古墳時代中期(5世紀前半)に守屋山の麓(上社本宮の近く)にはフネ古墳が築造された。千曲川中流域や伊那谷の古墳群(この内千曲川中流域の埴科古墳群は科野国造勢力のものと思われる)とは異なり竪穴式墳墓や'''土器'''を特徴としているため、諏訪と上伊那地方を支配する強大な豪族によって作られたものと考えられている。また、この古墳から出土した[[蛇行剣]]と鹿角製品は諏訪上社の龍蛇信仰や狩猟儀礼と関係があると考えられている<ref>大庭祐輔『竜神信仰: 諏訪神のルーツをさぐる』論創社、2006年、62-63頁。</ref><ref name="#1"/><ref name="#4">寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、95頁。</ref>。フネ古墳より少し後に諏訪湖周辺に同じタイプの古墳が築造されるが、6世紀後半に下伊那の横穴式古墳文化(馬具の副葬品が特徴)が諏訪にも見られるようになり、在地型の墳墓に取って代わる。このことから、伊那谷から諏訪への馬飼集団の移動があったと推測される<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、66-67, 135頁。</ref>。
この移動した部族を金刺氏とする説はあるが<ref>諏訪市史編纂委員会 編『諏訪市史 上巻 (原始・古代・中世)』1995年、692、694頁。</ref>、伊那谷の古墳は一つの様式で占められず、いろんなタイプがあるという指摘もある。つまり、伊那谷には一つの氏族ではなく、文化の異なるいくつかの集団([[畿内]]の[[豪族]]とそれに結び付いた在地勢力)が存在したとも考えられる。この中に、神氏となる氏族がいたのかもしれないのである。ただしこの時期に畿内より豪族が移遷したとする文献は存在せず、また在地豪族として、伊那谷の古墳は一つの様式で占められず、いろんなタイプがあるという指摘もある。つまり、伊那谷には一つの氏族ではなく、文化の異なるいくつかの集団(畿内の豪族とそれに結び付いた在地勢力)が存在したとも考えられる。この中に、神氏となる氏族がいたのかもしれないのである。ただしこの時期に畿内より豪族が移遷したとする文献は存在せず、また在地豪族として[[阿智祝部]]氏が見られる。一説では、伊那谷から進出した神氏(=ミワ氏)は『[[和名抄]]』では「美和郷」{{efn|現在の[[箕輪町|箕輪(みのわ)町]]の地名はその名残か。}}といわれていた上伊那を一旦本拠とし、そこから天竜川を遡って現在の[[岡谷市]]から諏訪盆地に入った氏が見られる。一説では、伊那谷から進出した神氏(=ミワ氏)は『和名抄』では「美和郷」<ref>現在の箕輪(みのわ)町の地名はその名残か。</ref>といわれていた上伊那を一旦本拠とし、そこから天竜川を遡って現在の岡谷市から諏訪盆地に入った<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、134-136頁。</ref>。
入諏神話をもとに守矢氏を土着の勢力集団と考えるのが一般的だが、外部から流入してきたという説もある。[[物部守屋]]の次男が[[丁未の乱]](587年)の後に[[守屋山]]に忍んで、のちに守矢氏に養子入りしたという伝承があり、守屋山の南麓([[伊那市]][[高遠町]]藤澤区片倉)にある守屋神社の膝元には物部守屋の子孫と名乗る家が多く存在することから、守矢氏を物部氏の支流(587年)の後に守屋山に忍んで、のちに守矢氏に養子入りしたという伝承があり、守屋山の南麓(伊那市高遠町藤澤区片倉)にある守屋神社の膝元には物部守屋の子孫と名乗る家が多く存在することから、守矢氏を物部氏の支流<ref>原田実「守矢家文書」『偽書が描いた日本の超古代史』河出書房新社、2018年、76-82頁。</ref>、あるいは物部氏と親近関係にあった在地勢力としてみる説がある<ref name="hara148154">原正直 「守屋山の習俗と伝承」『諏訪学』 山本ひろ子、2018年、148-154頁。</ref>。ただし、守矢氏を神氏よりも前に諏訪の先住部族を征服して、物部守屋の末裔と名乗る勢力とは無関係かつ対立的でありながらその伝承を半ば意図的に利用した氏族とする見方もある<ref>寺田鎮子、鷲尾徹太『諏訪明神―カミ信仰の原像』岩田書院、2010年、129-134頁。</ref>。
====造作説====