はしがき

2019/06/12 北欧民話
 世界のどこの国でも、その国に昔から伝はってゐる物語や伝説があって、その国の上下、各層に言ひ伝へ、拡められ、いくたび聞かされても面白いと思ふものが、多少ともあるものである。それらの物語や伝説が奇特な民俗学者によって丹念に蒐められ、纏められたものが、また諸国に大抵はあるやうである。本訳の原書は即ちその一つである。
 ここに訳出した物語はノルウェーに語り伝へられてゐた民譚を、ペテル・クリスティン・アスビョルンセンが長年に亘り苦心して蒐集したものである。アスビョルンセンは一八一二年一月十五日ノルウェーの首都クリスチャニア、現時のオスロに生れ、早くから民話に興味を持ち、一八三八年、二十六歳の頃に赤ん坊と題する童話の小冊子を公にした。一八四二年には友人ヨルゲン・インゲブレクトセン・モーと共同で、ノルウェー民話集Norske Folkeeventyrを公にしたが、これはノルウェー民話の古典とも称すべきものである。一八四五年乃至一八四八年にノルウェー妖精話と民間伝説Huldre-Eventyr og Folke-sagnを発表し、前者に勝るものとの好評を博した。
 アスビョルンセンとモーのノルウェー民話蒐集に於ける努力と功績とは尋常のものでなかったので、ゴッスは「若しも、アスビョルンセンとモーとが、旧い伝説の保存に努力しなかったら、ノルウェーの民話は恐らく今日全く跡を絶ってゐたであう。」と言ってゐるほどである。
 一八五三年にモーは牧師となり、専ら宗教に奉事して遂にクリスチャンサンドの僧正となったが、アスビョルンセンは単独で民話の蒐集と発表を続け、一八七一年に新蒐ノルウェー民話Norske Folke-Eventyr Fortalte af P. chr. Asbjörnsen, Ny Samlingを公にした。この書は、一八九六年に北欧文学研究家サー・ジョージ・ウェップ・ディセントによって英訳せられ、ロンドンのギビングス社から出版された。
 アスビョルンセンとモーと共著のもの、及アスビョルンセン単独発表のものも、みな田舎の農民、山間の樵夫、水夫、巡歴音曲家、老爺、老媼などから直接に聴いた、素朴な、怪奇な、可憐な、滑稽な、神秘なものや、イソップ物語のやうに教訓を含蓄せるものや、世相人情を諷刺したものや、種々様々のものを整理して略ぽ伝承のままを文字に表はしたもので、あまりに文飾を加へてないのを特色とする。それ故、アスビョルンセンの民話はノルウェー国語純化の気運を招来し、近世ノルウェー文学復興の上に大いなる貢献を遂げたものである。ノルウェーの文豪ビョルンスチアナ・ビョルンソンは「若しアスビョルンセンがゐなかったなら、自分の如きは世に殆ど知られなかったであらう。」とまで褒賞した。
 アスビョルンセンの書に収めてあるともづれの話や、愚かな亭主と横着な女房の話に似通ったものは、アンデルセンやグリムの物語中にもある。耐久の朋の話はオランダ人の伝説のリップ・ヴァン・ウィンクルの物語を想起させるものである。これはノルウェーの物語が乙の国に伝はり、更に丙から丁国へと拡がっていって、いくらか姿を変えてか、或は殆ど別話のやうな形でその国に語り伝へられたのであるか、どうか、遽かに断定は出来ないのである。寧ろ、その類似の物語はずっと古い共通の話に源を発してゐるのであらうかとも思はれる。何年もの間眠ってゐたといふやうな話は諸国にもその黎があり、また大入道(トールド)の話もさうで、我が国でも道場法師や百合若大臣の話となって民間に伝はってゐる。
 アスビョルンセンの蒐集した民話はすべて北欧色彩に富んだ興味の深いもので、多くは神話に源を発してゐるやうに惟はれる。是等の民話は長いものも、短いものも、それぞれを透して文化の程度や、世相の反面や、道徳の標準や、将又人情の機微を窺知せしめ、ノルウェー民族思想発達の径跡を示すものでもある。このやうな内容を持つ本書は他の国の民話伝説と共に我が読書界の一隅を占めるに足り、また民俗学研究の資料を豊かにするものなるを神事、敢て訳註を試みたのである。底本としてはディセントの名著を用ひ、「流れに逆ふ女房」の話の如き特秀のものは原著に拠って校綴した。 因みに、アスビョルンセンは熱心な民話蒐集家であると同時に、動物学者であったので、ノルウェーの北部地方へは大学や政府の委託で広く研究旅行をして、いろいろと科学上の業績を遺してゐる。途中、一八五三年にノルウェーの深海で発見した海盤車(ひとで)の新種は、学会を驚嘆させ、深海研究を刺戟したものである。また、アスビョルンセンは地中海科学探検隊にも研究員の一人として加はって、当時の記録は氏の科学著作の重要なものとなってゐる。なほ氏は蒐集し、発見した動物学上の標本は、現在ダブリン博物館に陳列されてあるといふ。
 本訳の稿成るに当り、北欧の文芸に精通し、弘奥なる興味と理解とを有せらるる子爵武者小路公共閣下より推薦の序を賜はりたるは役者の最も光栄とするところである。
 尚本書の出版は学友市村宏氏の絶大なる斡旋に負ふところが多い。ここに深甚の謝意を表したい。

紀元二六〇三年(一九四三年(昭和十八年))四月三日

訳者  高木 眞一

2019/06/12 北欧民話
 学生時分「アンデルセン」や「イプセン」の独訳に親しみ、外交官補で滞独中北欧劇の全部を何回となく見、そして其後北欧四国公使として四年現地で勤務した私には、北欧と聞けば他人事ではない感じだ。その北欧在勤中、諾威「オスロー」で偶然邂逅した髙木さんを、常時海軍から糧食の研究に出張されてゐたのだ。その御縁から十四年たった今日、北欧民話の翻訳の序を書くことになった時分には、何だか前世の約束といふ感じだ。
 さりとて何も改めて長い文句を書いて此の貴重な紙面を塞ぐより、早く高木さんの本文をお読みなさい、此度いろいろな意味で啓発されます、といふほかはない。あの重なる氷山の綺麗な「フィヨルド」、あの純な人々、私は学生時代から今日迄易らぬ尊敬と愛慕を感じてゐるあの諾威の、その懐ろに育まれた民話が、どんなに純で、どんなに清いか、民話の尊さをよく知る我々大和民族には、高木さんの努力が屹度大きな貢献をされることを信じて、これを序とする。

昭和十八年四月三日

武者小路公共