異伝4:<blockquote>天武天皇白鳳十年辛巳、北国大地震の為青葉山崩壊し、大神鎮座の霊域を失った。同年秋九月三日夜、里長春部のむらじ青雲別が独り、その境内の探し求めの苦慮を五人の神は見られて、五つの重ねの唐衣。緋の御裳、おすべらかしにひかげのかずらをつけ、美しい'''天女五人'''の姿をして柳原へ天降られ、その娘'''水長姫'''に夢枕に立ち「朝日輝く柳ケ原は昔、大己貴命少彦名命の国造りの初めより深い縁の地故に、神霊永くここに止まるべし」と申された。里長は神の仰せに従い、柳原の大森を大宮処と定め、宮居を造営し五柱の神霊を奉祭し、春部の里の氏神・'''豊受皇阿良須神社'''と崇め奉った。即ち当社の基礎で万代不変の神地である。同十一年、大友皇子により天武との戦が始まる。この時越前のあすはの里に逃れられた高市皇子は、左中将清忠外従臣等と共に当国に下られ、同年七月七日夕暮柳原の宮に入り給ふて四方を眺められた時、美しい乙女に会われて不審に思われ、いましは誰ぞと問い給ふと、われは青雲別の子水長姫と答え申す。皇子は更に、大宮に祭れる神は何れの大神にましますかと問われると、国の鎮めとなる豊受大神と、三女神及び木花開夜昼命と謹しみ申し上げる。皇子は清流に身を清め、心を静められて神垣に入らせ給う。みずから琴を弾き、水長姫に御神楽を神前に奏せしめられ、長い祈念を続けられた。この祈誓の神に通じたのか、わた立つ威光の峯の綾雲は、大森の宮居へ流れて来て、その中に見えかくれしつつ、やがて五人の天女が秘曲に合わせて袖ひるがえし舞いを始めた。</blockquote>
異伝4:「京都府地誌」(明治八年)には「小倉神社」として掲載され、往古は「小倉神社」と称していたと伝えている<ref>[https://ameblo.jp/keith4862/entry-12406400442.html 阿良須神社 (舞鶴市小倉)(改定)]、かむながらの道、~天地悠久~(最終閲覧日:24-12-21)</ref>。