'''神農'''(しんのう)、'''炎帝神農'''(えんていしんのう)は、古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。人々に医療と農耕の術を教えたという。'''神農大帝'''と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。'''薬王大帝'''(やくおうたいてい)、'''五穀仙帝'''(ごこくせんてい)とも。'''人身牛首'''の姿をしていた、とされる。 炎帝とは中国の伝説的な帝王。'''姜(きょう)姓の祖'''。神農と習合して炎帝神農氏と呼ばれ,火,竈(かまど),太陽などに関係づけられる<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%82%8E%E5%B8%9D-447966 炎帝【えんてい】]、百科事典マイペディア、平凡社、コトバンク</ref>。 炎帝と神農が習合しているため、炎帝と神農は同一のように語られるが、同一でない場合もあり、注意が必要である。
== 概要 ==
== 炎帝神農氏 ==
神農は初代炎帝ともされる。初代'''神農は初代炎帝ともされる'''。初代'''炎帝'''は、古代中国の王で、姓は姜。120歳まで生き、長沙に葬られたといわれている。もしくは陳に置いていた都を魯に移し、140年間在位したとも伝えられている<ref>小曽戸洋, 新版 漢方の歴史――中国・日本の伝統医学――, 2018-10-01, 大修館書店, あじあブックス076, isbn:9784469233162, page41</ref>。『帝王世紀』には'''五弦の琴'''を発明し、また伏羲の作った八卦を2段に重ね、さらに研究して8x8の六十四の卦を作ったとある<ref name="teio" />。神農の末裔たち炎帝神農氏は黄帝との衝突ののち合併・融合した<ref>この考え方からすれば、黄帝と炎帝は'''兄弟ではなかった'''という考えもあることが示唆される。</ref>。炎帝と黄帝の戦いを「[[阪泉の戦い]]」と言う。この子孫が後の漢族とみなされている。西晋代に至ると西周以前に漢水流域に居住していた農耕部族の歴山氏と同一視されるようになった。
伝説では'''炎帝'''と黄帝は異母兄弟であり、『国語』には、炎帝は少典氏(有熊氏?)が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗った<ref> [http://ctext.org/text.pl?node=24719&if=gb 國語]</ref>とある。また『帝王世紀』には、神農は、母が華陽に遊覧の際、'''龍の首'''が現れ、感応して妊娠し姜水で産まれ、'''体は人間だが頭は牛の姿であった'''。火の徳(木の次は火であること、南方に在位すること、夏を治めること)を持っていたので炎帝とも呼ぶ。とある<ref name="teio" > [http://ctext.org/dictionary.pl?if=gb&id=367846 帝王世紀 ] </ref>。
神話伝説に登場する神のなかにも、炎帝神農氏の子孫・末裔であると語られる存在が多くいる。
* [[祝融]]
* 后土
* [[共工]]
* 瑤姫
* 精衛
中国国民党の政治家で中国古代史に深い造詣があった呉国楨(1903 - 1984年)は、その論文の中で炎帝の「炎」と、彼の伝えたと信じられている焼畑農業の炎との関係を論じている<ref> Wu, K. C. (1982). The Chinese Heritage. New York: Crown Publishers. [https://archive.org/stream/chineseheritage00wuku#page/56/mode/2up]</ref>。
== 神農氏 ==
'''神農氏'''(しんのうし)は、古国時代の[[伏羲]][[女媧]]政権と黄帝有熊氏の間の時期に存在したとされる、伝説上の'''姜姓の氏族'''である。また、黄帝有熊氏、蚩尤と同祖であるとされる<ref group="注釈">伝説上は、[[黄帝]]と炎帝がそれぞれ姫水・姜水のほとりで生まれた兄弟であり、[[蚩尤]]と神農氏はともに'''姜姓'''であるとされる。</ref><ref group="注釈">ただし、ここでの炎帝は、後述の通り、神農氏とは限らない。また、黄帝は少典氏出身とされている。</ref><ref>[https://ctext.org/guo-yu/zhou-yu-shang/zh 國語]</ref><ref name="帝王" />。
=== 概要 ===
伝説では、紀元前3000年頃、神農が即位し、初代炎帝となった。都を陳に置き、補遂国を滅ぼしたとされる。また、風沙が起こした反乱を鎮圧し、'''茶の栽培'''を発明したとされる。
しかし8代'''炎帝楡罔'''の時期には、'''姜姓で同族にあたる[[蚩尤]]に敗れ'''、軒轅(後の[[黄帝]])に助けを求め、炎黄連合軍で蚩尤を破った([[涿鹿の戦い]])が、'''[[阪泉の戦い]]で黄帝に滅ぼされた'''。これにより、黄帝有熊氏による支配が始まった<ref name="帝王" />。
これについては、風姓氏族(伏羲女媧政権)から姜姓氏族(炎帝神農氏)、そして姫姓氏族(黄帝有熊氏以降)へ政権が遷った事は、伝説ではあるが、そのモデルとなった出来事があったのではないかという意見が存在する(=信古派)。
=== 炎帝 ===
炎帝号に関しては、大庭氏が炎帝を名乗ったとされ、炎帝号は神農が新たに創始した称号ではなかったとされる。また、大庭氏の時代、風姓の8氏族に代わり、姜姓の5氏族が中華を治めるようになり、そのうち最も有力であったのが後の神農氏である、とされる<ref name="帝王">[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=838808 帝王世紀]</ref>。
=== 帝室 ===
また、飛龍氏、潜龍氏、居龍氏、降龍氏、土龍氏、水龍氏、青龍氏、赤龍氏、白龍氏、黒龍氏(黄龍氏)の氏族が太陽神・神農の子孫として支配したとされるが、当時の「氏」を太古時代のように個人として扱う場合は、10代8帝の帝室と符合する<ref group="注釈">殷の九陽撃墜神話の初期条件とも酷似しているため、注意が必要である。</ref>。
=== その後 ===
[[阪泉の戦い]]での滅亡後、一族は四散したとされるが、これは西に逃れた先<ref group="注釈">孤竹国の君主であったならば、孤竹国は河北省周辺にあったとされるため、北東に逃れた事になる。</ref>の羌族と同化した一族である。伯夷・叔斉については詳しく記録があり、孤竹国の君主となったともされる。
*炎居 帝楡罔の子<ref>《山海経 海内経》炎帝之妻,赤水之子聴訞生炎居,炎居生節並,節並生戯器,戯器生祝融,祝融降処于江水,生共工,共工生朮器,朮器首方顛,是覆土壌,以処江水。共工生后土,后土生噎鳴,噎鳴生歳十有二。」</ref>。
*節並 炎居の子。
*戯器 節並の子。
*[[祝融]] 戯器の子。火事の象徴とされる<ref group="注釈">共工と対立していたとされる。</ref>。
*[[共工]] [[祝融]]の子。水害の原因とされる<ref group="注釈">中華王朝の仮想敵と見做されることが多く、複数の時代にこの名が見られる場合がある。</ref>。
*勾龍 [[共工]]の子。
*[[夸父]] 勾龍の子。
*竹猷
*亜微 竹猷の子。
*伯夷・叔斉 亜微の子。武王克殷に反対し、餓死。
後にこの一族は'''呂'''を姓とした。また、末裔に太公望(呂尚)や呂不韋(秦の丞相)がいるともされる。しかし、伯夷・叔斉は墨胎氏の子允(公信)・子致(公達)<ref group="注釈">それぞれ姓+諱(字)という表記である。</ref>とされており、子姓であった事となり、伝承に混乱がみられる。
== 信仰 ==
また、日本で神農は「神農皇帝」の名称で、香具師・てき屋業界では守護神・まもり本尊として崇敬されている。これは神農の時代に物々交換などの交易をする市場がはじめられたこと、また神農の子孫であるとされる融通王が日本ではじめての露天商であるという伝説などが理由であるとされてきた<ref>佐藤一羊 『神農の由来 附・香具師虎之巻』 1930年 神農社 - [NDLDC:1461093 国立国会図書館デジタルコレクション]</ref>。儀式では祭壇中央に掛け軸が祀られるほか、博徒の「任侠道」に相当するモラルを「神農道」と称している。
== 私的解説・炎帝と神農の関係 ==
炎帝とは
* 実在したと思われる[[饕餮]]に相当する人物
[[城背渓文化]]で発見された「太陽神石刻」という石には'''弁髪'''と思しき神人の像が刻まれている。これが古代の「太陽神」であり、王権の象徴であるならば「炎帝」との関連が示唆される、と管理人は考える。古代における北方の「弁髪の人々」は、中原に略奪しに来ていた人々のことであろうし、その本拠地にいる時も、農耕ではなく牧畜を行っていたと考えられる。特に稲は暖かい地方で栽培されるものであり、中国東北部以北で古代に栽培されることはあり得ないことである。よって、彼らが稲作栽培の技術を発明した、とは状況から言いがたいと感じる。それよりも稲の収穫ごと、稲作に関する技術も略奪して、中原の人々を支配した、と考える方が妥当ではないだろうか。
また、[[蚩尤]]が炎帝と「同じ物」であって、[[饕餮]]が[[蚩尤]]の首を現すのであれば、[[饕餮]]は「炎帝の首を現す」ともいえる。その場合、「太陽神石刻」の「弁髪の神人」はまだ「黄帝に倒された」という伝承が発生する以前、そのような歴史的事実が発生するよりも前の、'''ありし日'''の「蚩尤」の姿でもあった、といえるのではないだろうか。
== 参考文献 ==
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BE%B2 神農](最終閲覧日:22-08-26)
* Wikipedia:[https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BE%B2%E6%B0%8F 神農氏](最終閲覧日:22-08-26)
== 関連項目 ==
* [[盤古#私的考察・盤古から須佐之男命へ]]:[[黄帝]]が炎帝の兄弟へと作り替えられていく過程の考察。* [[解夫婁王#私的解説・北東アジアの始祖について]]:[[黄帝]]と炎帝が近親ではなかった、という点について。* [[阪泉の戦い]]*[[蚩尤]]:炎帝の殺される相。牛相。**[[饕餮]]:殺された炎帝。*[[ミャオ族]]*[[大渓文化]] === 派生類話 ======= 蘇生・再生型 ====* [[小栗判官]]* [[美女と野獣]] == 注釈 ==<references group="注釈"/>
== 参照 ==
{{デフォルトソート:しんのうえんていしんのう}}
[[Category:中国神話]]
[[Category:太陽神]]
[[Category:炎帝炎帝型神|*]]
[[Category:医薬神]]
[[Category:農耕神]]
[[Category:龍竜]]
[[Category:牛]]
[[Category:炎黄闘争]]
[[Category:弁髪饕餮]]
[[Category:樹木信仰]]