「エラ」の版間の差分
(→関連項目) |
|||
(1人の利用者による、間の9版が非表示) | |||
8行: | 8行: | ||
|created:紀元前800年~612年 | |created:紀元前800年~612年 | ||
|- | |- | ||
− | |period:[[アッシリア#新アッシリア時代|新アッシリア時代]]<ref>[[イスラエル王国]]が滅亡したのはこの時代である。</ref> | + | |period:[[wikija:アッシリア#新アッシリア時代|新アッシリア時代]]<ref>[[wikija:イスラエル王国|イスラエル王国]]が滅亡したのはこの時代である。</ref> |
|- | |- | ||
− | |place:[[アッシュール]] | + | |place:[[wikija:アッシュール|アッシュール]] |
|- | |- | ||
− | |location:Room 55, [[大英博物館]],<br>London | + | |location:Room 55, [[wikija:大英博物館|大英博物館]],<br>London |
|- | |- | ||
|id:British-Museum-db 118998<br>id=369099 | |id:British-Museum-db 118998<br>id=369099 | ||
20行: | 20行: | ||
エラ([[wikipedia:Erra (god)|Erra]])(またはイラ)は、紀元前8世紀の「叙事詩」において、[[wikija:アッカド|アッカド]]の疫神とされている。<ref>エラは[[wikija:ネルガル|ネルガル]]の別名とされている。(「[[wikipedia:Nergal|ネルガル]]」より)</ref>また、エラは騒乱と疾病の神で、政治的混乱をもたらすとされている。「エラ」という現代的な題をつけた叙事詩の中の本文に続く奥付で、ダビビの子孫であると述べている作者のカビティ・イラニ・マルドゥクは、エラ自身がカビティに送った幻影の内に示した文章を、自分はただ書き連ねただけであると述べている。<ref>カビティ・イラニ・マルドゥクの名はランバートによって出版された[[wikija:アッシュールバニパルの図書館|アッシュールバニパル王の図書館]]の「文章と著者のカタログ」の中にも認められる。</ref> | エラ([[wikipedia:Erra (god)|Erra]])(またはイラ)は、紀元前8世紀の「叙事詩」において、[[wikija:アッカド|アッカド]]の疫神とされている。<ref>エラは[[wikija:ネルガル|ネルガル]]の別名とされている。(「[[wikipedia:Nergal|ネルガル]]」より)</ref>また、エラは騒乱と疾病の神で、政治的混乱をもたらすとされている。「エラ」という現代的な題をつけた叙事詩の中の本文に続く奥付で、ダビビの子孫であると述べている作者のカビティ・イラニ・マルドゥクは、エラ自身がカビティに送った幻影の内に示した文章を、自分はただ書き連ねただけであると述べている。<ref>カビティ・イラニ・マルドゥクの名はランバートによって出版された[[wikija:アッシュールバニパルの図書館|アッシュールバニパル王の図書館]]の「文章と著者のカタログ」の中にも認められる。</ref> | ||
− | 叙事詩は神への祈りから始まっている。エラは妻(母神マミとは異なる女神であると考えられている)と共に絶え間なく眠っている。しかし、エラは相談相手であるイシュムと、天と地の息子達であるシビッティ(またはセベッティ)<ref>[[wikija:ギリシア神話|ギリシア神話]]の中で[[wikija:ティーターン|ティーターン]]は「天と地の息子達」とされている。[[wikija:ギリシア神話|ギリシア神話]]における[[wikija:ティーターン|ティーターン]]は地底に封じ込められており、彼らが時々暴れると[[地震]] | + | 叙事詩は神への祈りから始まっている。エラは妻(母神マミとは異なる女神であると考えられている)と共に絶え間なく眠っている。しかし、エラは相談相手であるイシュムと、天と地の息子達であるシビッティ(またはセベッティ)<ref>[[wikija:ギリシア神話|ギリシア神話]]の中で[[wikija:ティーターン|ティーターン]]は「天と地の息子達」とされている。[[wikija:ギリシア神話|ギリシア神話]]における[[wikija:ティーターン|ティーターン]]は地底に封じ込められており、彼らが時々暴れると[[wikija:地震|地震]]がおきると、古くは信じられていたようである。 </ref>という7柱の僕(この僕達は「比類無き闘士」として繰り返し述べられている)によって起こされる。そして彼らはそれぞれ[[wikija:アヌ (メソポタミア神話)|アヌ]]によって破壊的な役割を与えられたのである。マシニストとサッソン(1983)は、彼らを「人格化された武器」であると述べた。シビッティはエラに人類を全滅させるように求めた。イシュムはエラの沸き上がる獰猛さを宥めようとしたが、無駄であった。バビロニアを侵略する異国人は疫病に倒れ、[[wikija:バビロン|バビロン]]の守護神である[[wikija:マルドゥク|マルドゥク]]ですら、しばらくの間エラにその玉座を譲ったのである。タブレットIIとIIIは、エラとイシュムの議論で占められている。その後、エラは[[wikija:バビロン|バビロン]]、[[wikija:シッパル|シッパル]]、[[wikija:ウルク|ウルク]]、ドゥルクリガルズ、デアで戦いに赴いた。世界はめちゃくちゃになり、高潔な人々も、不誠実な人々も同じように殺し合った。エラは、バビロンの敵を滅ぼして仕事を終えるように、とイシュムに命じた。そしてエラは恐るべき7柱の僕達と共に、エメスラムにある座所に戻り、そうして人類は救われた。<ref>[[wikija:ネルガル|ネルガル]]の信仰の中心地はクターという都市であり、そこの[[wikija:ネルガル|ネルガル]]神殿のことをエメスラムと言った。</ref>神を宥めるための祈祷師はその役割を全うした。 |
この詩はバビロニアの信仰にとって中心的なものであったと思われ、紀元前1千年紀の遺跡のうち、少なくとも5箇所([[wikija:アッシュール|アッシュール]]、[[wikija:バビロン|バビロン]]、[[wikija:ニネヴェ (メソポタミア)|ニネヴェ]]、スルタンテプ、[[wikija:ウル|ウル]]<ref>エラ叙事詩のタブレットのうち、数枚は確実な出所がわかっていない。(マシニストとサッソン 1983:221 note 2)</ref>)から36部の写しが発見されている。カーニは、これは[[wikija:ギルガメシュ叙事詩|ギルガメシュ叙事詩]]の写しが発見された数を上回ると指摘している。<ref>L. Cagni, '"The Poem of Erra" ''SANE'' '''1'''.3 (1977).</ref> | この詩はバビロニアの信仰にとって中心的なものであったと思われ、紀元前1千年紀の遺跡のうち、少なくとも5箇所([[wikija:アッシュール|アッシュール]]、[[wikija:バビロン|バビロン]]、[[wikija:ニネヴェ (メソポタミア)|ニネヴェ]]、スルタンテプ、[[wikija:ウル|ウル]]<ref>エラ叙事詩のタブレットのうち、数枚は確実な出所がわかっていない。(マシニストとサッソン 1983:221 note 2)</ref>)から36部の写しが発見されている。カーニは、これは[[wikija:ギルガメシュ叙事詩|ギルガメシュ叙事詩]]の写しが発見された数を上回ると指摘している。<ref>L. Cagni, '"The Poem of Erra" ''SANE'' '''1'''.3 (1977).</ref> | ||
41行: | 41行: | ||
* [[wikipedia:Kutha|クター]] | * [[wikipedia:Kutha|クター]] | ||
* [[wikipedia:Sultantepe|スルタンテプ]](現在の[[wikija:シャンルウルファ|シャンルウルファ]]であるらしい) | * [[wikipedia:Sultantepe|スルタンテプ]](現在の[[wikija:シャンルウルファ|シャンルウルファ]]であるらしい) | ||
+ | * [[wikib1:「7柱の僕」について|「7柱の僕」について]] | ||
== 原文 == | == 原文 == | ||
− | * [[wikipedia:Erra (god)|Erra | + | * [[wikipedia:Erra (god)|Erra]] |
== 参照 == | == 参照 == |
2014年2月8日 (土) 07:14時点における最新版
エラの護符 |
material:石、銅 |
created:紀元前800年~612年 |
period:新アッシリア時代[1] |
place:アッシュール |
location:Room 55, 大英博物館, London |
id:British-Museum-db 118998 id=369099 |
エラ(Erra)(またはイラ)は、紀元前8世紀の「叙事詩」において、アッカドの疫神とされている。[2]また、エラは騒乱と疾病の神で、政治的混乱をもたらすとされている。「エラ」という現代的な題をつけた叙事詩の中の本文に続く奥付で、ダビビの子孫であると述べている作者のカビティ・イラニ・マルドゥクは、エラ自身がカビティに送った幻影の内に示した文章を、自分はただ書き連ねただけであると述べている。[3]
叙事詩は神への祈りから始まっている。エラは妻(母神マミとは異なる女神であると考えられている)と共に絶え間なく眠っている。しかし、エラは相談相手であるイシュムと、天と地の息子達であるシビッティ(またはセベッティ)[4]という7柱の僕(この僕達は「比類無き闘士」として繰り返し述べられている)によって起こされる。そして彼らはそれぞれアヌによって破壊的な役割を与えられたのである。マシニストとサッソン(1983)は、彼らを「人格化された武器」であると述べた。シビッティはエラに人類を全滅させるように求めた。イシュムはエラの沸き上がる獰猛さを宥めようとしたが、無駄であった。バビロニアを侵略する異国人は疫病に倒れ、バビロンの守護神であるマルドゥクですら、しばらくの間エラにその玉座を譲ったのである。タブレットIIとIIIは、エラとイシュムの議論で占められている。その後、エラはバビロン、シッパル、ウルク、ドゥルクリガルズ、デアで戦いに赴いた。世界はめちゃくちゃになり、高潔な人々も、不誠実な人々も同じように殺し合った。エラは、バビロンの敵を滅ぼして仕事を終えるように、とイシュムに命じた。そしてエラは恐るべき7柱の僕達と共に、エメスラムにある座所に戻り、そうして人類は救われた。[5]神を宥めるための祈祷師はその役割を全うした。
この詩はバビロニアの信仰にとって中心的なものであったと思われ、紀元前1千年紀の遺跡のうち、少なくとも5箇所(アッシュール、バビロン、ニネヴェ、スルタンテプ、ウル[6])から36部の写しが発見されている。カーニは、これはギルガメシュ叙事詩の写しが発見された数を上回ると指摘している。[7]
学術的には、叙事詩に示された霊視と歴史的事実は一致しないけれども、この詩はメソポタミアにおける歴史的騒乱を神話的に解釈したものとして一部の読者に受け入れられている。詩人は(タブレットIV:3で)神に向かって「神よ、その恐ろしい力を捨てて、人のように成り給え。」と懇願している。
エラ叙事詩の文章は、完成してまもなく特別な意味を持つものと考えられるようになった。人々は、文章の一部を護符に刻んで、魔除けと疫病除けのお守りとしたのである。アッカド語で書かれた叙事詩群から、「7柱の僕」の名前は詩により様々に変化していることが分かるが、その数は「7柱」で不変である。
エラ叙事詩が刻まれている5つのタブレットは、1956年に初めてその内容が出版された。[8]そして、更なる発見に基づく改訂版が1969年に登場している。[9]こうして、おそらく叙事詩の70%程度は再現されることとなった。[10]
バルター・ブルケルトは、「エラと7柱の僕の神話」は古代ギリシア人の間で、広く歴史的基盤となる物語とみなされていた「テーバイ攻めの七将」の物語と一致する、と特に言及している。[11]
関連項目
- ネルガル
- ニヌルタ:「The Exploits Of Lubara(ルバラの功績)」によると、ルバラとはニヌルタ(ニニプ)と同一の神であるとのことである。[12]
- マミ
- イシュム
- ドゥルクリガルズ
- デア
- クター
- スルタンテプ(現在のシャンルウルファであるらしい)
- 「7柱の僕」について
原文
参照
- ↑ イスラエル王国が滅亡したのはこの時代である。
- ↑ エラはネルガルの別名とされている。(「ネルガル」より)
- ↑ カビティ・イラニ・マルドゥクの名はランバートによって出版されたアッシュールバニパル王の図書館の「文章と著者のカタログ」の中にも認められる。
- ↑ ギリシア神話の中でティーターンは「天と地の息子達」とされている。ギリシア神話におけるティーターンは地底に封じ込められており、彼らが時々暴れると地震がおきると、古くは信じられていたようである。
- ↑ ネルガルの信仰の中心地はクターという都市であり、そこのネルガル神殿のことをエメスラムと言った。
- ↑ エラ叙事詩のタブレットのうち、数枚は確実な出所がわかっていない。(マシニストとサッソン 1983:221 note 2)
- ↑ L. Cagni, '"The Poem of Erra" SANE 1.3 (1977).
- ↑ フェリックス・ゲッシュマン著「エラ叙事詩」(1956年)。 ジョージ・スミスは「ルバラの功績」として、1875年に「カルデア人の起源の考察」の第8章で叙事詩の断片を紹介している。ジョージ・スミスは19世紀のイギリス人アッシリア研究者である。そして、ルバラとは、ニヌルタという神の別名であり、新バビロニア(紀元前625~539年、ユダ王国を滅ぼした国である。)の時代には、ネルガルとも同一視されていたようである。(The Chaldean account of Genesis, Chapter VIII The Exploits Of Lubara)
- ↑ カーニ著 L'Epopea di Erra in Studi Semitici 34, (Rome: Istituto di Studi del Vicino Oriente), 1969. Critical edition.
- ↑ マシニストとサッソン 1983:222.
- ↑ ブルケルト 1992:108ff.
- ↑ [8]項を参照