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3,312 バイト除去 、 2024年11月30日 (土) 18:43
== 私的解説・炎帝と神農の関係 ==
管理人の理解が、そもそもここからあやふやであったので、覚書として書く。どうやら中国の伝承では 伏羲とその一族(風姓) → 神農とその一族(姜姓) → 黄帝とその一族 と古代の王権(皇帝)が入れ替わりながら続いた、という大筋になっているのではないかと思う。神農とその一族が皇帝であったとき、その皇帝の称号のようなものとして「'''炎帝'''」と呼んでいたと思われる。初代の炎帝が神農とされ、さまざま業績があった、とされているので、「'''炎帝神農'''」として、彼のみが強調されて炎帝であるかのように語られることとなった面があるようである。ただし、歴史的伝承の上では、「炎帝」の世は10代ほど続き、10人の炎帝が存在した、とされている、という印象を受ける。  「皇帝」といえるような支配者が、'''「農耕を司る」とされて、太陽神と同一視され、皇帝そのものが炎帝(太陽神)と呼ばれるような思想が古代中国にあったのではないか'''、と推察される。'''皇帝が太陽神そのものであって、農作物をもたらしてくれるからこそ、その見返りとして人々は税を納めたり、労働力を提供しなければならないのではないだろうか'''。「皇帝さん、作物を教えてくれて、実らせてくれてありがとう。」という具合にである。そもそも作物そのものも皇帝が人々に与えてくれたものなのである。似たような概念に日本の「天皇」というものがあるように思う。天皇は'''農耕に関する祭祀の頂点を司る存在'''であるし、天皇の先祖で'''太陽神'''・天照大神の孫であるニニギが人々に稲をもたらした、とされる。そして、古代においては「出挙(すいこ)」といって、種籾を人々に貸し与える代わりに、収穫の一部を税として徴収する制度があった。これは、現代でいえば「税」でもあり、「特許料」のようなものでもあった、といえるのではないか、と思う。そして、古代中国で各王朝の皇帝たちは、決して自ら農民以上に農業に励むような存在ではなかったのだから、むしろ「'''農耕祭祀を司り、作物の特許的所有権を予め主張して、それらを根拠として人々から見返りを求め、人々を支配した'''」、すなわち「'''農業に関わる技術や収穫を(略奪して)独占した神'''」というのが「皇帝」というものの始めであり、そのような古い形態が日本のような中国の周辺の僻地に残っているのではないか、と考える<ref>[[城背渓文化]]の[http://bellis.sakura.ne.jp/mediawiki3/%E5%9F%8E%E8%83%8C%E6%B8%93%E6%96%87%E5%8C%96#.E6.B0.91.E4.BF.97.E5.AD.A6.E7.9A.84.E7.A7.81.E7.9A.84.E8.80.83.E5.AF.9F 民俗学的考察]を参照のこと。</ref>。これが、管理人が炎帝神農のことを「'''特許神'''」と呼ぶ所以となっている。炎帝神農が特許神であるならば、日本神話のニニギ、ニギハヤヒ、須佐之男も「特許神」といえる存在である。炎帝とは
* 実在したと思われる[[饕餮]]に相当する人物
[[城背渓文化]]で発見された「太陽神石刻」という石には'''弁髪'''と思しき神人の像が刻まれている。これが古代の「太陽神」であり、王権の象徴であるならば「炎帝」との関連が示唆される、と管理人は考える。古代における北方の「弁髪の人々」は、中原に略奪しに来ていた人々のことであろうし、その本拠地にいる時も、農耕ではなく牧畜を行っていたと考えられる。特に稲は暖かい地方で栽培されるものであり、中国東北部以北で古代に栽培されることはあり得ないことである。よって、彼らが稲作栽培の技術を発明した、とは状況から言いがたいと感じる。それよりも稲の収穫ごと、稲作に関する技術も略奪して、中原の人々を支配した、と考える方が妥当ではないだろうか。

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