている。
  6. アヴェスター」のアジ・ダハーカは悪神アンラ・マンユの配下にある異形の竜の化け物とされている。一方、ザッハークは両肩から蛇が生えている異形の王として描かれる。この王は一度は暴君を倒して国を救うが、両肩の蛇が毎日二人の生きた若者の脳みそを要求するため、国家は暗黒と絶望の国へと転落してしまう。この邪悪な王を倒したのが、シャー・ナーメの英雄王フェリドゥーンとされているのである。
  7. Kaveh the Blacksmith, Persian Hero. Iran Daily. March 15, 2011. Retrieved 2012-09-08.
  8. Cyril Glassé;Huston Smith.The New Encyclopedia of Islam.Rowman Altamira. p. 219. ISBN 978-0-7591-0190-6. Retrieved 8 September 2012.
  9. 9.0 9.1 Afshin Marashi.Nationalizing Iran: Culture, Power, and the State, 1870-1940.University of Washington Press. p. 78. ISBN 978-0-295-98820-7. Retrieved 8 September 2012.
  10. Firoozeh Kashani-Sabet.Frontier Fictions: Shaping the Iranian Nation, 1804-1946. I.B.Tauris. p. 148. ISBN 978-1-85043-270-8. Retrieved 8 September 2012.
  11. この紋章は希に「ジャムシード王の旗」「フェリドゥーンの旗」「王旗」と呼ばれることもあるようである。
  12. これはイラン北部のギーラーン州ソビエトの支持を受けてイランからの独立を目指し、1920年6月~1921年9月の間存在した短期の国家のことである。最終的にはギーラーン州は再びイランに帰属することとなった。
  13. Persia (Iran): Short-lived states.Flags Of The World. Retrieved 2012-09-08.
  14. メヘレガンとはイランの秋祭り(収穫祭)で、その起源は紀元前4世紀以前に遡る。
  15. カーレーン氏族はパルティア時代から続くサーサーン朝の貴族であり、ヒルカニアを本拠地としていた。彼らの先祖は、本来はスキタイ系のパルニ氏族に属し、イラン北東の草原地域で遊牧生活を送っていたようであるが、アケメネス朝崩壊後にイランを支配していたギリシャ人の国家が弱体化すると、イランへの侵入を開始したようである。彼らが興した国家パルティアは、支配層と被征服民との階級差が明確であり、支配層は領地を経営しながら半遊牧的な生活を送っていた。

外部リンク

原文