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でも物部氏系の神話では、[[石見天豊足柄姫命]]の伝承にあるように、'''大地主神と木股神'''こそが、太陽女神が倒さなければならない「干魃を起こす蛇神」だったのではないだろうか。[[クーポゥ]]老人とは、台湾原住民ルカイ族のスアブという人身御供を求める神であり、中国神話で勇敢な寄少女が倒した蛇神でもあるのだから。 | でも物部氏系の神話では、[[石見天豊足柄姫命]]の伝承にあるように、'''大地主神と木股神'''こそが、太陽女神が倒さなければならない「干魃を起こす蛇神」だったのではないだろうか。[[クーポゥ]]老人とは、台湾原住民ルカイ族のスアブという人身御供を求める神であり、中国神話で勇敢な寄少女が倒した蛇神でもあるのだから。 | ||
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== 伊奴神社 == | == 伊奴神社 == | ||
2026年3月23日 (月) 22:38時点における版
伊奴姫神(いぬひめのかみ)は、愛知県名古屋市西区稲生(いのお)町にある伊奴神社(いぬじんじゃ)の祭神である[1][2]。伊奴神社は『延喜式神名帳』の尾張国山田郡「伊奴神社」に比定されている。
目次
概要・私的解説
伊奴姫神は犬祖を持つ尾張氏(正確には犬祖を持つ葛城氏・賀茂氏の同族である尾張氏)の祖神女神の一柱と考える。中国ミャオ族は盤瓠という犬祖を持つが、この盤瓠の伝承は、「盤瓠父」、「盤瓠娘」、「盤瓠息子」という3柱の犬神を一つに纏めたものと推察され、伊奴姫神はこのうち「盤瓠娘」に相当する女神と考える。
本来は太陽女神であり、天候を順調に保つ性質がある。地上においては水神の性質もあり、開拓神としても扱われる。人身御供を求める神から人々を守る際には軍神としての性質も持つ。軍神として表される場合には、盤瓠的な神を供に連れている場合がある。盤瓠犬を発生させた再生蠱術の女神であるとも考えられる。
太陽女神としては天照大御神の起原の一つと考える。同じ葛城氏・賀茂氏の神々の中で、最も性質の近い女神は、出雲國飯石郡飯石神社などに祀られる伊毘志都幣命(いひしつべのみこと)(開拓女神、鍛冶女神など)と考える。
「犬の王」の伝承
この辺りは川に近くて洪水被害がよく起こり、山伏に祈ってもらうと、洪水が収まった。
山伏は、祈る時に使った御幣(紙製の祓い具)を、開けるなと言って置いていったのだが、村人は開けてしまった。
そこには、「犬の王」という言葉と、1匹の犬の絵が描かれていた。次の年にはまた洪水が起きてしまったので、村人が山伏に謝ると、山伏は、御幣を埋め、社を立てて祀るように、と言った。村人がその通りにしたところ、洪水はなくなった、とのことだ[3]。
大洪水を治める犬神
台湾原住民ルカイ族の伝承である。
海が増し来て人々は逃げ、山にいった。祖先のスアブが来て「自分が増水させた。自分は人身御供を求める。」と言ったので人を牲に捧げた。スアブは水を取り除いたが、わずかに残った。残った水を牝犬が飲んだが、全て飲むことはできなかった。牡犬が来て、全て飲み干した[4]。
私的解説・伊奴姫神について
伊奴神社の伝承は、修験道が盛んになった中世的な伝承で、山伏が犬神を使役して洪水を治めた、という話である。「御幣を開けるな」というのは、一般的な御幣というよりは「お札」のようなものかと思う。中に書いてあった「犬の王」という言葉が犬神に化生して洪水を治めた、ということでやや蠱術的な雰囲気を感じさせる。
「犬の王」とは、伊奴神社の祭神が女神であることから、台湾原住民ルカイ族の伝承の牝犬に相当すると考える。彼女が補助をつけずに単独で洪水を治めた、ということではないだろうか。
稲生町の地名は、出雲国秋鹿郡の伊農郷との関連があるのではないか、との指摘があり、その通りだと考える。尾張氏の系図には「荒田」という名が見え、尾張氏が葛城氏・賀茂氏系の氏族であることを示していると考える。「荒田」の名があるということは、葛城氏にかなり近い氏族といえる。
出雲国伊農郷には「赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおおすみひこさわきのみこと)」という男性形の犬神がいるとされる。おそらく彼の父神として「赤衾伊農意保須美比古佐能命」という神がいたと思われ、これは父神の「八束水臣津野命」の別名と考える。神話の上では明確にされていないが、おそらく八束水臣津野命も「犬神」であり、出雲国伊農郷に息子神、尾張国稲生町に娘神が祀られていると考える。全てが「犬神」の「犬神一家」であり、父と娘には「川を治める」という性質が持たされていたように思う。
この父娘が台湾ルカイ族の伝承の牝犬と、霊犬プヌグに相当すると考える。すなわち、中国神話の盤瓠犬を発生させた老婦人と盤瓠に相当すると考える。盤瓠は蠱術的な手法で誕生したとされており、蠱術で発生した霊物は、通常発生させた主人に従う。ということは、本来の盤瓠の主人は彼を発生させた老婦人と考えられる。ミャオ族神話の竜船祭起原の伝承と併せて考えると、老婦人は盤瓠の娘であって、彼を食べて身の内に取り込んだので(というか取り込んだからこそ)、彼女自身を媒体として新たに犬神としての盤瓠に再生させたと考えられる。
要するに、葛城氏・賀茂氏の神話における伊奴姫神は「盤瓠の娘であり再生者」、八束水臣津野命は盤瓠犬ということになる。
ところで、伊奴姫神(牝犬)とスアブとの関係はどうなるのだろうか。スアブはミャオ族神話ではクーポゥという老人に相当すると考えられる。中国神話ではこの名は河伯に相当する。人身御供を求める神である。
大蛇を退治した娘・捜神記
捜神記・巻十九に、以下のような話がある。
東越の国の山中の洞窟に巨大な大蛇が住み着いていた。大蛇は誰かの夢に現れたり、巫祝を通じて、十二、三才の少女を食べたいと要求した。大蛇による死者があまりに多く、手のほどこしようがないので、奴隷の生んだ娘や罪人の娘を探し出しては養育し、八月一日の祭の日に蛇の穴の入り口まで送っていった。そうすると大蛇は娘を飲み込んでしまうのだ。
人身御供を初めて十年目のこと、ある家に六人の娘がいて、末娘を寄といった。娘は人身御供になることを希望して、親が止めても聞き入れなかった。寄は役人に、よく切れる剣と、蛇を噛む犬が欲しい、と願い出た。八月一日になると、あらかじめ蒸した米で団子を作り、それに蜜と炒り麦の粉をまぜたものをかけ、犬を連れて洞窟の前に行くと、それを蛇の穴の前に置いた。
蛇は洞窟から出てくると、まず米団子を食べ始めた。そこに犬を放つと、犬は蛇にかみつき、寄は後ろから蛇に切りつけた。数カ所に傷を負わせたところ、蛇は穴から出てきて死んでしまった。
寄は穴の中から九人の娘の髑髏を運び出すと「あなた方は弱虫だから、蛇に食べられてしまったのよ。お気の毒なこと。」と言った。そして家に歩いて帰った。
越王はこのことを聞くと寄を后とし、家族にも報償を与えた[5]。
私的解説・犬を供にする少女
盤瓠犬を蠱術で得た女性が盤瓠犬の真の「主人」であるならば、彼女は盤瓠犬を使役して何をしたのだろうか、ということになる。盤瓠の伝承は中国でもミャオ族でも有名なのだから、その後彼がどうなったのかを示す神話もあるだろう、と思う。すなわち「犬を供に連れた女性」の伝承を探せば良いのである。そして、それが人身御供あるいは治水に関する話であれば、尚のこと良い、ということになる。台湾ルカイ族の伝承より、盤瓠犬は本当は人身御供あるいは治水に関して亡くなったのではないか、と思われるからである。そして主人の「女性」の方も、人身御供あるいは治水に関わることを行ったと思われる。台湾の伝承で、牝犬は水を飲んで洪水を治めようとするし、日本の伊奴姫神は治水の女神として扱われている感がある。
「犬を供にする少女」は、「須佐之男の八岐大蛇退治」に非常に類似しているように思う。須佐之男は犬神を供にするのではなく奇稲田姫を櫛に変えて共に戦う。細かい部分で相違があるが、これは「犬を供にする少女」の方が原型であって、主人公を少女から須佐之男に置き換えたものと考える。おそらく、この話はミャオ族神話の
という話が起原と思われ、シィウニュウが台湾伝承のスアブでもあり、「人身御供」を求める神、とされたのであろう。竜船祭の起原譚のクーポゥ老人が、中国では「河伯」(そして台湾でスアブ)と表されることから、シィウニュウはクーポゥ老人でもあったと考える。いずれも親を「人身御供」にしてしまったのではないだろうか。彼が実の父親の盤瓠を人身御供として殺すような神であり、その後も定期的に人身御供を求めるなどの行為を行ったので、再生させた盤瓠犬と供に、盤瓠娘ともいえる少女(ミャオ族神話のシャンリャン女神)がシィウニュウ(クーポゥ老人)を倒してしまったのではないだろうか。
(水)牛を倒す話が、シィウニュウあるいは須佐之男を倒す話であり、蛇を倒す話が中国神話であり八岐大蛇退治であると考える。
時代が下ると、ミャオ族はクーポゥ老人を英雄視するようになったため、シィウニュウの評価も上がることになったと考える。こうして、ミャオ族の一派が揚子江河口に移動し、沿海部沿いに山東省から日本まで進んで、葛城氏・賀茂氏へと変遷するにつれ
の対立の神話は、
- 天照大御神(天之手力男神) 対 須佐之男
と変化していったように考える。盤瓠犬と伊奴姫の父娘の関係は早々に失われ、主従としての関係が次第に強調されるようになったと考える。そして、葛城氏・賀茂氏の祖神である犬神達が、日本で再び「人の姿」で語られるようになっても、彼らの関係は比較的良く保存されていたのではないだろうか。
八色石の伝説・出雲
出雲国邑智郡邑南町八色石の龍岩神社に伝わる伝承である。
天下った出雲の八束水臣津野命の前に女神(天豊足柄姫命)が現れ、この国に八色石という巨岩があり、山河は枯れ、蛇と化して民を悩ませていると告げた。命は青民草のためにこれを滅ぼそうと思召した。姫に手引きされた八束水臣津野命が赴き、八色石を二段に切った。その首は飛び去って邑智郡の龍石となり、その尾は美濃郡の角石となった。これで災いがなくなったと姫はいたく喜んで庵に誘ってもてなした。八束水臣津野命は庵に宿をとったが、夜が明けて見たところ、その姫は忽然と岩に変わっていた。命はこれは不思議な岩を見たことだと訝しく思った。
龍石というのは、邑智郡に八色石村という駅があって、駅の荘屋・野田鹿作の家の裏山に、八色の石があったのを、神体として祀ったのが龍石である。その理由は、この石がともすれば人に祟って、よくなかったからだ。人々の嘆きが大きいので、役所が素佐鳴尊を添えて祀ったところ、祟りはなくなったとのことだ。三月三日が祭日である。山に上ること八丁、岩の形をよく見ると、蛇の頭のようである。山を下て、鳥居の前にある田中に一つの岩があるが、これは蛇を切って飛び散った血が、変化したものだという。また山に一丁上ると、川中に夫婦石とて、二つの石がある。是も血が飛び散って変化したものだと語り伝えている。[6]
私的解説・伊奴姫神と天豊足柄姫命神社他
島根県浜田市にある天豊足柄姫命神社には「神が石と化した事は根拠がなくて信ずる事が出来ない」というやや曰くありげな解説の碑文が建てられている。これは「大蛇を退治した娘」の類話であって、娘が天豊足柄姫命、供をするのが八束水臣津野命、悪しき大蛇が「干魃を起こす蛇神」とされている。ミャオ族神話と比較すれば、石に変わるのはシィウニュウなので、その役を女神の側にすり替えてしまったといえる。このような「すり替え」は日本神話だけにみられることではない。おそらく、日本で神話を書き換えてしまったのは、葛城氏・賀茂氏系の人々ではないかと思う。彼らは八岐大蛇退治の神話でも、退治する英雄を須佐之男という太昊型神に書き換えてしまっているので、その流れではないだろうか。そこに釘を刺すような解説の碑文を残したのは、物部氏系の方かもしれないと思う。おそらく、元は「神は石になっていない」と知っていたのかもしれない。
女神が石になる、という話は塗山氏女を思わせるので、その伝承も混ぜてしまっているのかもしれない。「蛇の血」があちこちに飛び散って岩や石に変化しているのは、「石信仰」を思わせる。また、ミャオ族神話のクーポゥ老人が竜神を燃やして食べた話を混在させているように思う。
また、変化した石の一つに「夫婦石」とあることから、退治されてしまった「干魃を起こす蛇神」とは「男女の一対の神」であった可能性があるように思う。この神が祟るので、「素佐鳴尊を添えて祀った」ら祟りが鎮まった、というのは、特に女神の方に祟りを起こす性質が強く、夫である須佐之男と共に祀ったら、満足して鎮まった、ということなのではないだろうか。このように見ていくと、ミャオ族のクーポゥ老人、そして、台湾の人身御供を求めるスアブという神は、かつて「男女一対の神」だった可能性があるのではないか、と考えられる。そして、彼らは「干魃を起こす神」とも考えられていたのだろう。
ともかく尾張国の伊奴姫神は、出雲では天豊足柄姫命という人型の女神だし、彼女の父親で盤瓠に相当する「供をする犬神」とは、八束水臣津野命のことだと、この伝承からも分かる。
インド神話では、干魃を起こす蛇神ヴリトラをインドラという雷神が倒す。ミャオ族神話の盤瓠が、クーポゥ老人と「同じ神」と思われるアペ・コペンと対立する雷公でもあるとすると、インドラはインド神話における盤瓠の姿ともいえる。インド神話では、ヴリトラを倒した女神の姿が省略されてしまい、供であった盤瓠が直接これを倒した、という話になってしまったのだろう。「戦う女神」は、水牛の悪魔と戦うドゥルガー女神などに代表されていくようになる。
インド神話ではヴリトラの性別は明らかになっていない。しかし、中国神話では、魃女神と応竜が蚩尤と戦い、勝ちはしたが、二人とも天に帰れなくなって地上にとどまり、魃女神は干魃を起こす神となった、とされている。黄帝を中心とした中国神話は改変が著しいのだが、魃女神の中には、日本でいう天豊足柄姫命と干魃蛇女神の両方が習合されてしまっているように思う。蚩尤が牛竜であって、ミャオ族神話のクーポゥ老人及びシィウニュウと「同じ神」で「干魃蛇神」だったとすると、干魃蛇女神は伝承によって、「干魃蛇神と戦う女神」に習合させられたり、「干魃蛇神」の方に習合させられたりしているように思う。中国神話では、彼女は「戦う女神」の方に習合させられて、干魃蛇神の一種(火的な神)である蚩尤と戦う。でも、その結果、元の姿の干魃蛇女神に戻ってしまうのだ。このように「戦う女神」が「戦いの後、その後遺症のように不吉な性質になってしまう」という後から習合させられたモチーフが天豊足柄姫命の伝承にも影響を与えて、彼女は蛇神を倒した後「石と化してしまう」という話の成立につながったのではないだろうか。このように変化させて話を進めていけば、石と化した天豊足柄姫が、また新たな「怨霊」と化して災厄を起こす、という神話を次々と作っていくことができるようになるのではないだろうか。
私的解説・名前の問題
天豊足柄姫命は「あめのとよたらしからひめのみこと」という。「から」の方の意味は良く分からない。「唐」として、中国方面からやってきた女神、という意味かもしれないし、「柄」のままで、体に何かぶち柄のような模様のある犬神、といいたかったのかもしれないと思う。干魃を起こす蛇神は、記紀神話でいうところの須佐之男に相当し、天豊足柄姫命は天照大御神、すなわち太陽女神の一形態と考えるのだが「たらし」の方は「垂」と書いて水神女神を示すものでもあると考える。治水の女神でもあるし、天候を順調にし、雨水を適切にもたらす天候神でもある。ミャオ族の盤瓠犬に天候神の性質があるのと同じである。
おそらく類する女神に、神功皇后(気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと))がいる。彼女の母親は葛城高顙媛といい、葛城氏の女性とされているので、神功皇后も葛城氏系の女神と言える。夫が亡くなった後、三韓に攻め込んだとされているので、現代的な感覚では他国を侵略するような好ましくない性質の女神なのだが、「犬を供にする少女」のように軍神的な性質を持ち、何より「夫が亡くなった後」も摂政を務めたとされ69年も生きていた、とされる。このように「たらし」と名のつく葛城氏・賀茂氏系の女神が、軍神であり長命であった、というのであれば、同じ系統の女神である天豊足柄姫命が、蛇神を倒して即日石に変じてしまった、という話は、やはり後から付け加えられたもののように思う。神功皇后は、天上の皇祖神・天照大御神の地上の代理人として、少なくとも記紀神話が作られた時代には、「ある程度理想的な現実の生きた太陽女神像」として表現された女神なのではないだろうか。
葛城氏系の「たらし」女神は、物部氏系では「垂水」のような名で表されるように思う。梁塵秘抄に「南宮大社(岐阜県不破郡垂井町)の本宮は諏訪(諏訪大社)」という伝承がある。「垂水女神」は現在の南宮大社の祭神ではないが、地名に名を残し、名を冠した小さな湧き水の泉も残る。諏訪大社上社には摂社として多留姫神社がある。梁塵秘抄には敢国神社にも祀られている、とあるが、葛城氏の勢力が当地で増すにつれて消されてしまったかもしれないと考える。信濃諏訪大社上社、美濃南宮大社、伊賀敢国神社は、もしかしたら元は物部氏系の神社で、天豊足柄姫命に類する「垂水女神」という名の「太陽女神」を主祭神として祀っていたのではないか、と推察する。こちらも当然天照大御神の原型といえよう。南宮大社は鉱山・金属業の総本宮とされるが、これは武器の製造に大きく関わる技術でもある。葛城氏系の女神では、島根県の開拓の女神でもある伊毘志都幣命(いひしつべのみこと)が祀られている地域では、古代において鍛冶も盛んであり、女神は鍛冶神も兼ねていたと思われる。女神が鍛冶神であっても不思議はないのだ。また、諏訪大社上社の祭神は軍神とされるが、天豊足柄姫命・神功皇后の例のように、こちらも「女神が軍神」であって、不思議ではないと考える[7]。
天石門別八倉比売
これは、徳島県徳島市国府町西矢野にある神社の名である。祭神は大日靈女命で、天照大御神の別名である。八倉比売は祭神の別名と言われる。すなわち、大日靈女命であり、天照大御神でもある。天石門別神は「天石門(あまのいわと)」を開けた神と言われているので、記紀神話の天之手力男神といえる。天石門別八倉比売神社には独特な神話が伝わっている。
八倉比売(天照大御神)が天石門別と供に弓矢を持ち武装して地上に降り立った。そして弓矢を放ち、落ちた場所に住むことにした。八倉比売(天照大御神)は先に天石門別を降臨させ、後に単独で地上に降りたった。
地上では大地主神(土宮・おおくにぬし)と木股神(御井神・きまたがみ)が参上し、河の魚を漁って献上し、八倉比売は鮎を食べた。八倉比売は大地主と木股神に「吾(われ)が住むのに相応しい場所に、汝らが案内せよ」と勅命を下し、先導させた。そして弓矢の落ちた場所に、家来の天石門別と共に住み、山頂を開墾して谷の水を逆流させて水田を作るなどの奇跡を起こして人々を助けた。そして、八倉比売が亡くなると大地主神と木股神が葬儀委員長を務めた。(「天石門別八倉比売神社」参照の事)
これは、葛城氏・賀茂氏系の伝承であって、朝鮮に伝わる「細烏女(せおにょ)と延烏朗(よのおらん)」の伝承に連続性のある神話と考える。記紀神話には、八咫烏という烏神が神武天皇の東征で先導を務めた、という神話があるので、「烏神」とは太陽神の先導役である、という概念があったと考えるが、八倉比売の伝承では、これが木股神と大地主神に相当すると考える。
「川の魚を漁って献上し、食べる」というのはミャオ族神話の「クーポゥ老人が竜を殺して食べた話」の類話であって、大地主神と木股神が魚を焼いてみなで食べた、というべきであろう。しかし、その中に天石門別は登場しない。なぜなら、「女神に従う随神」は神話的には盤瓠犬のことなので、彼は前世が「殺されて食べられた後」でなければ発生しない存在と思われるからである。というよりも、文脈からみれば、先に降臨した天石門別を、大地主神と木股神が魚に変えて食べてしまった、といえるような話である。しかし、中国・ミャオ族神話では、その後盤瓠犬は、主人である女性から再生されて発生したと思われるので、主人である八倉比売(天照大御神)が住処に憑く頃には、本伝承では勝手に発生して登場する。そして、「開拓の女神」であり、水神でもある八倉比売は水のない山頂に水田を作る、というような奇跡を起こす。
やがて、彼女は亡くなるわけで、石見天豊足柄姫命の伝承に見る通り、「何としても太陽女神を殺してしまいたい」という葛城氏・賀茂氏の執念が全面に出ている神話のように感じる。話の筋書きからみて、大地主神は延烏朗でありクーポゥ老人であり、鴨建角身命であるように思う。木股神は細烏女であり「太陽を招日した少女」であり葛姫と考える。結論からいえば、葛城氏・賀茂氏は「太陽女神の臣下」という体裁をとって、一族の神話から太陽女神を削除しようと目論んだ氏族といえるのではないだろうか。なので、葛城氏・賀茂氏の本来の「太陽女神」は各地にわずかしか残されておらず、消え去る直前までのように形骸化させられてしまっているのだと考える。
でも物部氏系の神話では、石見天豊足柄姫命の伝承にあるように、大地主神と木股神こそが、太陽女神が倒さなければならない「干魃を起こす蛇神」だったのではないだろうか。クーポゥ老人とは、台湾原住民ルカイ族のスアブという人身御供を求める神であり、中国神話で勇敢な寄少女が倒した蛇神でもあるのだから。
こうして、伝統的な「犬神を供に連れた太陽女神が倒した干魃を起こす(蛇)神」は、特に日本神話で顕著なのだけれども「太陽女神を先導する臣下の神」の性質をどこかで獲得して、「敵である神話」と「臣下である神話」に2分されてしまうように思う。「臣下であり先導役でもある」という性質は記紀神話では「猿田彦と天宇受賣命」に受け継がれていくように思う。そして、天照大御神の敵の地位にいた須佐之男もまた、臣下として地上に君臨していくことになるのである。
伊奴神社
伊奴(イヌ)という名にちなみ本殿の前には犬石像があり、戌年生まれの人や愛犬家に親しまれ、特に戌年の元日は大勢の参拝者が訪れる[8]。
歴史
近世まで熊野権現と称していた。社伝によれば、天武天皇(白鳳)2年(673年)、この地で取れた稲を皇室に献上した際に社殿を建立したと伝えられる[9]。神鏡が12枚伝わっているという。周辺には「稲生遺跡」と呼ばれる遺跡があり、古代から中世の須恵器などが出土している。
最も古い棟札として永享2年(1430年)のものがあったとされる。文明2年(1470年)の棟札には以下のようにある[10]。
奉造立天照大神御殿 大檀那尾州山田稲生住人源朝臣 祢宜大夫 藤原安重(文明二年棟札)
元禄年間の棟札には、以下のように「熊野明神」と「稲生明神」が併記されており、古くは熊野権現と稲荷を祀っていた可能性が指摘されている[11]。
奉崇秘稲生明神 倉稲魂神稚産霊神 保食神霊 慎而之改(元禄八年棟札)
奉崇秘熊野明神 伊弊並神早玉男神 天熊人神 事解男神 慎而之改(元禄八年棟札)
江戸前期成立の『寛文村々覚書』には「稲生村...熊野権現 社内年貢地」とある[12]。幕末まで山田家が社人を務めていたという[13]。
江戸中期に天野信景によって『延喜式神名帳』の山田郡「伊奴神社」に比定され、以降は定説となった。所在地が稲生村で「伊奴」に類似していることから当社に比定したものとみられる。『尾張国内神名帳』には「従三位上 伊奴天神」とある[14][15]。津田正生らは、本来の伊奴神社は当社の相殿に祀られていた天神であるという説を述べている。『尾張志』では、熊野権現は中古まで単なる末社であったが、荒廃して本社の中に祀ったところそれが本神として扱われるようになったと考察している。また、出雲国秋鹿郡に「伊農郷」「伊奴社」など当社と同名の地名・神社が存在したことが『出雲国風土記』に記録されており、当社と関連する可能性を指摘している。
祭神
- 主神
- 相殿
境内神社
神事
その他
安産祈願、子授け・夫婦円満・家内安全祈願の神社として知られ、安産祈祷の後に境内の犬石像の前で、安産祈願を行う。
参考文献
- Wikipedia:伊奴神社(最終閲覧日:26-03-21)
- 西春日井郡, 西春日井郡誌, 西春日井郡, 1923, 1923-3
- 山田寂雀, 西岡寿一, 西区の歴史, 愛知県郷土資料刊行会, 983, isbn:4-87161-011-X
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会, 1989, 1989-03-08, 角川日本地名大辞典 23 愛知県, 角川書店, isbn:4-04-001230-5
- 有限会社平凡社地方資料センター, 愛知県の地名 日本歴史地名大系 23, 平凡社, 1993, 1993-01-11, isbn:4-582-49023-9
関連項目
- 盤瓠:伊奴姫は「盤瓠娘型」の女神である。
脚注
- ↑ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会, 1989, p177
- ↑ 有限会社平凡社地方資料センター, 1993, p127
- ↑ ユニークな神社 in 名古屋(いぬ神社・ひつじ神社)、2021-04-27、 2021Shima.A、最終閲覧日(26-03-21)
- ↑ ルカイ族下三社群マガ社、神々の物語、台湾原住民文学選5、神村徹編、草風館、2006年8月1日出版、p96-97
- ↑ 大蛇を退治した娘、捜神記・巻十九、干宝、竹田晃訳、平凡社、2000年1月24日、p569-572
- ↑ 浜田古事抜粋より独酔園独醒『石見海底能伊久里』に引用されたものを要約した。
- ↑ 現在の多留姫神社は橋の下の小さな神社で、かなり橋姫的な扱いを受けている気がする。でも先住守矢氏(ということは、現実的には物部氏、ということ)の女神なので、本来の上社の祭神が彼女であっても、不思議ではない、と個人的には考える。
- ↑ 「いぬ」神社、大忙し 巫女2倍、お守り10倍を準備, https://www.asahi.com/articles/ASKDC00BJKDBOIPE00G.html, 朝日新聞社, 2017-12-21, 2018-01-01
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 http://www.inu-jinjya.or.jp/yuisho/index.html, 伊奴神社の御由緒, 伊奴神社, 2018-01-01
- ↑ 名古屋郷土文化会, 1984, p1-2
- ↑ 名古屋郷土文化会, 1984, p1-2
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- ↑ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会, 1989, p177
- ↑ 有限会社平凡社地方資料センター, 1993, p127
- ↑ 西春日井郡, 1923, p317
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- ↑ 西春日井郡, 1923, p317
- ↑ 西春日井郡, 1923, p317
- ↑ http://www.inu-jinjya.or.jp/event/tamanushi.html, 玉主稲荷大祭, 伊奴神社, 2018-01-01
- ↑ http://www.inu-jinjya.or.jp/event/shinzi.html, 茅輪神事, 伊奴神社, 2018-01-01
- ↑ 30.0 30.1 http://www.inu-jinjya.or.jp/event/reitaisai.html, 例大祭, 伊奴神社, 2018-01-01
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