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ページの作成:「'''忌部氏'''のち'''斎部氏'''('''いんべうじ''')は、古代朝廷における祭祀を担った氏族天太玉命を祖とする流れと、…」
'''忌部氏'''のち'''斎部氏'''('''いんべうじ''')は、古代朝廷における祭祀を担った[[氏族]]。[[天太玉命]]を祖とする流れと、[[天日鷲命]]を祖とする流れ(阿波忌部)、[[天道根命]]を祖とする流れ(紀伊忌部、讃岐忌部)の三種が有名で、いずれも[[神別]]([[天津神・国津神|天神]])に分類される。本項では、[[部民]]としての'''[[#忌部|忌部]]'''(いんべ)についても解説する。

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== 概要 ==<!--概要節の内容はあとの節で詳述して出典を明記。代わりに概要節では読みやすさを優先して出典省略。-->
氏族名の「忌(いむ)」が「[[ケガレ]]を忌む」すなわち「斎戒」を意味するように、古代朝廷の祭祀を始めとして祭具作製・宮殿造営を担った氏族である。古代日本には各地に[[部民]]としての「忌部」が設けられていたが、狭義にはそれらを率いた中央氏族の忌部氏を指し、広義には率いられた部民の氏族も含める。

中央氏族としての忌部氏は、記紀の[[天岩戸]]神話にも現れる[[フトダマ|天太玉命]]を祖とする。現在の[[奈良県]][[橿原市]]忌部町周辺を根拠地とし、各地の忌部を率いて[[中臣氏]]とともに古くから朝廷の祭祀を司った。「[[延喜式]]」にある[[祝詞]]には「御殿(おほとの)御門(みかど)等の祭には齋部氏の祝詞を申せ、 以外の諸の祭には、 中臣氏の祝詞を申せ」とあり、現在の[[中臣祭文]]とは別格であったことが窺える。

しかしながら、[[奈良時代]]頃から勢力を増長した中臣氏に地位は押されぎみとなり、固有の職掌にも就けない事態が増加していた。[[平安時代]]前期には、氏を忌部から「斎部」と改めたのち、[[斎部広成]]により『[[古語拾遺]]』が著された。しかし勢いを大きく盛り返すことはなく、祭祀氏族の座は中臣氏・[[大中臣氏]]に占有された。

部民としての忌部には、朝廷に属する公務員である[[品部]](ともべ /しなべ=公的な職業集団)と、忌部氏の私有民である[[部曲]](かきべ)の2種類が存在していた。事績が少なくなっていった中央氏族の齋部とは異なり、品部である各地の忌部には、玉を納める[[出雲]]、木を納める[[紀伊]]、木綿・麻を納める[[阿波]]、盾を納める[[讃岐]]などがあった。それらの品部の部民も後に忌部氏を名乗ったことが文献に見られている。こうした地方氏族は随所に跡を残している。

== 出自 ==
『[[古事記]]』や『[[日本書紀]]』では、[[天岩戸]]の神話において'''[[フトダマ|天太玉命]]'''(あめのふとだまのみこと)と[[天児屋命]](あめのこやねのみこと)が祭祀関係に携わったことが記され、両神は[[天孫降臨]]においてもともに付き従っている。そのうち天太玉命が忌部氏の祖、天児屋命が[[中臣氏]]の祖とされ、両氏は記紀編纂当時の朝廷の祭祀を司っていた。なお、記紀では天児屋命の方が天太玉命よりも重要な役割を担っているが、これは編纂当時の中臣氏と忌部氏の勢力差を反映しているとされる。逆に忌部氏側の『[[古語拾遺]]』ではその立場は逆転している。

天太玉命の出自については、『古語拾遺』では天太玉命は[[タカミムスビ|高皇産霊神]](たかみむすびのかみ)の子であるとし、『[[新撰姓氏録]]』でもこれにならうが、『古事記』や『日本書紀』に出自の記載はなく真偽は明らかでない。

== 歴史 ==
*'''中央氏族としての忌部氏のみを記載'''
忌部氏は、[[5世紀]]後半から[[6世紀]]前半頃にその地位を確立したとされ{{Sfn|忌部氏(世界大百科)}}、当初は「忌部[[カバネ|首]](おびと)」を名乗った{{Sfn|忌部氏(国史)}}。[[大和国]][[高市郡]]金橋村忌部(現 [[奈良県]][[橿原市]]忌部町)を[[本貫]](根拠地)とし{{Sfn|忌部氏(国史)}}、現在も祖神の天太玉命を祀る[[天太玉命神社]]([[式内社|式内]][[名神大社]])が残る。また、出雲・紀伊・阿波・讃岐等に設置されていた[[品部]]を掌握して物資を徴収したほか、祭具の作製や神殿・宮殿造営に携わった。

人物の初見は『[[日本書紀]]』[[大化]]元年([[645年]])条<ref group="原">『日本書紀』大化元年(645年)7月庚辰(14日)条。</ref>で、忌部首子麻呂が神幣を賦課するため[[美濃国]]に遣わされた{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。[[天武天皇]]元年([[672年]])<ref group="原">『日本書紀』天武天皇元年(672年)7月壬辰(3日)条。</ref>の[[壬申の乱]]に際しては、[[忌部子人|忌部首子人]](首または子首とも)は将軍[[大伴吹負]]に属し、荒田尾直赤麻呂とともに大和の古京を守備した{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。天武天皇9年([[680年]])<ref group="原">『日本書紀』天武天皇9年(680年)正月甲申(8日)条。</ref>には、子人は弟の[[忌部色夫知|色弗]](色夫知/色布知)とともに[[連]](むらじ)の[[カバネ]]を賜った{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。さらに天武天皇13年([[684年]])<ref group="原">『日本書紀』天武天皇13年(684年)12月己卯(2日)条。</ref>には、他の連姓の50氏族とともに[[宿禰]](すくね)のカバネを授かった{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。[[持統天皇]]4年([[690年]])<ref group="原">『日本書紀』持統天皇4年(690年)正月戊寅朔(1日)条。</ref>には持統天皇の即位にあたって色弗が神璽の剣・鏡を奉じ{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}、[[慶雲]]元年([[704年]])<ref group="原">『続日本紀』慶雲元年(704年)11月庚寅(8日)条。</ref>には子人が[[奉幣|伊勢奉幣使]]に任じられた。

その後は中臣氏とともに伊勢奉幣使となる例となったが、次第に中臣氏の勢力に押され、奉幣使補任は減少した{{Sfn|忌部氏(国史)}}。そのため[[天平]]7年([[735年]])<ref group="原">『続日本紀』天平7年(735年)7月庚辰(27日)条。</ref>に忌部宿禰虫名・鳥麻呂らは忌部氏を奉幣使に任じるよう訴え、訴えは認められた{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。しかし[[天平勝宝]]9歳([[757年]])6月<ref group="原">『続日本紀』天平宝字元年(757年)6月乙未(19日)条。</ref>には中臣氏だけが任じられ他姓を認めないこととなった{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}<ref group="注">ただし、天平宝字年間(757年-765年)には忌部宿禰人成・呰麻呂らが奉幣使に任じられており、その後も忌部氏側から訴えがあったものと見られている({{Harvnb|忌部氏(国史)}}, {{Harvnb|忌部氏(古代氏族)|2010年}})。</ref>。その後は中臣氏(のち[[大中臣氏]])の他氏排斥が著しくなり、忌部氏固有の職掌にさえ就けない例が生じることとなった{{Sfn|忌部氏(国史)}}。

[[延暦]]22年([[803年]])<ref group="原">『日本逸史』延暦22年(803年)3月乙丑(14日)条([{{NDLDC|991096/56}} 『国史大系 第6巻 日本逸史・扶桑略記』]<国立国会図書館デジタルコレクション>56コマ参照)。</ref>には忌部宿禰浜成の申請によって「'''斎部'''」と名を改めた{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。中臣氏との争いは、[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])<ref group="原">『日本後紀』大同元年(806年)8月庚午(10日)条。</ref>には「両氏相訴」という事態にまで発展し、同年の勅命により祈祷は両氏、常祀以外の奉幣使も両氏を公平に用いることと定められた{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。そして大同2年([[807年]])には'''[[斎部広成]]'''によって'''『[[古語拾遺]]』'''が著され、斎部氏の伝統と中臣氏批判がなされた{{Sfn|忌部氏(古代氏族)|2010年}}。

しかし以後も斎部氏は中臣氏の勢力に押され、歴史の表舞台には見えなくなる。なお[[弘仁]]6年([[815年]])の『[[新撰姓氏録]]』では、[[神別]]([[天津神・国津神|天神]])に「斎部宿禰」として、高皇産霊尊の子の天太玉命の後裔である旨が記載されている。

== 忌部 ==
'''忌部'''(いんべ)は、[[大化]]以前に設けられた[[部民]]の1つ。

大きく分けて、朝廷に属する[[品部]](ともべ = 職業集団)と中央の忌部氏の[[部曲]](かきべ = 私有民)の2種類が存在した。

=== 分布 ===
朝廷の品部としての「忌部」は、出雲・紀伊・阿波・讃岐が代表的なものとして明らかとなっている{{Sfn|忌部氏(国史)}}{{Sfn|忌部氏(世界大百科)}}。『古語拾遺』では、天太玉命に従った5柱の神を「忌部五部神」として、各忌部の祖としている。
; 出雲忌部
:* 地域:[[出雲国]] - 現在の[[島根県]][[松江市]]東忌部町・西忌部町周辺。
:* 祖神:[[櫛明玉命]] - 忌部五部神。
:* 職掌:玉の貢納
:* 関係地
:** [[忌部神社 (松江市)|忌部神社]](島根県松江市)
[[File:Naru-jinja shaden.JPG|thumb|220px|right|{{center|[[鳴神社]]([[和歌山県]][[和歌山市]])}}]]
; 紀伊忌部
:* 地域:[[紀伊国]][[名草郡]]御木郷・麁香郷
:*: 『古語拾遺』では「御木」は木を採る忌部、「麁香」<ref group="注">『古語拾遺』では、古語に正殿を「麁香」というとする。</ref>は殿を造る忌部がいたことによるとする。『[[和名類聚抄]]』では、紀伊国名草郡に忌部郷と神戸郷(忌部神戸か)が見え、和歌山県和歌山市鳴神の[[鳴神社]]付近に比定される<ref>「忌部郷(名草郡)」・「神戸郷(名草郡)」『日本歴史地名大系 31 和歌山県の地名』 平凡社、1983年。</ref>。
:* 祖神:[[彦狭知命]] - 忌部五部神。
:* 職掌:材木の貢納、宮殿・社殿造営
:* 関係地
:** [[鳴神社]]([[和歌山県]][[和歌山市]]) - 式内社(名神大)。
:**和歌山市井辺(いんべ)
[[File:Inbe Shinto shrine.jpg|thumb|220px|right|{{center|[[忌部神社]](徳島県徳島市)}}]]
; 阿波忌部
:* 地域:[[阿波国]][[麻植郡]]忌部郷
:*: 『古語拾遺』では郡名「麻植」は阿波忌部が麻を植えたことによるとする。また[[#阿波忌部の東遷説話|後述]]のように『古語拾遺』には東遷説話が記されている。
:* 祖神:[[天日鷲命]] - 忌部五部神。
:* 職掌:木綿・麻布の貢納
:* 関係地
:** [[大麻比古神社]]([[徳島県]][[鳴門市]]) - 式内社(名神大)。
:** 忌部神社 - 名神大社。[[延喜式神名帳#論社|論社]]に[[忌部神社 (吉野川市)|忌部神社]](徳島県吉野川市)、後継社に[[忌部神社]](徳島県徳島市)。
; 讃岐忌部
:* 地域:[[讃岐国]]
:* 祖神:[[手置帆負命]] - 忌部五部神。
:* 職掌:盾の貢納
:* 関係地
:** [[粟井神社]]([[香川県]][[観音寺市]]) - 式内社(名神大)。
:** [[讃岐神社]]([[奈良県]][[北葛城郡]][[広陵町]]) - 式内社。

また『古語拾遺』には筑紫・伊勢に[[天目一箇神|天目一箇命]](あめのまひとつのみこと:忌部五部神)を祖とする忌部があったと記し、この神に刀・斧・鉄鐸・鏡などを作らせたという記述がある。
このことから、鍛冶として刀・斧を貢納した忌部がいたものと推測されている{{Sfn|忌部氏(国史)}}。<!--他の忌部と比べ実証性が低いので、同列の箇条書きとはしない。-->そのほか、備前・越前にも忌部が分布したと見られている{{Sfn|忌部氏(世界大百科)}}。

これら忌部のうち、紀伊忌部は直接中央の忌部氏に隷属していたが、他の忌部は国造の管轄下にあり、国造を介して中央への上納を行なっていた{{Sfn|忌部氏(国史)}}。

=== その他 ===
四国の阿波、房総の安房に限らず、伊部(いんべ)・井辺(いんべ)など[[三重県]]や[[奈良県]]には忌部氏に関係すると見られる地名が残る。

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== 主な忌部(部民)の後裔 ==

* [[織田氏]]([[平氏#桓武平氏|桓武平氏]]を称するが、その祖である[[平親真]]は忌部氏という説がある)
* 玉作氏(出雲忌部)
* [[麻植氏|麻殖氏]](社家、阿波忌部)
* [[麻生氏]](阿波忌部)
* 早雲氏(阿波忌部)
* [[三木家]](阿波忌部直系本家・現在でも[[即位の礼|天皇陛下即位]]の際、[[大嘗祭]]に麁服を調進している)<ref>{{Cite web |url=https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000350493&page=ref_view |title=【国会図書館リファレンス協同サービス】徳島県木屋平の三木家の歴史について |access-date=2024-12-3 |publisher=国立国会図書館 |author=徳島県立図書館 |language=ja}}</ref>

== 阿波忌部の東遷説話 ==
『[[古語拾遺]]』等では、部民である阿波忌部による[[房総]]の地名起源として次の東遷説話が知られる。

=== 記録 ===
[[File:Awa-jinja, haiden.JPG|thumb|220px|{{center|[[安房神社]]([[千葉県]][[館山市]])}}]]
『[[古語拾遺]]』([[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])成立)<ref group="原">『古語拾遺』({{Harvnb|安房坐神社(神道・神社史料集成)}}参照)。</ref>や『[[先代旧事本紀]]』<ref group="原">『先代旧事本紀』「[[天皇本紀]]」。</ref>の説話によれば、忌部氏遠祖の[[天富命]](天太玉命の孫)は各地の斎部を率いて種々の祭祀具を作っていたが、さらに良い土地を求めようと[[阿波国|阿波]]の斎部を率いて東に赴き、そこに麻([[アサ]])・穀([[カジノキ]])を植えたという{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=604-612}}{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012年|pp=33-35}}。

同書では続けて、[[天富命]]が植えた麻が良く育ったのでその地を「[[総国]](ふさのくに)」というようになり、また穀の木が育った地を「[[結城郡]]」というようになったとし{{sub|(分注に、麻は「総(ふさ)」の古語とし、また[[上総国]]・[[下総国]]の2国がこれにあたるとする)}}、阿波斎部が移住した地は「[[安房郡]]」と名付けられたとする{{sub|(分注に、これが[[安房国]]の国名になったとする)}}。また、同地には「太玉命社」を建てられ、これが「安房社」(現在の[[安房神社]]([[千葉県]][[館山市]])に比定)にあたり、その[[神戸 (民戸)|神戸]](神社付属の民戸)には斎部氏があるとも伝えている{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=604-612}}{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012年|pp=33-35}}。

=== 考証 ===
説話のうちでは「総(ふさ)」を麻の古語とするが、現在までの研究では「総」の字に麻の意味はないとされている{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=51-54}}<ref name="地名事典"/>{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012年|pp=33-35}}<ref name="ふさの国">[https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/sonohoka/kyoudo/kendo.html 「ふさの国」と豊かな県土](千葉県ホームページ)。</ref>。そのため、「麻を束ねたもの」から「総」が連想されたとする説や{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012年|pp=33-35}}、麻とは関係なく河川氾濫の土砂流による「ふさ(塞)」が原義で、これに「総」があてられたとする説が挙げられている<ref name="地名事典">吉田茂樹 「ふさ(総)」『日本古代地名事典 コンパクト版』 新人物往来社、2001年。</ref>。これらに対して、[[藤原京#郡評論争に決着を付けた木簡|藤原京]]から出土した木簡のうちに「己亥年十月上捄国阿波評松里」として「総」の代わりに同訓の「捄(ふさ)」の表記が見え<ref group="注">「上捄国」はかつて「上挟国」と解読されていたが、『千葉県の歴史』で「上捄国」と解読し直されている {{Harv|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|p=51}}。</ref>、『古語拾遺』の説話を簡単には信じられないながらも{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=51-54}}「房をなして実る物」という「捄」の意味は麻の実にも該当することから、[[大宝 (日本)|大宝]]4年([[704年]])<ref group="原">『続日本紀』慶雲元年(704年)4月甲子(9日)条<!--慶雲への改元は5月10日であるが『続日本紀』のうえでは慶雲元年条-->。</ref>の国印頒布による表記統一以前に房総地域が実際には「捄」と称された可能性が指摘される{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=51-54}}<ref name="ふさの国"/>。なお房総地域の「上下」の分割は「前後」の分割よりも古く、『帝王編年記』において上総国の成立を[[安閑天皇]]元年([[534年]])<ref group="原">『帝王編年記』巻7 安閑天皇元年。</ref>とすることから[[6世紀]]中葉と推測する説や<ref>「総」『古代地名語源辞典』 [[楠原佑介]]他、[[東京堂出版]]、1981年。</ref>、それより下る[[天智天皇]]朝([[668年]]-[[672年]])頃と推測する説がある{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=51-54}}(以上の詳細は「[[総国]]」を参照)。

『古語拾遺』では安房に移住した阿波忌部が「安房忌部」となったように記されているが、古代史料では、[[安房郡|安房郡司]]や[[安房神社]]神職など在地関連人物で忌部氏の存在は知られず、むしろ安房地域に勢力を持ったのは[[大伴氏|膳大伴部]](かしわでのおおともべ、単に大伴部とも)であった{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=604-612}}{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012年|pp=33-35}}。なお、この膳大伴部は、『[[高橋氏文]]』逸文<ref group="原">『本朝月令』6月朔日内膳司供忌火御飯事所引『高橋氏文』逸文({{Harvnb|安房坐神社(神道・神社史料集成)}}参照、[{{NDLDC|1879469/56}} 『群書類従 第五輯』]<国立国会図書館デジタルコレクション>56-57コマ参照)。</ref>によれば膳氏(かしわでうじ、のち高橋氏)に統括されて天皇の食膳調達にあたったという部民氏族で、その人物名は国史<ref group="注">『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850年)6月己酉(3日)条に安房国国造の「伴直千福麻呂」、『続日本後紀』承和3年(836年)12月辛丑(7日)条に安房郡人の「伴直家主」が見える {{Harv|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|p=606}}。</ref>・『先代旧事本紀』<ref group="原">『先代旧事本紀』「[[国造本紀]]」阿波国造条。</ref>・平城京出土木簡に散見される{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=604-612}}。また[[阿波国造]](安房国造)も同氏族の大伴直氏(伴直氏)であったことから、安房神社の祭祀および安房郡司はこの一族が務めた可能性が高いと考える説がある{{Sfn|安房斎部(千葉大百科)|1982年}}<ref name="安房国">「安房国」『日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』 平凡社、1996年。</ref>{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=604-612}}。

『古語拾遺』自体が中臣氏との勢力争いの中で正統性と格差是正の目的で編纂されたものであるため{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=959-964}}、一説として安房への東遷説話の造作には東国(特に常総地方)の中臣氏勢力と対抗する目的があったと指摘される{{Sfn|忌部(国史)}}。また、数少ない安房関係人物として[[天平]]2年([[730年]])の「[[安房国義倉帳]]」に安房国司の目と見える忌部宿禰登理万里(忌部鳥麻呂か。中央から赴任した可能性が高い<ref name="安房国"/>{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=604-612}})の存在から関連づけたと推測する説や{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=604-612}}、安房神社の祭祀・神戸に忌部氏の関与を仮定すればこれに阿波忌部が結びつけられたと推測する説{{Sfn|安房斎部(千葉大百科)|1982年}}{{Sfn|千葉県の歴史(山川)|2012年|pp=33-35}}、そのほか古くから黒潮を通じて人々の交流があったことが説話成立の背景にあると見る説などがある<ref>「総論」『日本歴史地名大系 12 千葉県の地名』 平凡社、1996年。</ref><ref name="ふさの国"/>。

=== 伝承地 ===
千葉県域には天富命の東遷に関して多くの伝承地が残る<ref>[http://furusato.mbit.or.jp/modules/dbx/?op=story&storyid=214 古代の館山と神話](南房総データベース)。</ref>。そのうち主なものは次の通り。
* [[安房神社]]([[千葉県]][[館山市]])
*: 式内名神大社「安房坐神社」。「坐」は[[天太玉命神社]](総氏神)を意識しての記載とする説がある<ref>「安房神社」『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』 [[谷川健一]]編、[[白水社]]。</ref>。[[昭和]]7年([[1931年]])には境内付近で海食洞窟および多数の人骨が発見され、安房神社側ではこれを忌部氏に仮託し「忌部塚」として祀る。
* 后神天比理乃咩命神社(天比理刀咩命神社)
*: 式内大社。祭神は安房神の后神とされる。論社に[[洲崎神社]]と[[洲宮神社]](ともに千葉県館山市。元々は同一神社か)。『[[類聚三代格]]』には「膳神」を祀る「阿房の刀自部」が見え、このような女性祭祀集団との関連性が指摘される{{Sfn|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年|pp=604-612}}。
* [[布良崎神社]](千葉県館山市)
*: 安房神の最初の鎮座地を称する。
* [[下立松原神社]]
*: 式内社。[[南房総市]]に論社2社。祭神に天日鷲命(阿波忌部祖)。
* [[遠見岬神社]](千葉県[[勝浦市]])
*: 天富命の没した地という。

== 忌部氏の系図とそれに対する批判 ==
忌部氏の系図とされるものは、[[安房神社]]に伝わったとされる「安房国忌部家系」、[[下立松原神社]]に伝わったとされる「忌部岡島家系」、「斎部宿禰本系帳」の3種があり、現在国会図書館デジタルアーカイブにて公開されている[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538213]が、これらの系図には[[国学者]]・[[小杉榲邨]]による頭書が記されている。その内容は、それぞれの系図に対する批判([[鈴木真年]]による偽作を看破している)である{{efn|「安房国忌部家系」の頭書の原文「明治九年四月、小杉椙邨今の戸主高山義行に就いて、この家系本書と云うものの巻子を目撃するに、その料紙は美濃帋というものをつなぎ立て、正楷にものせる筆蹟など、今四五十年ばかりに過ぎるものと見ゆ。されど、紙中のすすけ痛みなどのやうは今少し古びたる如くにもしたり。軸は無けれど、表紙の修復は赤地の錦と云うものの色もあせ、金もさびて打見には殊勝なり。全編すべて疑わしきものなれども、何の種とする残闕などありてかくの如く成文せしならんとかつかつ思ゆる所なきにあらず。されば、暇のひまひま原本に比べ見るに、この写本は全く細矢康雄がさかしらに句読、及、傍訓などものせしならん。 原文は白文也。原のままに赭色をさして備考に当てんとす。}}{{efn|「忌部岡島家系」の頭書の原文「明治九年八月、椙邨の岡島家に依頼して此家系原本を目撃するに、美濃帋に本行のごとくして、今三四五年前に執筆せし如く見ゆる一本を便りにつけて指出せり。この家、近来、度々焼失にて何も旧物なしと云う。この家系は他家より写しを取りて、今、伝来のものとすとぞ。実に論外の事ならずや。今の戸主義鑑に面語せざれば委しく聞く由なし。尚、この項に出せる小野家系の論に併せて説くことなし。往見すべし。}}{{efn|「斎部宿禰本系帳」の頭書の原文「明治九年八月、今の戸主小野義久に親しく接して、この本系帳と云うもの今の原本を見るに同じく巻子にして表装は利休紙と云う茶色形の物もて新しくしつらいたり。さて、その本文の筆蹟も高山のよりは今一際後のものと見えて、料紙は西の内と云う紙を上下の裁ちめでわざとしどけなきさまに贋作せり。この諸すべて江戸人鈴木舎人([[鈴木真年]])の手に成りよし。六年七月、栗田寛、語りし事ありしを記念すれば、直ちに其の話を義久に面語するに顔うちあからめて鈴木がこの本系帳を見て・こはいと誤まれり。自ら輯録せる古系譜に比較して改正せば、いとめでたからんと説く。またまたよきやうにとて依頼せしかば、三四十日経て一本かき調えてものせしを別に持っており、と答う。余、又いえらく其れはいとよき事なり。同じくは其の鈴木が自筆の別本をも見せよかしとてその後十日許り経てかの別本を見るに思ひしに違わずに、その本系帳の種本なり。熟々按ずるに、かの鈴木が自筆本をそここことわざと系統を倒置し、或いは、年序の先後など誑かして全くは別本の如く窺え出でたることその跡鮮やかなり。余、事に煩わしければ、今この書には心して手を加えず、余、別に鈴木が自筆本を写させ置つれば、なほ折を見てその別本を見比べて白々しき知れ事を発明し給え。鈴木舎人は、余、文久二年の春ばかり、初めて邂逅し、その後、中絶せしが、亦、この数年、折々に往来する人ながら、その心述は正しからざる如く人々云い、誹れり。 今は、中徒町二丁目辺り卜居して、司法省明法寮の出仕なりしか、今もかの省律令に関係する事、顧問として出仕すると云う。さて、猶原系譜贋作の名を取りて、柳庵翁に譲らぬほとのことなりと聞く。義久云う。我が家は中頃、度々の失火により、系譜も伝来の重器など皆焼失して実に慷慨に勝てず。この本系帳はいささか語り伝えし事と高山氏の系譜等を斟酌して、近来ものせし物成りとの云い伝えなりと云えり。之を以てしても、鈴木が贋作を主張せることを分別すべし。さて、この三家の系譜、三年庚午の度、神祇官より諸社に命じられて十ヶ条のご下問の 折、言上せる記録の内に見ゆ。最初、高山家の系譜には採るべきものあるにや、殊に、伝来の様も今少しく古かるべし。岡島・小野両家は恐らくご下問の折、卒然綴り合わせたるものならんと想像す。かの鈴木が手を出したという時代など思い合わすべし。細矢康雄は何の心もつかざるか。蓋し、意ありてこの贋物を信用せるか。聊かも疑うべからず。}}。

== 脚注 ==
'''注釈'''
{{reflist|group="注"}}
<references group="注釈"/>

'''原典'''
{{reflist|group="原"}}

'''出典'''
{{reflist|2}}

== 参考文献・サイト ==
'''史料'''
* 『[[古語拾遺]]』 - 大同2年(807年)の[[斎部広成]]による編纂。
** [{{NDLDC|1879557/5}} 『群書類従 第16輯』](経済雑誌社、1898-1902年、国立国会図書館デジタルコレクション)5-12コマ参照
'''書籍'''
* 百科事典
** {{Cite book|和書|author=|year=|title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=[[佐伯有清]] 「忌部」|ref={{Harvid|忌部(国史)}}}}、{{Wikicite|reference=佐伯有清 「忌部氏」|ref={{Harvid|忌部氏(国史)}}}}。
** {{Cite book|和書|author=|year=|chapter=忌部氏|title=[[世界大百科事典]]|publisher=[[平凡社]]|isbn=|ref={{Harvid|忌部氏(世界大百科)}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=1982|chapter=|title=千葉大百科事典|publisher=[[千葉日報|千葉日報社]]|isbn=|ref=}}
*** {{Wikicite|reference=鈴木邦子 「安房斎部」|ref={{Harvid|安房斎部(千葉大百科)|1982年}}}}、{{Wikicite|reference=宮原武夫 「総国」|ref={{Harvid|総国(千葉大百科)|1982年}}}}。
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2010|chapter=忌部氏|title=日本古代氏族人名辞典 普及版|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4642014588|ref={{Harvid|忌部氏(古代氏族)|2010年}}}}
* 地方自治体発行書籍
** {{Cite book|和書|author=|year=2001|title=千葉県の歴史 通史編 古代2(県史シリーズ2)|publisher=千葉県|isbn=|ref={{Harvid|千葉県の歴史 通史編 古代2|2001年}}}}
* その他書籍
** {{Cite book|和書|author=瀧音能之|authorlink=瀧音能之|year=2011|chapter=忌部氏|title=古代豪族のルーツと末裔たち(新人物文庫180)|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=978-4404040848|ref={{Harvid|瀧音能之|2011年}}}}
** {{Cite book|和書|editor=|author=|year=2012|chapter=|title=千葉県の歴史(県史12)第2版|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634321212|ref={{Harvid|千葉県の歴史(山川)|2012年}}}}

'''サイト'''
* {{Cite web|和書|url=http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/kindex2.php?J_ID=22817|author=|title=太玉命神社四座(大和国高市郡)|work=|publisher=國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」|date=|accessdate=2015-11-1|ref={{Harvid|太玉命神社四座(神道・神社史料集成)}}}}
* {{Cite web|和書|url=http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/170101.html|author=|title=安房坐神社(安房国安房郡)|work=|publisher=國學院大學21世紀COEプログラム「神道・神社史料集成」|date=|accessdate=2015-11-1|ref={{Harvid|安房坐神社(神道・神社史料集成)}}}}

== 関連項目 ==
* [[杉山神社]] - [[武蔵国]][[都筑郡]]の式内社(論社多数)およびその分社。紀伊忌部が当地を開墾し祭祀したという。
* [[佐備神社]]([[大阪府]][[富田林市]]) - 式内社。忌部氏の流れを汲む佐味氏が祭祀したという。
* [[竹取物語]] - かぐや姫の名付け親は「みむろとのいんべのあきた(三室戸斎部秋田)」。
* [[三木家住宅 (美馬市)]] - 阿波忌部後裔である阿波三木氏本家の旧住家屋。国の重要文化財。阿波忌部の資料を公開している三木家資料館を併設。
<!--* [[忌部神道]]--><!--未立項の項目につきコメントアウト-->

==外部リンク==
*[http://www.awainbe.jp/ 忌部文化研究所]
*[http://www3.tcn.ne.jp/~aska/ 阿波歴史民族研究会]

{{DEFAULTSORT:いんへうし}}
[[Category:忌部氏]]
[[Category:日本神話]]
[[Category:民族他]]

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