'''忌部氏'''のち'''斎部氏'''('''いんべうじ''')は、古代朝廷における祭祀を担った[[氏族]]。)は、古代朝廷における祭祀を担った氏族。[[天太玉命]]を祖とする流れと、[[天日鷲命]]を祖とする流れ(阿波忌部)、[[天道根命]]を祖とする流れ(紀伊忌部、讃岐忌部)の三種が有名で、いずれも[[神別]]([[天津神・国津神|天神]])に分類される。本項では、[[部民]]としてのを祖とする流れ(紀伊忌部、讃岐忌部)の三種が有名で、いずれも神別(天神)に分類される。本項では、部民としての'''[[#忌部|忌部]]'''(いんべ)についても解説する。 __TOC__{{-}}
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氏族名の「忌(いむ)」が「[[ケガレ]]を忌む」すなわち「斎戒」を意味するように、古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族である。古代日本には各地に[[部民]]としての「忌部」が設けられていたが、狭義にはそれらを率いた中央氏族の忌部氏を指し、広義には率いられた部民の氏族も含める。氏族名の「忌(いむ)」が「ケガレを忌む」すなわち「斎戒」を意味するように、古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族である。古代日本には各地に部民としての「忌部」が設けられていたが、狭義にはそれらを率いた中央氏族の忌部氏を指し、広義には率いられた部民の氏族も含める。
中央氏族としての忌部氏は、記紀の[[天岩戸]]神話にも現れる[[フトダマ|天太玉命]]を祖とする。現在の[[奈良県]][[橿原市]]忌部町周辺を根拠地とし、各地の忌部を率いて[[中臣氏]]とともに古くから朝廷の祭祀を司った。「[[延喜式]]」にある[[祝詞]]には「御殿(おほとの)御門(みかど)等の祭には齋部氏の祝詞を申せ、 を祖とする。現在の奈良県橿原市忌部町周辺を根拠地とし、各地の忌部を率いて中臣氏とともに古くから朝廷の祭祀を司った。「延喜式」にある祝詞には「御殿(おほとの)御門(みかど)等の祭には齋部氏の祝詞を申せ、 以外の諸の祭には、 中臣氏の祝詞を申せ」とあり、現在の[[中臣祭文]]とは別格であったことが窺える。中臣氏の祝詞を申せ」とあり、現在の中臣祭文とは別格であったことが窺える。
しかしながら、[[奈良時代]]頃から勢力を増長した中臣氏に地位は押されぎみとなり、固有の職掌にも就けない事態が増加していた。[[平安時代]]前期には、氏を忌部から「斎部」と改めたのち、[[斎部広成]]により『[[古語拾遺]]』が著された。しかし勢いを大きく盛り返すことはなく、祭祀氏族の座は中臣氏・[[大中臣氏]]に占有された。