2020/07/24(金)カレヴァラ物語 フィンランドの恋する英雄たち

2020/07/24 18:02 伝説
 リョンロート(ロンルート)による『カレワラ(カレヴァラ)』の紹介本です。

 フィンランドは、北欧の国で北をノルウェー、東をロシアに接している国です。フィンランド語はウラル語族フィン・ウゴル語派であって、印欧語(ゲルマン語派、スラヴ語派)ではありませんが、カレヴァラを読む限り、鍛冶師を重要視すること、父系的な文化を持つこと、処女懐胎的な神話を持つこと等から、印欧語族の文化の影響を受けて、共通の要素を多く持っていると思います。ただし、カレヴァラの思想の特徴として挙げられる、直接的な武力よりは「言霊」を支配する力を最優先とする思想は、印欧語文化ではないのかもしれないと思います。

 物語は、歌い手であるヴァイナモイネン、戦士のレンミンカイネン、鍛冶師のイルマリネンが中心となって進み、挿入的に悲劇の英雄クレルヴォのエピソードが挟まれます。ともかく、男系的な文化、父系的な文化の影響が強くて、女性にあまり優しくない物語だと思う(苦笑)。時にサーミ人の土地であるポポヨラは、ロウヒという女族長を持ち、母系的な部族として描かれていて、ポポヨラを暗い土地としてなんだかちょっと差別的に描いているところ等は、父系の文化から見た母系の文化への差別的な思想も感じるので、カレヴァラの思想を「平和主義」と言われると、「平和主義?」とむしろ思ってしまうわけですが-;。カレヴァラの作られた19世紀では、これでも「平和的」と言える内容だったのかなあ、と思います。

 特に、知らずに近親相姦を犯してしまい、破滅へと向かうクレルヴォの物語は、「知らずに犯したことでも、そこまでの禁忌なのか」と衝撃を受けました。日本では、明治以後は男性中心の家父長制が盛んでしたが、古代世界は母系制で、古代の天皇家でも異母兄弟の結婚は盛んにあり、禁忌ではないので。軽大娘皇女の例のように同母兄妹の通婚は日本でも禁忌とされていましたが、「近親結婚」のタブーに対する意識が、父系の文化では、母系よりも更に強烈で潔癖なものだったのだなあ、という点にちょっとショックを受けました。

 老人の姿で描かれるヴァイナモイネンは、ウッコの別の形でもあり、Wikipediaに「世界の創造も、元の伝承では彼によるものである。」とありますので、ヴァイナモイネンはゲルマン神話のオーディン、スラヴ神話のペールーンに相当する神として良いのではないかと思います。ヴァイナモイネンが処女の母から生まれたこと、そしてヴァイナモイネンが去る原因となる赤ん坊の母親は明らかに「聖母マリア」を意識して作られていることから、結局、なんだかんだ言って、カレヴァラはキリスト教の影響が強い物語ではないのかと思いますし、その点を残念に思います。これも、実際の伝承を最重要視する現在の伝承学の世界と違って、19世紀という時代のせいかもしれないと思います。むしろ、カレヴァラの原点となった伝承の方を、忠実に纏めた本があったら面白いのではないかと思いました。

2020/06/09(火)善光寺の不思議と伝説

2020/06/09 20:15 伝説仏教

「善光寺の不思議と伝説」 一草舎出版 笹本正治

 善光寺や善光寺に関する史跡が詳しく書かれた本です。ガイドブックで物足りなく感じる人は、これを片手に史跡巡りをすると楽しいと思います。
 気になった点は、

1.善光寺の創建について
(1)「長野市の善光寺」は皇極天皇3年(644年)に開基とのことですが、元々は本田善光が伊那の自宅に善光寺如来を祀ったのが起源と言われており、聖徳太子を文をやり取りした、という伝承もあるわけですから、「伝説」ではなくて、「史実」の開基についても、もっと考察があったら良かったのになあ、と思いました。
 若麻績東人(本田善光)の「若麻績」という名字は古代における信濃国の大豪族である金刺氏から分かれた氏族ですし、金刺氏は諏訪大社下社の神職の家系でもありました。現在、善光寺周辺にある諏訪系の神社は下社系のものが多いようですので、善光寺の創建には若麻績東人個人ではなく、金刺氏全体の協力があったのではないか、と想像されます。
 善光寺には江戸時代まで、「年神堂」というお堂が本堂の裏にあり、諏訪神の子神と言われている「彦神別神」あるは「八幡神」が祀られていました。善光寺の更に裏の山の中にある駒形岳駒弓神社は「善光寺の奥の院」と言われており、主祭神は年神堂の神と同じです。諏訪系の「彦神別神」が古い時代から善光寺で祀られていたことも、諏訪大社の関係者が創設した寺院であるとすれば、自然な話と思われます。

(2)伝承のとおり、推古天皇10年(602年)に、善光寺の原型の寺が作られたとすると、最初から「神仏習合」の寺であったか否か疑問が残ります。神仏習合の思想は奈良時代以降(710年~)ですので、当初の善光寺は神と仏を両方祀っていたとしても、「阿弥陀如来と八幡神は同じものだ」とは言っていなかったと思われます。

(3)阿弥陀如来が広く庶民を救済する、という信仰は、そもそも仏教が庶民に拡がり始めたのが平安末期の法然・親鸞以降であって、それまでの仏教は「自力本願」といって、「自分で修行を積んだ人が救われる」という思想ですから、善光寺が庶民信仰の寺となったのは、早くとも鎌倉時代以降といえます。平安時代は、仏教は庶民のものではなかったのです。なので、やはり善光寺の創設時は、豪族の氏寺で、氏神も併せて祀る寺社という傾向が強かったのではないか、と思えるのですが、そういう当初の善光寺の姿への推察、考察がありません。この本では善光寺はあくまでも「庶民を阿弥陀如来が救う寺」という観点から書かれているのです。現在では、それは正しい善光寺の姿かもしれませんが、せっかく由来の古さを説くのであれば、本来の古代の善光寺の姿の考察がないのは、歴史の浅いところだけ書くのでは、もったいないと思いました。

(4)本尊について。善光寺如来には釈迦如来である、という説と阿弥陀如来である、という説があります。庶民の阿弥陀信仰が中世以降のものであるのなら、古代の善光寺の本尊は、法隆寺の金堂のように釈迦如来であってもおかしくないと思うのですが、本書では、「本尊は阿弥陀如来、年神堂と駒形岳駒弓神社の主祭神は八幡神で、善光寺は阿弥陀如来と八幡神を習合させた庶民救済の寺である」という型にはめようとしすぎている傾向がある気がします。もっと読者が色んな事を想像できるように、日本の歴史を踏まえて幅広い考察ができても良かったのではないのかなあ、と思う。

 それ以外には、尼寺である大本願の起源が若麻績氏の斎宮ではないのか、と示唆する記述は興味深かったです。信州新町の彦神別神神社についての記載は全くありませんが、彦神別神神社(水内大社)の成り立ちを、若麻績氏、金刺氏の起源を併せて考察すれば、斎宮遺跡や「妹の宮」という地名が残されていることも興味深いと思う。水内神社が大本願の前身であったかもしれない、と考えることは楽しかったです。