異伝3:<blockquote>「舞鶴市内神社資料集」所収「阿良須神社記」より。<br>('''大己貴命・少彦名命'''が地主神を 尋ねていると)魚井の原より神光海原を照し、白糸浜の十二月(しはすぐり)の神の森に着き、たちまち月が浦の御崎にあたかも'''月光'''とも物とも見ゆる物現り出でたり。これすなわち'''幽契'''によりて、'''魚井の大神(豊受大神)'''が降臨し賜えるなり。この時、'''天火明命'''出でて大神を田中の威光山に迎え、'''天道姫命'''をして、国家鎮護の大神として親しくこれを祭らしめ賜ひき。これより一天心よく晴れ渡り、命等勇んでこの国土を経営し、強暴の神を征服し、邪鬼の者等を払い、天香語山命に大神の神饌の為に、'''月代の神田を柳原に定め'''、水田陸田を開き、天道姫命に大神の五穀の稲穂を乞い求め、広く生民に施し、耕耘種芸の法を教え、衣食の仕方を授け、又摂生療病の方法を示し、功なるや、二神(大己貴命・少彦名命)高志の国に至り、天火明命を召して「汝、此の国を領知すべし」と詔り給ひき。崇神天皇即位十年秋、丹波将軍道主王 勅を奉じて、青葉山の土ぐも陸耳御笠を征伐するに当り、天神地祇を祭りて神意を伺われると、神霊たちまち王によいお告を下された。それを倭得王に命じ、たやすく賊首を征服し国土を平定し、鎮撫の結果を天皇に奏せられた。又、天火明命の孫 笠津彦笠津姫に、柳原の神並の森に神社を建てて、豊受大神、三女神、木花開夜姫命を祭らしめ給う。これが当社の起りである。</blockquote>
異伝4:<blockquote>天武天皇白鳳十年辛巳、北国大地震の為青葉山崩壊し、大神鎮座の霊域を失った。同年秋九月三日夜、里長春部のむらじ青雲別が独り、その境内の探し求めの苦慮を五人の神は見られて、五つの重ねの唐衣。緋の御裳、おすべらかしにひかげのかずらをつけ、美しい'''天女五人'''の姿をして柳原へ天降られ、その娘'''水長姫'''に夢枕に立ち「朝日輝く柳ケ原は昔、大己貴命少彦名命の国造りの初めより深い縁の地故に、神霊永くここに止まるべし」と申された。里長は神の仰せに従い、柳原の大森を大宮処と定め、宮居を造営し五柱の神霊を奉祭し、春部の里の氏神・'''豊受皇阿良須神社'''と崇め奉った。即ち当社の基礎で万代不変の神地である。同十一年、大友皇子により天武との戦が始まる。この時越前のあすはの里に逃れられた高市皇子は、左中将清忠外従臣等と共に当国に下られ、同年七月七日夕暮柳原の宮に入り給ふて四方を眺められた時、美しい乙女に会われて不審に思われ、いましは誰ぞと問い給ふと、われは青雲別の子水長姫と答え申す。皇子は更に、大宮に祭れる神は何れの大神にましますかと問われると、国の鎮めとなる豊受大神と、三女神及び木花開夜昼命と謹しみ申し上げる。皇子は清流に身を清め、心を静められて神垣に入らせ給う。みずから琴を弾き、水長姫に御神楽を神前に奏せしめられ、長い祈念を続けられた。この祈誓の神に通じたのか、わた立つ威光の峯の綾雲は、大森の宮居へ流れて来て、その中に見えかくれしつつ、やがて五人の天女が秘曲に合わせて袖ひるがえし舞いを始めた。</blockquote>