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入諏神話をもとに守矢氏を土着の勢力集団と考えるのが一般的だが、外部から流入してきたという説もある。[[物部守屋]]の次男が[[丁未の乱]](587年)の後に守屋山に忍んで、のちに守矢氏に養子入りしたという伝承があり、守屋山の南麓(伊那市高遠町藤澤区片倉)にある守屋神社の膝元には物部守屋の子孫と名乗る家が多く存在することから、守矢氏を物部氏の支流<ref>原田実「守矢家文書」『偽書が描いた日本の超古代史』河出書房新社、2018年、76-82頁。</ref>、あるいは物部氏と親近関係にあった在地勢力としてみる説がある<ref name="hara148154">原正直 「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』 山本ひろ子、2018年、148-154頁。</ref>。ただし、守矢氏を神氏よりも前に諏訪の先住部族を征服して、物部守屋の末裔と名乗る勢力とは無関係かつ対立的でありながらその伝承を半ば意図的に利用した氏族とする見方もある<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、129-134頁。</ref>。
====造作説====
入諏神話は史実を反映しているという説は今やほぼ定説となっているが、中世に流布していた他の説話に影響された、あるいは中世説話をもとにして創作されたのではないかという意見も近年になって現れている。
[[井原今朝男]](2008年)は、中世の頃には『古事記』や六国史は安易に講読できない史料であったことから、中世前期の文献に見られる「諏訪縁起」は『古事記』や『日本書紀』の影響なしに新たに編纂されたものであるという井原今朝男(2008年)は、中世の頃には『古事記』や六国史は安易に講読できない史料であったことから、中世前期の文献に見られる「諏訪縁起」は『古事記』や『日本書紀』の影響なしに新たに編纂されたものであるという<ref name="ihara162"/>。
青木隆幸(2012年)は、入諏神話は諏訪の神に「軍神」という新たな性格が追加された際(平安末期以降)に作られたという説を挙げており、この説話を考古学的知見と結びつけようとする見解を批判している<ref>青木隆幸「中世的神話世界の形成―諏訪上社大祝と『諏訪大明神絵詞』をめぐって―」『長野県立歴史館研究紀要』18、2012年、26-31頁。</ref>。
『信重解状』における入諏神話に洩矢神が「守屋大臣」として出てくる。また、『神氏系図(前田家本)』序文にも諏訪明神と初代大祝が「守屋」と争ったのは[[用明天皇]]の時代であったとあるが、これは丁未の乱が勃発した時代と符合する。このことから、入諏神話は中世に広く流布していた[[聖徳太子]]にまつわる伝承の影響を受けている『信重解状』における入諏神話に洩矢神が「守屋大臣」として出てくる。また、『神氏系図(前田家本)』序文にも諏訪明神と初代大祝が「守屋」と争ったのは用明天皇の時代であったとあるが、これは丁未の乱が勃発した時代と符合する。このことから、入諏神話は中世に広く流布していた聖徳太子にまつわる伝承の影響を受けている<ref name="ihara162">井原今朝男「鎌倉期の諏訪神社関係史料にみる神道と仏道:中世御記文の時代的特質について」、『国立歴史民俗博物館研究報告』第139巻、国立歴史民俗博物館、2008年、161-162頁。</ref>、あるいは聖徳太子伝説をもとにして造作された<ref>原田実「守矢家文書」『偽書が描いた日本の超古代史』河出書房新社、2018年、81頁。</ref>という説が挙げられている。
====『信重解状』について====『信重解状』においては、諏訪明神が神宝を携えて天から守屋山に降ったとされている。これと『信重解状』においては、諏訪明神が神宝を携えて天から守屋山に降ったとされている。これとニニギ(天孫降臨)や[[ニニギ]]([[天孫降臨]])や[[ニギハヤヒ邇芸速日命]]の天降り神話との類似点が指摘されている<ref>伊藤富雄『伊藤富雄著作集 第6巻 上代及び中世の山浦地方その他』伊藤麟太朗 編、甲陽書房、1963年、444-445頁。</ref>。'''[[真澄の鏡]]'''([[銅鏡]])・(銅鏡)・'''[[八栄の鈴]]'''・[[鞍|唐鞍]]・[[轡]]を持参して降臨する諏訪明神が、諏訪に横穴石室古墳文化と飼馬技術を持ってきた人々の姿と重なるという見解もある・唐鞍・轡を持参して降臨する諏訪明神が、諏訪に横穴石室古墳文化と飼馬技術を持ってきた人々の姿と重なるという見解もある<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、683頁。</ref><ref>宮坂光昭「第二章 強大なる神の国」『御柱祭と諏訪大社』 筑摩書房、1987年、33頁。</ref>(ただし、現存する上社の神宝のほとんどが[[奈良時代|奈良]]・[[平安時代]]のものである)。(ただし、現存する上社の神宝のほとんどが奈良・平安時代のものである)。
『画詞』よりも100年以上前に成立していたことから、『信重解状』に書かれている内容は鎌倉中期以前の諏訪上社の在り方や伝承を知る手掛かりになる重要な史料と評価された<ref> 諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、813-814頁。</ref>。しかし、提出先が「御奉行所」になっていること(宝治年間以前に「御奉行所」を宛先とする訴状はない)、箇条書きで祭祀の由来を詳しく説明していること(これは鎌倉時代の訴状にしては不自然)、またはほぼ同時期に書かれた『[[広疑瑞決集]]』([[建長]]8年・1256年)には見られない、つまり時代にしてはかなり進んでいる殺生功徳論([[殺生]]は[[成仏]]の[[方便]]という理論、[[タケミナカタ#狩猟・農耕の神として|詳細は後述]])が出てくることなどという不可解な点が多いため、『信重解状』を後世の偽作とする見解もある<ref>中澤克昭「『広疑瑞決集』と殺生功徳論」『諏訪信仰の歴史と伝承』二本松康宏編、三弥井書店、2019年、50-51頁。</ref>。

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