狭穂彦王
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狭穂彦王(さほひこのみこ、生年不詳 - 垂仁天皇5年10月)とは、記紀における皇族(王族)。『日本書紀』では狭穂彦王、『古事記』では沙本毘古王(さほびこのみこ)。
概要
『記紀』には垂仁天皇5年に妹の狭穂姫命に天皇暗殺を試みさせるが失敗。叛乱を興すものの、追い詰められ兄妹ともに稲城の中で自殺する。この「狭穂彦王の叛乱」は、『古事記』における最も物語性の高い記述とされる。
系譜
系譜は『古事記』における記述が最も詳しく、同書によると彦坐王の子で開化天皇の孫に当たるとされる。母は春日建国勝戸売の娘である沙本之大闇見戸売で、同母の兄弟に葛野別・近淡海蚊野別の祖・袁邪本王、若狭耳別の祖・室毘古王、垂仁天皇皇后の狭穂姫命がいる。
私的解説
本伝承における垂仁天皇は太昊型神で殺害型、狭穂彦王は「妻争い」の観点から見れば非太昊型神・他人被殺人型なのだけれども、狭穂姫命の実の兄という点では太昊型神である。
古代日本では、異母兄妹の結婚は許されていたので、同姓婚すら禁忌とされる古代中国、ミャオ族の伝統では非常に忌避感が強い「兄妹婚」について、精神的な抵抗感は乏しかったように思われる。そのため、「同母兄妹」の恋愛は、現実には禁忌ではあるけれども、社会的には「禁じられた相手同士の可哀想な悲恋」くらいの意識しかなく本伝承のように、兄と妹が恋情を貫く話でも受け入れられやすかったと思われる。原則的に多夫多妻婚の社会だから、夫が天皇であっても「妻の不貞」が悪いことである、という概念はほぼ皆無と言える。