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ページの作成:「'''常宮神社'''(じょうぐうじんじゃ)は、福井県敦賀市常宮にある神社式内社論社で、近代社格制度|旧社格…」
'''常宮神社'''(じょうぐうじんじゃ)は、[[福井県]][[敦賀市]]常宮にある[[神社]]。[[式内社]][[論社]]で、[[近代社格制度|旧社格]]は[[県社]]。[[神紋]]は「十六弁八重菊」「巴」「桐」<ref name="神社庁">[http://www.jinja-fukui.jp/contents/list.php?act=view&id=1784 常宮神社](福井県神社庁)。</ref>。

古くは[[氣比神宮]]([[越前国]][[一宮]])の奥宮・摂社であった。

== 社名 ==
常宮神社は古くは「常宮(つねのみや)」「常宮御前」「常宮大権現」とも称された{{Sfn|常宮神社(神々)|1985|p=130-132}}。この「常宮」とは、[[神功皇后]]の[[神託]]の「つねに宮居し波風静かなる哉楽しや」にちなむという{{Sfn|常宮神社(平凡社)|1981|p=523-524}}。古くは「つね(の)みや」と訓読みされたが、中近世から「じょうぐう」と音読みされるようになり、[[明治]]元年([[1868年]])に現在の社名・読みに定められた{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=232}}。

また、[[平安時代]]中期の『[[日本文徳天皇実録]]』や『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]に見える「天八百万比咩神社(天八百萬比咩神社:あめのよろずひめじんじゃ)」は古代の常宮神社を指す社名とされる{{Sfn|常宮神社(平凡社)|1981|p=523-524}}(異説もある<ref group="注" name="天八百万比咩神"/>)。

そのほか、常宮神社は[[氣比神宮]]と深い関係にあったため、古くは「本宮・摂社」「口宮・奥宮」「ひもろぎの宮・鏡の宮」「上社・下社」などと一対でも称されていた{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125-127}}。

== 祭神 ==
祭神は次の7柱<ref name="由緒書">神社由緒書。</ref>。
; 本殿(本宮)
:* '''天八百萬比咩命'''(あめのやおよろずひめのみこと) - 通称「常宮大神」。
:* [[神功皇后]](じんぐうこうごう) - 仲哀天皇皇后。
:* [[仲哀天皇]](ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。
; 本殿周囲4社
:* 東殿宮:[[ヤマトタケル|日本武命]](やまとたけるのみこと)
:* 総社宮:[[応神天皇]](おうじんてんのう) - 第15代天皇。
:* 平殿宮:玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命) - 神功皇后の妹。
:* 西殿宮:[[武内宿禰|武内宿禰命]](たけのうちのすくねのみこと)

社伝では天八百萬比咩命は養蚕の神として上古より鎮座したということから、天八百萬比咩命は在地の神であると考えられている{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=234}}。他の6柱は神功皇后の出征伝説に基づいた[[大宝 (日本)|大宝]]3年([[703年]])の合祀と伝えられるが{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125-127}}、これは当時の八幡信仰の広がりに伴った合祀であると推測されている{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=235}}。主祭神が伊奢沙別命(氣比神宮主祭神)ではなく天八百萬比咩命であること以外は、これらの祭神は[[氣比神宮]]と同じである。常宮神は気比神と関係が深いとされており、氣比神宮から参詣を受ける総参祭(例祭)は、一説には伊奢沙別命が天八百萬比咩命を訪れる神事であるともいう{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125-127}}。

本殿の祭神については、[[享保]]3年([[1718年]])の『常宮本紀』や明細帳では上記のように3座である旨が記載されている{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=234}}。しかし、別説として『気比宮社記』([[氣比神宮]]の古記録)では祭神を2座とし、主神は神功皇后であって「天八百萬比咩命」はその別名であるとし、仲哀天皇を[[相殿]]に祀るとしている{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=233}}。

神功皇后は常宮で腹帯を付けて筑紫で[[応神天皇]]を出産したという故事から、常宮神社は安産の神として信仰されている{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=234}}。また、神功皇后が[[三韓征伐]]に際して海路の無事を祈願したとの故事から、航海や漁業の守護神としても信仰される{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=234}}。

== 歴史 ==
=== 創建 ===
[[File:Kehi-jingu otorii.JPG|thumb|200px|right|{{center|[[氣比神宮]]([[敦賀市]]曙町)}}{{small|[[越前国]][[一宮]]。常宮神社とは深い関係にある。}}]]
社伝では、主祭神の天八百萬比咩命は上古より当地に鎮まっていたという。そして、[[仲哀天皇]]2年2月に天皇と[[神功皇后]]が気比神を拝してから[[三韓征伐]]に赴く際、天皇は単身紀伊を経て長門へ向かったが、皇后はなお常宮に留まって外征の謀をめぐらし、6月初卯の日に出征したと伝える<ref name="由緒書"/>。その後[[大宝 (日本)|大宝]]3年([[703年]])に勅命によって社殿の修造がなされ、[[神功皇后]]・[[仲哀天皇]]・[[ヤマトタケル|日本武命]]・[[応神天皇]]・玉姫命・[[武内宿禰|武内宿禰命]]の6柱が合祀されたと伝える<ref name="由緒書"/>。以後は氣比神宮の境外摂社として推移したという<ref name="由緒書"/>。

一方で『気比宮社記』によれば、[[桓武天皇]]の御代に神功皇后の神霊が示現して「つねに宮居し云々」の神託を垂れたので皇后を「天八百萬比咩大神」と讃えて祀ったといい、さらに[[承和 (日本)|承和]]11年([[844年]])に神功皇后を[[勧請]]したとの別伝が記されている{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=235}}。

神社の社地背後には[[古墳時代]]後期のものと推測される横穴群があり、当地は敦賀湾内の錨地という環境のため早くから人々の定住があったと考えられている{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125-127}}。これに関連して、平時の港(敦賀津)・避難碇泊港(常宮湾)という関係に氣比神宮・常宮神社の結びつきの初端をみる説もある{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125-127}}。

=== 概史 ===
国史では[[斉衡]]3年([[856年]])に「天八百万比咩神」が[[官社]]に列したという記載があり、同神は同年に従四位下の[[神階]]に叙されている{{Sfn|常宮神社(平凡社)|1981|p=523-524}}。また[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]では[[越前国]][[敦賀郡]]に「天八百万比咩神社」として[[式内社]]の記載が見える{{Sfn|常宮神社(平凡社)|1981|p=523-524}}。その後、『越前国内神名帳』では「従二位 天八百万比咩大明神」の記載がある。常宮神社は、これらの文献に見える「天八百万比咩神」にあたると考えられている{{Sfn|常宮神社(平凡社)|1981|p=523-524}}(ただし異説もある<ref group="注" name="天八百万比咩神">「天八百万比咩神」の論社には、常宮神社のほかに[[越前市]]の[[大塩八幡宮]]末社・天八百萬比咩神社が挙げられるが、結論には至っていない {{Harv|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=232-233}}。</ref>)。

社伝では、その後[[長和]]4年([[1015年]])に[[天台宗|天台僧]]の円秀僧正によって再興されたという{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=235}}。以後記録によれば、[[享禄]]2年([[1529年]])に[[朝倉孝景 (10代当主)|朝倉孝景]]・[[朝倉景紀|景紀]]によって修繕が加えられて東殿が造営された{{Sfn|常宮神社(平凡社)|1981|p=523-524}}。そして[[天正]]2年([[1574年]])の炎上を受けて[[文禄]]4年([[1595年]])に[[敦賀城|敦賀城主]]の[[大谷吉継]]によって仮宮が、更に[[慶長]]7年([[1602年]])に越前国主の[[結城秀康]]によって本宮(本殿)が造営された{{Sfn|常宮神社(平凡社)|1981|p=523-524}}。また、秀康は常宮浦(33石5斗)を社地として寄進したという{{Sfn|常宮神社(平凡社)|1981|p=523-524}}。

[[明治]]4年([[1871年]])には小浜藩から氣比神宮摂社に定められた。[[明治]]9年([[1876年]])に[[近代社格制度]]において[[県社]]に列し、明治10年([[1877年]])に[[内務省 (日本)|内務省]]から神宮の摂社に定められたが、その後神宮からは独立している{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=236}}。

=== 神階 ===
「天八百万比咩神」に対する[[神階]]奉叙の記録(比定には異説もある<ref group="注" name="天八百万比咩神"/>)。
* 六国史時代
** [[斉衡]]3年([[856年]])9月17日、官社に列す (『[[日本文徳天皇実録]]』) - 表記は「天八百万比咩神」。
** 斉衡3年(856年)9月28日、従四位下 (『日本文徳天皇実録』) - 表記は「天八百万比咩神」。
* 六国史以後
** 従二位 (『越前国内神名帳』) - 表記は「天八百万比咩大明神」。

=== 神職 ===
常宮神社には[[社家]]はなく、明治の[[神仏分離]]までは天台宗の[[社僧]]が祭祀を執行した{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=237}}。社僧の坊としては、文禄4年(1595年)の[[棟札]]では「宝蔵坊」「光乗坊」「持養坊」「乗蔵坊」「泉蔵坊」「大乗坊」の6坊が見える{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=237}}。さらに[[寛文]]元年([[1661年]])の鐘楼堂棟札では上記に加えて「成就坊」「宝泉坊」が、[[文政]]5年([[1822年]])の棟札では「円蔵坊」の記載がある{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=237}}。

以上の社僧は明治元年([[1868年]])4月に還俗して神職となったが、現在残っているのは宝蔵坊の流れを汲む宮本家のみである{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=237}}。

== 境内 ==
[[File:Jogu-jinja honden.JPG|thumb|250px|right|{{center|本殿・拝所<br />(いずれも福井県指定有形文化財)}}]]
境内は4,455坪{{Sfn|常宮神社(平凡社)|1981|p=523-524}}(約1.5ヘクタール)。主要社殿は[[江戸時代]]の再建である。うち'''本殿'''(本宮)は、江戸時代中期の[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])の再建。三間社[[流造]]で、正面(桁行)三間・側面(梁間)三間、うち手前の梁間一間分を前室とし、正面に一間の向拝を付す。屋根は古くは[[檜皮葺]]であったが、現在は銅板葺である。また身舎は円柱で、前室・向拝は角柱である。前室は身舎よりも一段低く付されており、虹梁間等には彫刻が施されている。この本殿に見られる装飾・形式については氣比神宮の旧本殿(江戸時代初期の造営、空襲で焼失)との共通点が指摘されており、神宮の両流造の後部が省略された形式であるとも考えられている。この本殿は福井県の有形文化財に指定されている。<ref name="説明板">境内説明板。</ref><ref name="本殿・拝所・中門"/>

'''拝所'''は正面一間・側面二間の四方吹き放し(壁や建具がない)の建物で、屋根は唐破風造、銅板葺である。元は氣比神宮の中門(向唐門)であり、[[昭和]]18年([[1943年]])に現在地に移築された。{{harv|『福井県神社誌』}}は[[寛永]]14年([[1637年]])に初代[[小浜藩|小浜藩主]]・[[酒井忠勝 (小浜藩主)|酒井忠勝]]の寄進によるものとするが、細部の様式から江戸時代末期の造営とみられている。'''中門'''は江戸時代中期、[[宝暦]]12年([[1762年]])の造営。正面一間・側面二間の向唐門形式の四脚門で、屋根は銅板葺である。これら拝所・中門は本殿とともに福井県の有形文化財に指定されている。<ref name="説明板"/><ref name="本殿・拝所・中門"/>{{sfn|多米.吉田(2009)|p=386-387}}

本殿の周囲には、氣比神宮と同様に'''東殿宮'''(手前東)・'''西殿宮'''(手前西)・'''総社宮'''・'''平殿宮'''(ともに奥東)の4社殿が並ぶ{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=234}}。これらは本殿と併せて「大五座」と称される{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=234}}。その他の社殿として、海に面して氣比神宮を拝する拝殿、国宝・朝鮮鐘を収める宝物庫がある。

そのほか、海際には「竜灯松」と呼ばれる大木が立つ。この松には[[元旦]]早暁に[[敦賀湾]]の海中から一団の炎([[竜灯]])が上ってとどまるといい、その灯は元日の灯明に献じられるという{{Sfn|常宮神社(平凡社)|1981|p=523-524}}。
<gallery>
File:Jogu-jinja toudengu.JPG|東殿宮
File:Jogu-jinja seidengu.JPG|西殿宮
File:Jogu-jinja soujagu.JPG|総社宮
File:Jogu-jinja heidengu.JPG|平殿宮
File:Jogu-jinja houmotsu.JPG|宝物庫
File:Jogu-jinja chumon.JPG|中門(福井県指定有形文化財)
File:Jogu-jinja haiden-1.JPG|拝殿(陸側)
File:Jogu-jinja haiden-2.JPG|拝殿(海側)
</gallery>

== 摂末社 ==
=== 式内社4社 ===
本殿西方には屋根がつながった4社があり、これらはそれぞれ式内社に比定されている。
; 天国津彦神社
:* 祭神:[[阿曇磯良|磯良大神]]<ref name="説明板"/>
:* 社格:式内社「天国津彦神社」[[論社]]<ref group="注" name="天国津彦神社">「天国津彦神社」の論社には、他に越前市の大塩八幡宮末社・天国津彦神社がある {{Harv|天國津彦神社(式内社)|1986|p=249-250}}。</ref>、越前国内神名帳「正四位 天国津彦神」論社<ref group="注" name="天国津彦神社"/>{{Sfn|天國津彦神社(式内社)|1986|p=249-250}}
: 祭神の「磯良大神」とは三韓征伐に関連する[[阿曇磯良]]を指す{{Sfn|天國津彦神社(式内社)|1986|p=249-250}}。祭神を[[吉備津彦命]]の弟の[[稚武彦命|若武命]]とする説もあるが不詳{{Sfn|天國津彦神社(式内社)|1986|p=249-250}}。
; 天国津姫神社
:* 祭神:龍女神<ref name="説明板"/>
:* 社格:式内社「天国津比咩神社(天国比咩神社)」論社<ref group="注" name="天国津比咩神社">「天国津比咩神社」の論社には、他に越前市の大塩八幡宮末社・天国津比咩神社がある {{Harv|天國津比咩神社(式内社)|1986|p=253}}。</ref>、越前国内神名帳「正四位 天国津姫神」論社<ref group="注" name="天国津比咩神社"/>{{Sfn|天國津比咩神社(式内社)|1986|p=253}}
; 天鈴神社
:* 祭神:[[住吉三神|住吉大神]]<ref name="説明板"/>
:* 社格:式内社「天鈴神社」、越前国内神名帳「正四位 天鈴神」{{Sfn|天鈴神社(式内社)|1986|p=255}}
; 伊覩神社
:* 祭神:白木彦神<ref name="説明板"/>
:* 社格:式内社「玉佐々良彦神社」、越前国内神名帳「正四位 天玉佐々良彦神」{{Sfn|玉佐々良彦神社(式内社)|1986|p=257}}
: 祭神は[[高良大社|高良玉垂命]]とも、玉佐々良彦神であるとも{{Sfn|玉佐々良彦神社(式内社)|1986|p=257}}。

『日本文徳天皇実録』によれば、天国津比咩神・天国津彦神・天鈴神・玉佐々良彦神の4神は、いずれも天八百万比咩神とともに[[斉衡]]3年([[856年]])に官社に預かって従五位下の[[神階]]に叙されている。

=== その他 ===
その他の境内社<ref name="説明板"/>{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=238}}。
* 竹生島神社 - 祭神:[[イチキシマヒメ|市杵島姫神]]
* 猿田彦神社 - 祭神:[[サルタヒコ|猿田彦神]]
* 神明神社 - 祭神:[[天照大神|天照皇太神]]、[[豊受大御神|豊受大神]]
* 稲荷神社 - 祭神:豊玉稲荷大神
* 恵比須神社<!--二御児神社か--> - 祭神:[[スサノオ|素盞嗚尊]]、恵比須大神

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File:Jogu-jinja keidaisha-1.JPG|稲荷神社(左)・恵比須神社(右)
</gallery>

== 祭事 ==
[[例祭]]は[[7月22日]]に行われ、「'''総参祭'''(そうさんさい/そうのうまいり)」と称される。氣比神宮の神々が宮司以下神職とともに常宮神社に参詣を行う祭で、氣比神宮と常宮神社の古くからのつながりを象徴する神事である。祭では、神宮の神霊が船形の神輿に遷され、御座船「神宮丸」に乗って御幸浜から出港、船中で祭典を行なったのち常宮に至る。この日は禁漁となり、御座船に奉仕すれば豊漁に恵まれるとして漁業者は小船で曳行する。その由来については、神功皇后が百官を率いて出征した伝説に基づくとする説や、陽神の気比神(伊奢沙別命)が陰神の常宮神(天八百萬比咩命)を訪問するという説がある。<ref name="由緒書"/>{{Sfn|気比神宮(神々)|1985|p=125-127}}

そのほか、明治初年までは[[放生会]]など[[八幡信仰]]に基づいた神事が行われていた{{Sfn|天八百萬比咩神社(式内社)|1986|p=237}}。

== 文化財 ==
=== 国宝 ===
[[File:Jogu Jinsha Bell (261).jpg|thumb|150px|{{center|朝鮮鐘(国宝)}}]]
* [[朝鮮鐘]](ちょうせんしょう)(工芸品)
*: 総高112.0センチメートル、口径66.7センチメートルの大型[[梵鐘]]で、胴部に天女像を陽鋳する。和鐘とは様式を異にした朝鮮鐘で、[[新羅|統一新羅]]時代の作である。「太和七年三月日菁州蓮池寺鍾成」云々の銘があるが、「[[大和 (唐)|太和(大和)]]7年」は唐の年号で[[833年|西暦833年]]にあたり、この鐘は統一新羅時代に鋳造された新羅鐘の数少ない遺品の1つに数えられる。社伝では[[文禄・慶長の役|文禄の役]]で朝鮮から持ち帰ったものであるといい、[[慶長]]2年([[1597年]])に[[豊臣秀吉]]が神功皇后の三韓征伐に因み、[[大谷吉継]]を使者として常宮神社に奉納したという。ただし、[[倭寇]]によってもたらされたとの説もある。明治33年4月7日に当時の[[古社寺保存法]]に基づき国宝に指定、昭和27年11月22日<!--23日?-->に[[文化財保護法]]に基づき国宝に指定。<ref>『週刊朝日百科 日本の国宝84』(朝日新聞社、1999)、p.9-114(解説執筆は野村英一)。</ref><ref>{{国指定文化財等データベース|201|366| 朝鮮鐘}}<br />[http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/kougei/jogujinja-chosensho.html 朝鮮鐘](福井県ホームページ)。</ref><ref name="説明板"/>

=== 福井県指定文化財 ===
* 有形文化財
** 本殿・拝所・中門(以上3棟)(建造物) - 昭和57年4月23日に本殿を指定、平成21年3月31日に拝所・中門を追加指定<ref name="説明板"/><ref name="本殿・拝所・中門">[http://info.pref.fukui.jp/bunka/bunkazai/sitei/kenzou/jougujinja-jinja.html 常宮神社 本殿・拝所・中門](福井県ホームページ)。</ref>。

== 現地情報 ==
'''所在地'''
* [[福井県]][[敦賀市]]常宮13-16

'''交通アクセス'''
* [[西日本旅客鉄道]](JR西日本)[[北陸本線]]・[[小浜線]] [[敦賀駅]]から
** 福鉄バス(常宮線立石行)で「常宮」バス停下車 (乗車時間約22分、下車後徒歩すぐ)

'''周辺'''
* 鸚鵡石(おうむいし)
*: 神社背後の[[西方ヶ岳]](さいほうがたけ)中腹にある、高さ30メートル・幅21メートルの巨岩。この石に呼びかけると人声や鳥鳴がよく返って来るので、「鸚鵡石」と名付けられたという。また「言葉石」とも呼ばれる。[[天明]]年間([[1781年]]-[[1789年]])に発見され紀行文にも詳述されることから、「常宮のオウム岩」として敦賀市指定史跡に指定されている。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''注釈'''
{{reflist|group="注"}}

'''出典'''
{{reflist|2}}

== 参考文献 ==
* 神社由緒書
* 境内説明板
* 百科事典
** [[宮地直一]]・[[佐伯有義]]監修 『神道大辞典 縮刷版』 [[臨川書店]]、1969年。
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1981|chapter=常宮神社|title=[[日本歴史地名大系]] 18 福井県の地名|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582490183|ref={{Harvid|常宮神社(平凡社)|1981}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1989|chapter=|title=[[角川日本地名大辞典]] 18 福井県|publisher=[[角川書店]]|isbn=978-4040011806|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=「常宮」|ref={{Harvid|常宮(角川)|1989年}}}}、{{Wikicite|reference=「常宮神社」|ref={{Harvid|常宮神社(角川)|1989年}}}}。
* その他書籍
** {{Cite book|和書|editor=明治神社誌料編纂所|author=|year=1912|chapter=常宮神社|title=[[府県郷社明治神社誌料]]|publisher=明治神社誌料編纂所|isbn=|ref={{Harvid|明治神社誌料|1912年}}}}
*** [{{NDLDC|1088278/698}} 『明治神社誌料 府県郷社 中』](国立国会図書館デジタルコレクション)698-699コマ参照。
** {{Cite book|和書|editor=[[谷川健一]]|author=|year=1985|chapter=|title=日本の神々 -神社と聖地- 8 北陸|publisher=[[白水社]]|isbn=4560022186|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=西村英之「気比神宮」|ref={{Harvid|気比神宮(神々)|1985}}}}、{{Wikicite|reference=西村英之「常宮神社」|ref={{Harvid|常宮神社(神々)|1985}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=式内社研究会|author=|year=1986|title=式内社調査報告 第15巻|publisher=[[皇學館大学]]出版部|page=|isbn=|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=田中完一「天八百萬比咩神社」|ref={{Harvid|天八百萬比咩神社(式内社)|1986}}}}、{{Wikicite|reference=田中完一「天國津彦神社」|ref={{Harvid|天國津彦神社(式内社)|1986}}}}、{{Wikicite|reference=田中完一「天國津比咩神社」|ref={{Harvid|天國津比咩神社(式内社)|1986}}}}、{{Wikicite|reference=田中完一「天鈴神社」|ref={{Harvid|天鈴神社(式内社)|1986}}}}、{{Wikicite|reference=田中完一「玉佐々良彦神社」|ref={{Harvid|玉佐々良彦神社(式内社)|1986}}}}。
** {{Cite book|和書|author=福井県神社庁 |title=福井県神社誌 : 御大典記念 |publisher=福井県神社庁 |year=1994 |edition=非売品 |NCID=BN11906220 |ref={{harvid|『福井県神社誌』}}}}
*** 〈原典 1936年〉{{Cite book|和書|title=福井県神社誌 |publisher=福井県神職会 |year=1936 |id={{全国書誌番号|46071333}} |doi=10.11501/1222714 |url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1222714 |quote=国立国会図書館デジタルコレクション}}
** {{Cite journal|和書|author=多米淑人, 吉田純一 |date=2009-08 |url=https://doi.org/10.57375/00001323 |title=敦賀の常宮神社の拝所・中門の建築調査報告 |journal=福井工業大学研究紀要 |ISSN=18844456 |publisher=福井工業大学 |issue=39 |pages=384-391 |doi=10.57375/00001323 |CRID=1390859238005302656 |ref={{harvid|多米.吉田(2009)}}}}

== 関連文献 ==<!--記事編集に使用していない関連文献-->
* 『気比宮社記』気比神宮、1941年。
** [{{NDLDC|1040162/117}} 『気比宮社記』](国立国会図書館デジタルコレクション)参照。

== 関連項目 ==
* [[氣比神宮]](敦賀市曙町、{{ウィキ座標|35|39|17.85|N|136|4|28.92|E|region:JP-18_type:landmark|位置|name=氣比神宮}})
* [[大塩八幡宮]]([[越前市]]) - 境内社に式内社「天八百万比咩神社」の論社。
* 常神社([[三方上中郡]][[若狭町]]) - 常宮神社との関連が指摘される。
* [[朝鮮半島から流出した文化財の返還問題]]

== 外部リンク ==
* [http://www.jinja-fukui.jp/contents/list.php?act=view&id=1784 常宮神社] - 福井県神社庁
* [http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/300901.html 天八百万比咩神社] - 國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」

== 脚注 ==

{{DEFAULTSORT:しようくうしんしや}}
[[Category:日本神話]]
[[Category:神社]]

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