前述の通り、『画詞』では「藤鎰・鉄鎰」が「藤の枝・鉄輪」に変わっている。これは、『画詞』が書かれた時代には「藤鎰」と「鉄鎰」がどのようなもので、それによってどのような葛藤があったのか分からなくなったためと考えられる<ref name="#5"/>。「輪」を「鑰」の誤字(写し間違い)とする説もある<ref name="hosoda1718"/>。
神話上の「鉄鎰(鉄鑰・鉄輪)」は、上社に伝わる'''鉄鐸'''(さなぎの鈴)を表し、これらが守矢氏が製鉄に関わった氏族で、やはり鍛冶技術に長じた物部氏とは何らかの関係があったことを示唆するという見解もある<ref>原正直「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』山本ひろ子編、国書刊行会、2018年、156-157頁。</ref>。守屋山中にも鍛冶場の跡と思われる「{{読み仮名|鋳物師|いもじ}}ヶ釜」の地名が残っている。守屋山中にも鍛冶場の跡と思われる「鋳物師(いもじ)ヶ釜」の地名が残っている<ref>原正直 「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』 山本ひろ子、2018年、157-158頁。</ref>。この諏訪と鉄の関係を暗示させる事例から、[[真弓常忠]]はタケミナカタを製鉄の神とし、明神と洩矢神の争いをスズ([[褐鉄鉱]])から[[砂鉄]]への製鉄技法の進歩、すなわち新旧文化の対決を意味すると解釈していた。この諏訪と鉄の関係を暗示させる事例から、真弓常忠は建御名方神を製鉄の神とし、明神と洩矢神の争いをスズ(褐鉄鉱)から砂鉄への製鉄技法の進歩、すなわち新旧文化の対決を意味すると解釈していた<ref>真弓常忠「鉄輪と藤枝―「諏訪大明神絵詞」の意味するもの―」『皇学館大学紀要』18、1980年、85-94頁。</ref>。
一方、諏訪明神が手にしていた「藤」は明神自身の表象ともみられる。[[山本ひろ子]](2016年)は、凄まじい繁茂力のある藤とそれへの強い畏怖こそが入諏神話の発祥を解く鍵とし、「〔[[天竜川]]の〕両岸からせめぎあう藤の「抗争」(絡み合い)と、土着神(守矢一族)と今来の神(神氏一族)の「抗争」。どちらか一方なくしては、こうした所伝は生まれ得なかったし、命脈を保てなかったろう」と主張している<ref>山本ひろ子「中世諏訪社の一考察 : 失われた芸能と伝承を求めて」『東西南北 : 和光大学総合文化研究所年報 2016』、2016年、215-211頁。</ref>。