『信重解状』においては、諏訪明神が神宝を携えて天から守屋山に降ったとされている。これとニニギ(天孫降臨)や[[邇芸速日命]]の天降り神話との類似点が指摘されている<ref>伊藤富雄『伊藤富雄著作集 第6巻 上代及び中世の山浦地方その他』伊藤麟太朗 編、甲陽書房、1963年、444-445頁。</ref>。'''真澄の鏡'''(銅鏡)・'''八栄の鈴'''・唐鞍・轡を持参して降臨する諏訪明神が、諏訪に横穴石室古墳文化と飼馬技術を持ってきた人々の姿と重なるという見解もある<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、683頁。</ref><ref>宮坂光昭「第二章 強大なる神の国」『御柱祭と諏訪大社』 筑摩書房、1987年、33頁。</ref>(ただし、現存する上社の神宝のほとんどが奈良・平安時代のものである)。
『画詞』よりも100年以上前に成立していたことから、『信重解状』に書かれている内容は鎌倉中期以前の諏訪上社の在り方や伝承を知る手掛かりになる重要な史料と評価された<ref> 諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、813-814頁。</ref>。しかし、提出先が「御奉行所」になっていること(宝治年間以前に「御奉行所」を宛先とする訴状はない)、箇条書きで祭祀の由来を詳しく説明していること(これは鎌倉時代の訴状にしては不自然)、またはほぼ同時期に書かれた『[[広疑瑞決集]]』([[建長]]8年・1256年)には見られない、つまり時代にしてはかなり進んでいる殺生功徳論([[殺生]]は[[成仏]]の[[方便]]という理論、[[タケミナカタ#狩猟・農耕の神として|詳細は後述]])が出てくることなどという不可解な点が多いため、『信重解状』を後世の偽作とする見解もある。しかし、提出先が「御奉行所」になっていること(宝治年間以前に「御奉行所」を宛先とする訴状はない)、箇条書きで祭祀の由来を詳しく説明していること(これは鎌倉時代の訴状にしては不自然)、またはほぼ同時期に書かれた『広疑瑞決集』(建長8年・1256年)には見られない、つまり時代にしてはかなり進んでいる殺生功徳論(殺生は成仏の方便という理論)が出てくることなどという不可解な点が多いため、『信重解状』を後世の偽作とする見解もある<ref>中澤克昭「『広疑瑞決集』と殺生功徳論」『諏訪信仰の歴史と伝承』二本松康宏編、三弥井書店、2019年、50-51頁。</ref>。
====藤と鉄====『信重解状』には諏訪明神と守屋大臣が「藤鎰」と「鉄鎰」を持ち出し、「懸此処引之(此処に懸けて之を引く)」とある。『解状』本文では「{{読み仮名|鎰|イツ}}」に「ヤク」と振り仮名をしてあるため、「鑰([[鉤]]、かぎ)」の代用字と考えられる『信重解状』には諏訪明神と守屋大臣が「藤鎰」と「鉄鎰」を持ち出し、「懸此処引之(此処に懸けて之を引く)」とある。『解状』本文では「鎰(イツ)」に「ヤク」と振り仮名をしてあるため、「鑰(鉤、かぎ)」の代用字と考えられる<ref name="hosoda1718">細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』[[ほおずき書籍]]、2003年、17細田貴助『県宝守矢文書を読む―中世の史実と歴史が見える』ほおずき書籍、2003年、17-18頁。</ref>。つまり、この文は「明神と守屋は土地(守屋の所領)に鉤を引っ掛けて[[綱引き]]のように引き合った」と解釈できる。つまり、この文は「明神と守屋は土地(守屋の所領)に鉤を引っ掛けて綱引きのように引き合った」と解釈できる<ref name="#5">福田晃、二本松康宏、徳田和夫編『諏訪信仰の中世―神話・伝承・歴史』三弥井書店、2015年、122頁。</ref>。ほかには、「鎰(ここでは祭祀権を象徴する「鍵」と解されている)」での引き合いは「祭祀権の争奪戦」を表しているという見解や<ref>原正直「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』山本ひろ子編、国書刊行会、2018年、155-157頁。</ref>、「鎰」による争いを「呪術比べ」を象徴するという見方もある<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、686, 690頁。</ref>。
前述の通り、『画詞』では「藤鎰・鉄鎰」が「藤の枝・鉄輪」に変わっている。これは、『画詞』が書かれた時代には「藤鎰」と「鉄鎰」がどのようなもので、それによってどのような葛藤があったのか分からなくなったためと考えられる<ref name="#5"/>。「輪」を「鑰」の誤字(写し間違い)とする説もある<ref name="hosoda1718"/>。