2022/09/22(木)猿供養寺物語

2022/09/22 19:42 伝説仏教
「猿供養寺物語と人柱伝説」、眞田弘信著、「寺野の歴史を考える会」発行、2004
「猿供養寺物語と乙(宝)寺」、眞田弘信著、「寺野の歴史を考える会」発行、2005

新潟県上越市板倉区猿供養寺の「地すべり資料館」で購入した2冊である。板倉区は一番古く越後国府が置かれた、という伝承があり、天台宗の大寺院がかつてはあったそうである。その中に「猿が法華教の写経を試みて、途中で死んだため、それを哀れんで供養した」とのことで「猿供養寺」というお寺がかつてあったらしい。また、「地滑りを防ぐために旅の僧侶が人柱になった」という伝説があったところ、本当に人身御供となった人骨が出土したということで、その僧侶の供養堂もある。

そういう地域の伝承を、細かく詳細に網羅して資料を纏めた2冊で、学生の紀行文風にしてある。板倉地区の「延命清水」や「やすらぎ荘」も紹介されて、郷土愛に溢れた2冊である。個人的にはこういう真面目で郷土愛に溢れた作品は好きだ。


「猿供養」については、「猿神」とはかつて生贄を求める神であったけれども、その一方で延暦寺の地主神のような扱いでもあるので、「悪い猿神も仏教を信じて良い存在になれた」というようなプロパガンダ的な目的で作られた話かと思うわけですが、その下地としては猿神に対して人身御供を捧げるような習慣もあったのではないか、と思います。その場合、地滑り鎮めではなく、猿又川の沈めが目的であったと思われます。

国府については、設置当初は信越国境が重要な地域と考えられたため、置かれたのではないでしょうか。越の国については天武天皇の時代に地元の蝦夷が自治を行いたいと申し出た、という記録がありますし、当時の政府は必ずしも穏やかな統治が望める地域とはまだまだ考えていなかったのかもしれないと思います。

人身御供の名前が残されていないのは、地元の人には「地滑り防止の人身御供」と言いながら、他に秘密裏にしておきたい理由があったからかもしれません。鎌倉時代当時の領主が誰かを呪詛してたとか、と思います。

2022/07/16(土)「異神 上」 ちくま学芸文庫 筑摩書房

2022/07/16 19:17 神話覚書

「異神 上」 ちくま学芸文庫 筑摩書房

1.新羅明神覚書
  • 寺門の守護神だった。
  • 疫神は新羅からやってくると考えられていた。
  • 疫神を払う場合は海や境界の外に流した。
  • 新羅明神は祟ると疫病を流行らせたりして、須佐之男と同一視された。
2.摩多羅神
  • 主に天台宗系寺院で祀られ、秘仏とされた。常行三昧堂の阿弥陀仏の後に隠れ、「後戸の神」とされた。(p160)
  • 毛越寺の越年では、摩多羅神に関する芸能的祭祀で須佐之男の「八雲立つ~」の歌が披露された。(p159-160)
  • 柳の牛王というものを長い竹のうれにはさんで、ささげて持ち巡った(p160)
善光寺には阿弥陀如来が座す本堂の後ろに「年神堂」という堂があり、越年の祭祀はそこで行った。「年神堂」が「後戸」といえる。ここの神は「彦神別神」という。後には八幡も祭り、「歳神堂八幡宮」とか言ったとか。御年神は須佐之男の子神である。善光寺ではこれを「諏訪神の子」として祀っていたのだから、下社系、北信濃の「建御名方」は須佐之男が「後戸(後ろに隠れている神)」ともいえる。「彦神別神」の後ろに隠れている「御歳神」はどこに隠れている? 當信(たぎしな)神社に? あれ? 結局名古屋まで行って、またまた田舎に帰ってきてしまう可哀想なあたくしである-;。というわけで、御歳神と彦神別神は「後戸の神」であって、摩多羅神であるといえる。

でも、建御名方の方は・・・、下社は須佐之男で八坂刀売は奇稲田姫って言うかもしれませんが。上社は、アジスキタカヒコネ(でなければ火雷神)と下照姫(でなきゃ亀の乙姫様であるところの天御梶姫)って言うんじゃないのかねえ? 「殺す者」と「殺される者」が「同じ物」であるならば、建御雷神と建御名方富命は「同じもの」である、といいそうである。というか、「信濃の国」の外では完全にそういう取扱なんじゃあ? と思うわけですが。

でも、年神堂にはもう一つ「かんでいる神」がいて、風祭が行われていることから風の神である「龍田大社の級長津彦命(今は風間神社の祭神)」もかつては祀られていたはず。龍田の神は、諏訪では「守達神」として建御名方富命の子神に組み込まれていると思われる。年神堂が守田廼神社に移築されたのはけっして「偶然」なのではない、守田廼の元の祭神が「守達神」だったからではないのか? とあたくしは思うわけですが。

ともかく、立田の里であれこれおみやげを買って「級長津彦命と伊勢津彦命のことを忘れないでねえ。」と言われた気がするわけで。級長津彦命(龍田の神)の諏訪での名前は守達神、伊勢津彦命の諏訪での名前は建御名方富命である。古き御射山に八坂刀売ではなく、下照姫を今も祀っている人々のことをぞ我は忘れぬ。北信濃では彦神別神こそが須佐之男であり、摩多羅神である。善光寺は須佐之男と摩多羅神を祀る台密のメッカなんじゃん? 彼らが阿弥陀の後ろに隠れてるんじゃん? とそうなるわけである。「隠されている秘仏」も「摩多羅神」そのものといえる。
  • 叡山では摩多羅神=マカカラ神(大黒天)=荼枳尼天、と考えていた。彼らが死にかけた人の肝臓を食べないと、人は往生できないと考えられてた。マカカラ神、荼枳尼天は人の血肉を食らい、精気を奪って死に至らしめる、とも考えられていた。行者がマカカラ神に自らの「指の血」を供物として献じることが最極の秘事とされた。マカカラと摩多羅では音が似ているので、習合したのではないか。(p173-174、178)
  • あるいは摩多羅神=マカカラ神(大黒天)で、荼枳尼天を調伏するもの、と考えられていた。(p174)
音が似ているといえば、長野市信州新町には「又田羅(またたら)」という地名がある。やっぱり摩多羅=シヴァ=須佐之男信仰の痕跡かと思う。
  • 那智山では、後戸(摩多羅神)の祭祀で、「善光寺如来は聖徳太子の作である。」と詠っていた。(p187)
  • 中世では、鳶は天狗の化身と考えられていた。(p191)
  • 摩多羅神の祭祀では、秩序のない踊りを踊っていた。→「芸能の神」への変遷。(p193-194)
  • 那智山では、かつて12月23日に摩多羅神の神事を行っていた。冬至に関する祭祀か。(p206)
  • 中世初期にあらわされたと思われる伊勢国度会郡小俣村・平尾八所明神の『離宮院記』(『群書類従』続神祇部)には須佐之男は摩多羅神とある。「離宮之旧記」には須佐之男は牛頭天王であり、伏羲であり、摩多羅神である、とある。一部には天照大神と摩多羅神を習合させようとしたものもある。(p404)
伏羲も須佐之男と習合させてるんだ、イザナギの方かと思ってた、というのが正直なところである。占い師の伏羲はれっきとしたシャーマンといえ、少なくとも人間に対しては須佐之男にリーダー的性質(占いをしてまつりごとの方向を決める)を持たせようとした意図があることが分かる。摩多羅神は天照大神と習合させようとした痕跡もあるので、摩多羅神や須佐之男には「太陽神」としての性質もあることはあったと思われる。(不動明王も須佐之男だとどこかに記載されていたような??)
  • 中世において、須佐之男は午頭天王、摩多羅神(以上、中国の神とされた)、武塔神(新羅明神)と同一視されて、一群の疫神とされた。(p210)
  • 不動尊から大黒天が化現れる、とされた。(p220)
  • 摩多羅神は行疫神である摩怛利神と習合させられた。槌を持つ?(p224)
  • 疫神でないものを、無理矢理こじつけて疫神と習合させていた。(p.227)
  • 伊勢神宮に奉安された「心の御柱」は五色の糸で密教流に封印された。(p.407)
これは天照大神を、柱扱い、及び疫神扱いする行為なのではないだろうか?
  • 円仁は仏教の修行で「不死の妙薬」を得た、とされた。(p.231)
「かぐや姫かい!」と突っ込みが入るところであると思う。疫神から妙薬を得る、とするところが密教に都合の良いところ、ともいえようか。
  • 摩多羅神は金刀比羅とも同一視された。(p.238)
  • 摩多羅三尊は「一心三観」と考えられた。(p.256)
  • 摩多羅神の教えは「生死即涅槃」というような対立しているものを一つにまとめるよなものだった。(p.267)
  • 儀式における「狂乱の踊り」は性行を暗示した。(p.267)
念仏踊りの起源といえるだろうか? 見付天神の「裸踊り」も同じ意味か。あるいはシヴァの上で踊るカーリーを模したものか? シヴァにも「踊りの神」という要素はあるが??
  • 摩多羅神は荒神とも同一視された。(p.271-272)
  • 比叡山では「山王」は天にあっては「北斗七星」、地にあっては「山王七社」で「七仏薬師」の顕現とされた。(p346)
  • 摩多羅神は阿弥陀如来とも同一視された。(p.367)

2022/06/27(月)長野のむかし話

2022/06/27 15:15 むかし話

「長野のむかし話」 長野県国語教育学会編 日本標準 1976

 小学生向けの本で、かなり昔の本ですが、読んだのはつい最近です。多くは民話的な物語ですが、いくつか「伝説」と呼ぶ方が相応しいのではないか、という物語もあったので、タイトルの通り「むかし話」というタグをつけました。
 知らない話もあって、勉強になりました。